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防空壕から空中戦が見えた

ページ番号:0002202 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

戦争末ごろは、日本に飛来した敵国アメリカの飛行機による爆撃空襲が激しくなったので、「防空壕造り」がはじまった。三部壱地区でも出歩(共同)作業で、尾元墓地沿いの切り通しに、集団避難のための防空壕が数箇所堀られた。しかし、老人や子どもには場所が遠くて避難するには間に合わないので、近隣でも身近な屋敷内や畑の一角に防空壕が造られた。わが家でも50m程離れた所に畑地があったので、祖父や父親など男手による作業で防空壕掘りをした。
しかし、壕は素人による手作業で造られたので広さは畳み位で、深さは子どもの高さがやっとだった。屋根のかぶせ材は、小屋に囲っていた古柱材や薪用の棒木などを寄せ集めて、壕穴の両壁に渡して乗せ屋根にした。その上には、上泥が内部に漏れないよう有り合わせの床板材や杉皮を広げた。その後は、周囲の畑土を10cm程盛ってかぶせ仕上げた。
近所の壕を真似て造った簡素な防空壕だったので、狭い出入り口には板戸を立て掛けただけだったが、内部は畳み1枚位の広さで、高さも子どもの背丈位にはなったので、寄り添えば大人5~6人は入られる大きさになった。また、内部奥壁には明かり取り用に狭い透き間が開けてあったので、屋外を見るのぞき口になった。同じ頃、畑道を隔てて隣近所2~3軒合同の大きな防空壕も造られたので、避難時には心強かった。
ある晴れた日のこと、敵機襲来を知らせる空襲警報のサイレンが、かん高く「ブーブー」と鳴り響いた。サイレンは遅れて鳴ったのか、外に出た時には、空は騒がしかった。母親からは防空頭巾をかぶせられ、あせがられ(焦り)ながら防空壕へ逃げ込んだが、慌てた祖父母や姉達も前後して防空壕へ入った。祖父は、敵の飛行機が飛んでくるのではないかと空を見回していたが、みんなは、簡素な防空壕だったので、敵機に発見されれば機銃掃射でやられると怖かった。しばらくして何事もなく過ぎた頃、西の方角の上空から「パンパン」とかん高い鉄砲の音が聞こえた。みんなは、「なんだろう。」と防空壕ののぞき口から西の小江深海方向を見上げると、青空の中に小さな飛行機が「キラリ、キラリ」と光って動いているのが見えた。さらに小さな飛行機は、「ブーン」とかすかなエンジン音を響かせながら、「みずすまし」のような弧(こ)を描いて飛んでいたが、再度「パンパン」という音が上空から響いてきた。
敵機は、防空壕からは見えなかったので、みんなは「日本の戦闘機が、機関銃を撃ちながら敵機をやっつけているもの」と思っていたところ、祖父が「日本の戦闘機がやられたばい。」と叫んだ。みんながのぞき口から西の空を見上げると、青空の中で小さな飛行機1~2機(プロペラが2台だったので、日本の爆撃機のようだった)が、飛行機雲のような一筋の黒煙を引きながら大きな円を描き、山手の方に降下するのがはっきりと見えた。ぼう然と眺めている間に、小さな飛行機は山陰げに隠れて見えなくなった。東の水の浦の方へ行ったのは(灰色の飛行機)敵機『B29』のようだった。他の飛行機は姿を見せないまま、大空の騒ぎは収まったが、西の空全体には薄黒い煙幕だけが残っていた。この小さな戦闘機は、大村飛行場から飛び立って敵機との空中戦をしたようだが、敵国アメリカの大型爆撃機『B29』は1万mの高空を飛行していたので、日本の戦闘機はそこまでは上昇できなかった。そのため、敵機からは機関砲の集中砲火を浴びて撃墜されたようだ。防空壕からは、日本の戦闘機1機が敵機と空中戦をして撃墜されたのを見てしまったが、そのはがゆさ悔しさから、「もっと日本の戦闘機が飛んで来てくれれば、敵の飛行機もやっつけられるのに」と思った。今では、防空壕の跡地を歩き眺めるたびに戦争のむなしさが込み上げる。

煙幕の中にサイレンが響いた(わが家の店先から)のイラスト

(平成27年12月寄稿)