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戦争中は湯江小学校一年生

ページ番号:0002207 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

昭和20年4月、湯江小学校の入学式があったので、母に連れられて小学校に行った。学校に着くと、東の校門入口から西の出口まで美しく満開の桜並木になっており、初めて見る桜のトンネルの美しさにはびっくり驚いた。

入学式は畳の大広間の家庭科室であったが、途中で警戒警報のサイレンが「ブーー」と長めに鳴ったので、式は早く終わったようだ。その後は、担任の広津先生に連れられて、新入生45人が1年1組の教室に入った。

一年生になってから初めて見たのは、第1校舎から第4校舎まで通しの中央廊下で、幅広く長かったので、その広さに驚いた。また中央廊下の一角には、格子戸がはまった宮造りの部屋があったが、部屋の前の廊下を通るときは走ってはならない。そのうえ、一礼をしていかなければならないと言われた。後日、ここは奉安殿と言って、天皇陛下や偉い人の写真が飾ってある所だと教えてもらった。

一方、第1校舎前の校庭の左側には、戦争で使う鉄製の魚雷と機雷が並べ、据え付けてあった。細長い魚雷は潜水艦や飛行機から発射して敵を攻撃する爆弾で、長さは2m50cm位はあった。また、その横に機雷が置かれていたが、それは海で行き来する船が触れると爆発する球体の爆弾で、表面には長さ20cm位の鉄のトゲが何本も突き出されていた。

小学校の校庭に据えられた魚雷と機雷の画像
小学校の校庭に据えられた魚雷と機雷

学校正門のそばにあった二宮金次郎像の横には、大砲の砲弾1個が立てて展示されていた。また、第1校舎東側にある小使室(用務員室)の裏庭には、敵の兵隊が近づいてきたときに兵隊さんが狙い撃つ鉄製の機関銃が据え付けてあった。銃弾は見当たらないので展示物だったのか。機関銃の砲身は1m位あり、4本脚に支えられて設置されていた。また機関銃の筒先は庭先から東側の校門入口に向けて据えられており、見ているだけでも恐ろしかった。

小学校用務員室の裏庭にあった機関銃の画像
小学校用務員室の裏庭にあった機関銃

一方、学校の校舎中庭と運動場の端には、細長いうねのはっちゃん畑(さつまいも畑)が何ヶ所もあった。当時は兵隊さんに米を送らなければならないと言われていたので、食料が不足していた。そのため誰もが腹が減っていたので、学校では昼食の代用食として、はっちゃん(さつまいも)を食べられるように、高等科の上級生が苗の植え付けから収穫までしていた。後日、作業後には、焼きばっちゃん(焼芋)や蒸しばっちゃん(蒸し芋)にして食べさせてもらった。

小学校一年生になってからは、部落(地区)ごとにまとまって学校に行った。東三部壱名では毎朝、しんばし(新田橋)の横に小学生が集まり、高等科の生徒で上級生(今の中学1年と2年生)の松尾さんと入江さんに連れられて、境川沿いを歩いて行き、野中宅の楠の大木のそばを通ってから上三部壱名の一里松跡に出て、小学校に着いた。学校に行くと、一年一組の教室前の廊下にある棚には、防火用水のバケツ数個が並べてあった。

ある日のこと、校舎東側にある、川水を引き込んだ足洗い場から、バケツに水を汲んで校舎の裏側まで二人がかりで運んだ。小学校に爆弾が落ちれば火事になるので、一年生でも水運びの練習をしなければならなかったようだ。

一年生からバケツで水運びをした防火練習の画像
一年生からバケツで水運びをした防火練習

上級生がしている農作業や片付け掃除などの手伝いもさせられた。上級生が落葉や小枝を燃やしたときには、残り火で焼きばっちゃん(焼芋)を食べさせてもらいうまかった。またある日、女子の上級生が小使室の大釜で沢山のはっちゃん(さつまいも)を蒸して、モロフタ箱(モチ入れ箱)に入れ、一年生の教室まで運び配られた。これが、みんなの昼食の代用食になった。

