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神様、仏様に生かされて
子どもたちへの伝言
~神様、仏様に生かされて~ (諫早市小野町)
諺に九死に一生とあるが、小生十死に一生を今回貴重な体験を致した老人である。
十月一日諫早記念病院に入院。十一月二十八日、二ヶ月近く入院した。九十六歳に近い老人である。
諫早旧中学三年で、大村海軍航空廠に「0戦や紫電改」の戦斗機作りに学徒動員され、十四、五歳の食い盛りの少年が、「カマキリ虫」みたいに「ヤセ」、食いたい一念で、家に帰れば食物がある人は、土曜、日曜を利用し帰って良いとされ、大村竹松の老人ホームから諫早市小野町まで、「ワラゾウリ」で帰った体験を持ち、途中、鈴田の峠あたりで「ゾウリ」もつぶれて、砂利道を「ハダシ」で帰り、現在では想像もできない体験を有している。
昭和二十年八月九日、十一時二分、長崎浦上の原爆が、竹松の大村空港入口の大橋のたもと約百米の右海岸で、何も遮るものがないので、直接閃光と爆風と「ゴミ」をあびた。また、二百五〇kg爆弾を三十~五十米の近くで受けた体験を有している。
当時、消防団長をしていた父は、浦上の被爆で一家全滅の被害を受けた弟(私の叔父)を救い、父は叔父と共に私の実家で世をさった。叔父は、私の実家で死亡し、死亡時刻を知らず硬直した状態だった。当時は夏の盛りで元気な男は誰も居らず、私一人だったので、一人で裸と裸を接して、一人で納棺した体験を有する。それでも私は原爆による発病をしていない。本当に不思議で、今は亡き娘の五十年忌を病床で想い出している。当時小野中学三年の元気な女の子と日曜、祭日の天気が良い日は、よくテニスをしたもので、一ヶ月もせず急性白血病で亡くなった。洋子の分まで百歳を目標に頑張りたい。
残された人生、余生を現在もつづいている奉仕活動に専念したい。それが出来れば、人生悔いのない最大の幸である。
(令和8年1月寄稿)

