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地獄の初年兵体験記

ページ番号:0002227 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~地獄の初年兵体験記~

向井 安雄さん(諫早市)

20世紀も世界各国が覇権で争う時代が続き、私もその環境の中に生まれ揉まれる事になった。時代によっては様々であろうが、私が体験した96年間の出来事は、私なりに後世に生きる人達への道しるべとなって、よりよき人生を過ごして貰いたいとの思いから、筆を取る事になった。

さて、だらだらと記録的に書いても心に残らないと思うし、二度とありそうにもない私の時代の出来事であっても、現実に体験した離れ難い印象に残る事件を取り上げる。

本来私は子供の頃から病弱で体も小さく、只家では「家柄だ、みっともない事はするな」と育てられた。長じて戦争が激烈となり、貧弱な私はお国の為にならない、いっそ敵の空襲で死ねばよいと思っていた。まさかこの体で兵役に召集されるとは思いもしなかった。ところが満20才での徴兵検査がその年は19才に繰り下げられており、思いもよらなかった召集令状が舞い込んだ。

陸軍二等兵
<昭和20(1945)年6月撮影 向井陸軍二等兵 憧れの軍人となる>

雲仙行軍
<昭和15(1940)年6月1日 雲仙行軍 全行程徒歩>

 

勇躍佐賀電信第二連隊(通称一九四部隊)に入隊一つ星の初年兵として軍服を着た。当時の心境は只々此処で死ねると覚悟していた。病弱であった私は一般の人の考え方とは違いどこで早く死ねるかが望みであった。私が所属する内務班は約30人で、上等兵一等兵を古年兵といい数名が初年兵と寝起きを共にしていた。入隊当日は祝いの赤飯で穏やかであったが、翌日からはガラリと変わり「しごき」が始まる。兵舎の寝床は二段ベッドで初年兵の殆どは下段である。

夜が明ける頃起床ラッパが鳴る。即座に起き上りまず毛布を片付け、きちんと隅を揃えてズレのないように畳み、定位置に置かないと後でしごかれるのでおろそかにはできない。急いで服装を整え練兵場に集合し全員整列の上、部隊長が馬上から現れ訓示があるのが日課である。朝の行事が終わると集合が遅かった班では、しごきが始まり練兵場を数周走らされる。私は心臓が弱いので息切れして苦しいが、軍隊では言い訳は許されない。「倒れて後止む」のみである。その場にどう耐えるか以外には無い。

朝食が始まる。私は特別に日頃から咀嚼して食べていたので、軍隊の早喰いには耐えられない。後の話になるが結局ダウンする事になった。食事が終わると食器を洗い返納する。何の動作でも一番遅い者にはしごきが待っているのだ。

食べ物を噛み噛み水洗所へ急ぐ。七~八個の蛇口が並んでいて、そこで食器を洗ったり歯を磨いたりする。時々上官が側を通る事があり、一斉にその方を向いて敬礼する。元に戻って食器を洗おうとすると、洗っていた食器がない。盗まれたので罪人を探すよりは他人の物を早く手に入れねば、やがて員数合わせの時徹底的にしごかれる。そして「探して来い」との命令となる。これは盗んでこいとの裏言葉である。軍隊では員数合わせの為、よその班から盗むのはお互いに常に行われていて犯罪とは認識していない。本来はアルミの食器であったが、戦争の為不足していた。陶器が割れたのであれば補充すれば、あんな長期間の盗み合いの苦痛はなく訓練に励めたと思う。

昼間は練兵場での訓練や兵舎内での教習が日課である。軍の法規は殆ど暗記しなければならない。一年先輩ではあるが古年兵は全て暗記している。一般的には頭脳の善し悪しの成績とは関係なく、一年間で全ての初年兵が見事に暗記できているのは不思議な程である。従って大学出も小学校出も入隊後の二~三年は変わらないのには不思議に思った。

昼間の教課を終え宿舎に戻り夕食が終わると点呼が始まる。どんなに綿密に整理仕上げた積りでも難癖はつくものである。難癖探しが古年兵の楽しみであるからである。軍靴には編上靴、営内靴、班内での上靴(スリッパ)の三種類であるが、昼間の訓練に履いた軍靴の裏底の鋲に残っていた僅かの泥に手入れ不充分と難癖をつけてしごき始める。しごきは鉄拳やスリッパばかりではない。「貴様今日は犬の真似をして各班を廻ってこい」である。この形式は叩かれるより余程ましである。第一に他の班を四つばいで廻っても日頃皆されているから恥ずかしくはない。第二に他班の者だからしごく事はない。従ってワンワンと楽しそうに数班を廻る。他班の者の同情も笑いもない。日常茶飯事である。

昼間の訓練が終わると数日に一回入浴がある。浴場は広かったが、風呂のお湯は深さ20cm位であったろうか。班別に入浴するが古年兵も一緒であった。素っ裸であるので古年兵が分からず、しかられる兵もいたが、大した事ではなかった。只印象に残っているのは古年兵が浴場から上がると、初年兵が急いで彼の体をタオルで拭いてやっている。古年兵は素っ裸のまま突っ立っていた。

入隊してから早二ヶ月が過ぎた。大体五~六ヶ月すると検閲があり一等兵に進級する。待望の古年兵である。最早しごきのない、いやいやこれから入隊してくる初年兵をしごく立場となり、神様仏様といわれた。これらの流れはいわば日本の軍隊では常識のパターンであった。利用されたのは「恐れ多くも上官の命令は陛下の命令である」であり全く反抗できない改革できない軍隊組織であった。当時天皇は現人神といわれていたので国民は神の子である筈である。軍人は命を賭して国を護らなければならない。