​代用食として蒸したさつまいもを運ぶ女子中学生の画像
代用食として蒸したさつまいもを運ぶ女子中学生

このように戦争中は腹にたまる、はっちゃん(さつまいも)が一番に甘くてうまい食べ物だった。

しかし、この頃は、教室で勉強をしているときに、空襲警報のサイレンが鳴ることがあった。

ある日、突然に「ブー・ブー」とけたたましくサイレンが鳴った。窓越しに空を見上げると、飛行機が「ゴー・ゴー」と音を立てながら飛んでおり、黒煙も広がっていたので恐ろしかった。担任の先生から「勉強はやめ、早く早く」と言われたのか、みんなはあわてて机の上のものを引き出しになわしたり(入れたり)風呂敷に包んだりして大騒ぎした。しばらくすると、高等科の生徒である上級生が教室前の廊下に走り寄って出迎えに来てくれたので、安心した。近所の松尾さんと入江さんに連れられてすぐに校門を出た。

​空襲のサイレンで勉強は中断して集団下校の準備の画像
空襲のサイレンで勉強は中断して集団下校の準備

学校から下校中の田んぼ沿いでは、飛行機の音はするし、爆弾による煙も空に広がっており、雷が落ちてくるような光景だった。しかし、家に帰ってしまうと学校のことは忘れて、子ども同士で走り回って遊んだ。一方、小峰名や善住寺名、また水の浦名など遠くから通う子どもは、帰り時間が長くかかるのだが、上空の飛行機からは人が見つからないようにして、道端で遊びながら帰ったと言っていた。

空襲による学校からの部落(地区)ごと集団下校の画像
空襲による学校からの部落(地区)ごと集団下校

さて、小学校で、高等科の生徒である上級生(今の中学1年と2年生)男子数人が、運動場の朝礼台前で手りゅう弾投げの練習をしていたのを見た。こけし人形のような形をした手りゅう弾を触らせてもらったら鉄製で、一年生が片手で持ち上げるのは重かった。上級生の男子は、手りゅう弾を右手で持って、振り上げ、力いっぱいに遠くまで投げる練習をしていた。さらに別の日には、銃剣突きの練習もしていた。その銃剣は鉄砲の先端に短剣を取り付けて、敵の兵隊に接近して戦うときに相手を倒すもの。上級生の男子は、鉄砲の形をした1m位の木の棒を持って、前にいる生徒仲間を突き出すような練習をしていた。また、あるときは、運動場で赤と白の小旗を持って、腕の体操をするように上や下、また横や斜めに動かしていた。練習をしていたのは手旗信号だと教えてもらった。

​手りゅう弾投げ、手旗信号、銃剣突きの練習をする男子中学生の画像
手りゅう弾投げ、手旗信号、銃剣突きの練習をする男子中学生

その頃は、小学校で高等科の生徒の上級生に連れられて集団登校や下校をしていたので、東三部壱名では、高等科の生徒の松尾さんと入江さんとは一緒になることが多かった。私自身が小さな一年生だったので、遊び可愛いがってもらえたのだろうか。学校のことは、よく話をして教えてもらった。

あるときは、モールス信号というものを習っている。少しは知っているからと「テン・ツー・テン・ツー」と言いながら指先を動かして見せてもらった。そのうえ、飛行機の見分け方も習ったと聞いた。飛行機の音がすれば、日本の飛行機なのか、敵の飛行機なのかを見分けなければならないと言っておられた。

一方、学校で女子の上級生を第2校舎にある家庭科室でのぞき見をしたときのこと。上級生数人が丸座になって、針仕事の縫いものをされていた。その後、第1校舎の音楽室前の廊下に、女子の上級生が作ったと思われる兵隊さん用の戦時服や、戦闘帽子、また女子用のモンペ着や、上衣服などの服、さらに針山や防空頭巾などの小物が座机の上に並べて展示されていた。隣近所におられる女子の上級生からは、ケガをされた兵隊さんのために包帯の巻き方を習ったと聞いた。

