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奇跡の命に恵まれて
子どもたちへの伝言
~奇跡の命に恵まれて~ (諫早市小野町)
生まれ育った小野平野は当時、七ヶ村の平和な農村であった。
第二次世界戦爭が始まって、小野平野は、海軍の飛行場が造られ、旧制中学二、三年生の頃は、勉強どころではなかった。勤労奉仕と云って飛行場つくりにトロッコを押して働かされた。
旧諫早中学三年生の時、大村海軍航空廠で「0式戦斗機とか紫電改」と云う戦斗機つくりに、昭和二十年八月十五日の終戦まで学徒動員された体験があり、勉強はほとんどしていない状態であった。終戦後すぐ、八月十六日は学校に帰り、一人一人に退耺金と云って、当時では大金二百円を貰い驚いた事を鮮明に現在も記憶している。
昭和二十年七月二十一日頃、第二十一海軍航空廠で、中学三年学徒動員中、現大村空港大橋の右たもと約百米位の海岸で、米軍艦戦機「グラマン」の機銃掃射を防空壕の入口がわからず土手で避難中、約十センチの所で機銃掃射を受け命拾いした体験がある。その時、女子工員に抱きつかれた事もある。
話は前後するが、幼き六歳の頃、小野平野の幹線の大きな川で溺れ命拾いの体験がある。命拾い三回目は、昭和二十年七月二十一日頃の警戒警報発令中は、海軍の舟で「三島」に避難中、突然米艦戦機の攻撃態勢の時、日本海軍「0式戦斗機」の援護で命拾いした体験記憶がある。命拾い四回目は、飛行機部品作制資材置場に十二時頃爆発設定の時限爆弾の所に資材の「ジュラルミン」の丸棒を取りに行き、大きな作業格納庫約五拾メートル離れた所に着く直前十一時五十五分頃爆発し命拾いの体験をし、二発目は海岸十米位の海の中で爆発し、水柱十五米位の高さを目撃した。命拾い五回目は、昭和二十年八月九日十一時二分長崎浦上の原子爆弾爆発の時も直接閃光と爆風、ゴミをあびた体験がある。浦上から空港まで高い山はなく海だったので秒速三十メートル位の爆風を受けた。
父は当時、小野町の消防団長を若い人が居なかったので、長く担当したのを記憶している。父は私に原爆手帳の申請を言ったが、当時の原爆体験者は結婚すると、子供は出来ないとの風評があり、多くの未婚者は申請しなかった。
終戦後直ちに学徒動員は、解除され諫早中学に戻りその時、学校講堂には、多くの被爆者が収容され数百人がいたと思う。被爆者全員露出した顔等は、うす黒く焼けただれた人のほとんどの人は、巾五ミリ、長さ五センチ位に裂けただれていて、なんとかかすかに動かす手腕には、信じられない悲惨にも既に一センチから二センチのウジ虫がわいていて、当時竹製のピンセットか割りばしで取った体験があり、水を欲しがり、必死で言葉にならないで手を伸ばし「水を!水を!」と云っていた。私は竹製のコップで水を飲ませると少し飲んだとたん天国冥土に行ってしまった。多くの人が。そして家に帰ってみると長崎市竹ノ久保町に住んで三菱造船勤務の私の父の弟の叔父は、家族全員死亡、叔父も八月二十五日頃私の実家で死亡。終戦で元気な男手はなく夜中十二時頃硬直した遺体発見。夏の最中なので裸のまま私の体重をかけ座り状態にして、一人で納棺した。
私の長女は元気そのもので中学三年まで元気で力も強く、自宅玄関まで坂道を自転車でついていた。この様に元気な娘と日曜日、祭日の天気の良い日は、小野中学校でテニスをしたものです。ラケットは現在も家にあります。その娘が予想も出来ない早さで急性白血病になり天国に逝きました。
原爆の閃光と爆風ゴミは途中さえぎる高い山がないので、台風なみの風速を体験した。
現在、長崎原爆資料館に保存されている私の絵は現実に体験したものである。
そして、NHKのテレビで、昭和四十三年頃、ニュースの時間に八ヵ月間ほど放映された。
九十五歳の現在まで、何の原爆の発病もなく生かされているのは、亡き娘と神様、仏様の加護のおかげと今も確信している。十二年前に頭の動脈りゅうが発生。大村の国立病院で手術し、意識不明三日間を体験して現在まで既に九回も命拾いをしている。
九十二歳で、自動車の免許証を返納してからは、あれほど飲んでいたアルコールを全く欲しがらないのが不思議である。変われば変わったものである。免許証を返納してからは、大好きな山登りも卒業している。
余生を地域の発展を願いできうる限りの奉仕をしたい。既に諫早市母子家庭援助等に努めている。すでに九十名は高校進学をしている。今後も出来得る限り他の奉仕を実行したい。幸いにも九十五才まで身体的にも恵まれ元気である。全く不思議である。何よりも楽しみは、毎週ボケ防止をかね、「老人ホーム森の里」に火曜、金曜と二日間通う事。出来る老人のタノシミ、会話の時間を有する事である。私にとっては、心身共に生き活きする日と時間である。本当に有難い得がたい場所と思っている。「森の里」では、話す人、会話を楽しむ人、無口の人さまざまである。人生それぞれ、色いろである。
お迎えの人生は、悔いのないものでありたい。「森の里」は私の兄も九十歳四ヶ月の人生を何年かお世話になった所で、その当時、十四、五年前から兄の状態確認のため、折を見て行ったものである。当時は、理事長の元気、若さその体操時の所作は、惚れぼれするものだった。現在も少し腰は前かがみであるが元気そのものである。あやかりたいものである。「森の里」に行く日、時間を持てるので皆さまとの会話も出来て非常に私に合って、得がたい場所環境である。早くすぐにも養子に恵まれれば、「森の里」の住人になりたいものです。思えば、私の子供の頃は、養子に来る人はたくさん居たものでした。時代が変われば、変わったものである。少子化は困ったものである。
妻が娘洋子が亡くなった時から家に「養子を、養子を」と云っていたのを叶えてやらず、今は毎日朝夕の仏前のお参り時に後悔している。今は、一日でも早く養子に恵まれる事を神様、仏様のお導きを祈念している。
(令和7年4月寄稿)