明治維新以降勝ち戦に国民もマスコミと調子に乗り軍の独走を歓迎した。反対した革新の知識人の声はもう通らなくなっていた。そして中国大陸への進出を容認する。一度手に入れた人間の欲は止まらない。国の方針までも変えてしまう。その果てには隣国のみならず欧米に戦を挑むという大それた国となってゆく。そしてその結果や、三百十万人もの国民の犠牲者を出し、貧困のどん底に落ちた。日本人は初めて孫子の名言「算なきは戦わず」を体験によって知る事となった。

さて話を元に戻すと私は入隊後胃腸の調子は悪化する一方で、この儘倒れる他なかったが毎日の訓練を続けていた。もう立ち続けるのが精一杯の状態となっていた。ところが運命とは巡り合うものである。七月の太陽が照り続けていた練兵場での訓練の時であった。その時の教官は新たに赴任した学徒出陣の見習士官であったが、整列していた私の姿を見て「貴様具合が悪いのか」と声がかかった。「はい」と答えると「直ぐ病院に行け」と言われた。私はその時教官をお父さんと感じ涙した。

早速陸軍病院へ行く。軍医は診察したが何も言わない。病室に入れられ養生できるかと思ったが初年兵で入院したのは私だけで一等兵で動ける一人がいた。入院早々だが寝るどころか、病人へのお粥運びの毎日。それどころか次々に死んで行く病人の運び出しを古年兵と二人で担架で運んだ。殆どが結核である。運ぶ我が身ももうもたない、ここでこのまま死ぬのか。感情が高ぶる事もなく淡々たる気持ちであった。

運命は二転三転する。当時佐賀の古湯温泉の殆どが陸軍病院の病棟となっており、そこへの転入院であった。最初はどんな上下関係か分からなかったが、入院後日数が経つにつれて様子がだんだん分かってきた。各病棟(旅館)には三十人位が入院していたが、私が配置された病棟の患者のトップは大尉殿であった。今までの本隊にいた様なしごきはない、皆んな病人なので静かであった。

ここでも初年兵は私一人で一等兵が一人いた。病院の食事だけでは足りないので、買出しを頼まれ古年兵と二人で出かけた。買出しは主に馬鈴薯であった。お金も出し合ったが時々支給される菊の花金印の金鵄の煙草を農家は一番欲しがった。穏やかな日々であったがそうばかりでもない。もうその頃はB29編隊の空襲が度々あり避難場所としての防空壕を掘らせられた。労働時に古年兵の監視もなく苦痛は感じなかった。只入院していては昇級はない、本隊に帰っても二等兵の儘ではどうなるのか不安のまま終戦を迎えた。運命づけられた私の軍隊経験はここまでであったが、遂に夢にも思った待望の一等兵、神様仏様に進級できずに終わったのは今日に至るまで心残りである。

地獄の初年兵。貴様等は1銭5厘だ。これは明治初期の召集令状の郵送料を意味し、人間としての尊厳は一かけらもなく、只々耐える事のみが軍人としての殉国の生き方かと我慢する事しか感じ得ない人間に変わっていった。今日思い直してみると、あの地獄のような外圧の苦しみ痛みが、過去となって振り返ってみると、最早現実の痛みは感じない、人生体験となって返って懐かしい思い出となって返ってくる。

もしあの時私が古年兵となり初年兵を迎えたとしたら、前例にならってしごきをしたかも知れないと考えるとぞっとする。当時は敗戦後の現在のような人命尊重の気風はなく、只々戦争の持ち駒として消耗される運命であった時代で、十分な人生体験もなく、お国の為に前戦で討ち死にする事に誉れと洗脳されていた若者であった。

この頃佐賀市も度々B29爆撃機編隊の空襲を受け、練兵場から市街地の方を見ると、夜空に赤く燃え上がっており、敵の為すままにどうする事も出来ない。兵舎にも時々来襲があるが軍は発表しない。或る日空襲警報が鳴り敵機の爆音が近く大きくなった。昼食中であったが兵隊達は何時の間にか居なくなり私は毎度の事で余り気にならず食事を続けていた。轟音が響きバンバンバンと天井に五米間隔位に機銃弾が食台の上に炸裂した。私に当たっていたら死んだかもしれない。人には恐怖感のある人と無い人がいる。私は病気の事もあっては余り気にならない。

南方に送られた初年兵達は輸送船団で東支那海を南下する。最早警護する艦船、飛行機もないのに敵の攻撃により相当の輸送船が沈没する事は承知の上で強行出航していたのである。沈没する船があっても助けようとしない。残った船だけが員数と計算していた。出生以来大切に育てられ、小学校中学校と勉学を重ね家庭でも学費を投じ成人する事を願っていた貴重な存在の後継ぎを、単なる消耗品として作戦した日本の軍部の指導者達であった。改革不能の余りにも大きい日本国の体制であった。

最後に私は人命尊重の大義を掲げ、胸を張って行動をおこしているが、人の生き方は環境、運命の波動に揺り動かされ翻弄される中で成長してゆく。良心に従って淡々と行動して行く事こそ「最良の道」である事を学んだ。

(令和4年8月寄稿)