女子中学生による包帯の巻き方練習の画像
女子中学生による包帯の巻き方練習

また音楽室には、飛行機と軍艦の模型があった。飛行機は天井からつり下げてあり、見上げるとプロペラは1台で、胴体の長さは80cm位と大きかった。軍艦は教室前の壁ぎわに展示されており、船の長さは80cm位あった。その模型の姿かたちはよく出来ていたので、本物のようだった。

さて、一年生になった昭和20年4月からは、敵国アメリカの飛行機が頻繁に飛んで来て、空襲がひどかった。特に諫早や大村、また大牟田地方まで空襲をしていた、大型爆撃機のB29は、湯江町の上空を通り道にしていたのか、大空の高い所では悠々と飛行していた。一方、2人乗りのグラマン戦闘機は、汽車や有明海の船を攻撃していたし、海岸では魚や貝掘りの人にも低空で機銃掃射をしていた。毎日が空襲や警戒警報のサイレンだったので、子どももサイレンの聞き分けがすぐにできた。

こんな戦争が間近に差し迫っていたときに、小学校の第1校舎前には、細長く深いミゾ穴が掘られたのをみた。このミゾは校庭を横切る老松神社の参道沿いに、じぐざぐ曲がって掘られていたが、そのミゾの上は飛び越すことができたので、幅は50cm位だったと思う。深さは小学生の身長ぐらいで、ミゾのなかに落ちたら出にくいくらいだった。

小学校の校庭につくられた立て穴の防空壕の画像
小学校の校庭につくられた立て穴の防空壕

後日、このミゾ穴は空襲警報のサイレンがなったときに、生徒がすぐ逃げ込むための「立て穴の防空壕」だと教えてもらった。

一方、大人たちは、アメリカが「本土上陸するごたるけん、にくたらしか、鬼畜米兵(きちくべいへい)んばみな殺しせんばならん」と言っていた。

時は移り変わり、令和3年8月23日のこと、白寿会老人会の先輩の中原氏に、部落ぐるみの登下校のことや、じぐざぐの防空壕などお尋ねした。「高等科の上級生とは、今の中学1年生と2年生で、登校中にサイレンが鳴れば、金崎名から小学校までは遠かったので、途中の広場で遊んで学校には行かんやった」とお話をされた。また、「サイレンが鳴ればすぐ逃げられるよう、校舎前にぐりぐり曲がったタテ穴の防空壕が掘られた。掘ったのは高等科の生徒で、勉強はせんで掘った。しかし、終戦後すぐに埋め戻された」と教えてもらった。

さて、昭和20年8月の終戦の日、夏の暑い日の午前中、生徒全員が登校日で、小学校に行くとみんなは運動場の朝礼台の前に集合をさせられた。学年ごとに並んで腰をおろして待ったが、何があるのかわからなかった。その間、先生方は前方に立っておられた。それからは、校長先生だったか、男の人が朝礼台に上がって何かを話された。台の上の足元には小さな木箱があったが、声がかすかに聞こえたのでラジオのようだった。

一年生にとっては、かんかん照りで暑い日の運動場だったので、何のことかもわからずに疲れて家に帰った。

​暑い日の運動場に全生徒が集まって終戦の話を聞くの画像
暑い日の運動場に全生徒が集まって終戦の話を聞く

それからはサイレンも聞かれなかったので、なぜだろうと思っていたら「戦争はもう終わったばい」と聞いた。

今までは毎日が戦争で、爆弾が落ちれば火事になると、一年生でもバケツで水運びをした。サイレンが鳴れば、勉強は中断して逃げ帰った。高等科の女子の上級生は、戦争服の縫いものや包帯の巻き方まで教えられていた。男子は、銃剣突きや手りゅう弾投げを練習し、防空壕掘りまでもさせられ、知らず知らずのうちに戦争に巻き込まれ参加をしていた。

そのうえ、校庭には戦争で使う魚雷や機雷、また機関銃までも展示されており、美しい三角屋根のある近代的な湯江小学校が戦争の場のようでもあった。

一方、私自身にとって、戦争の時代ではあったが、高等科のいい上級生にも恵まれたし、貴重な体験も数多く出来たので、今では生きる力となって、老年の幸せを体感している。

(令和3年8月寄稿)