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練習機「赤トンボ」から手を振ってもらった

ページ番号:0002206 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

昭和19年の小さい子どもの頃のこと。湯江町境川の河川敷や野原などで走り回って遊んでいると、よく飛行機が飛んできていたので、大空を見上げ眺めるのが楽しかった。飛行機は西の方向から、かすかなエンジン音を響かせながら、ゆっくりと動き近づいてきて、近場になると、飛行機の羽根が2枚の複葉機だったり、エンジンとプロペラ1個ずつで、2人の飛行士が乗っているのもわかった。胴体はピンク色で、見た目はかわいい飛行機だった。周囲の大人たちからは、「その飛行機は練習機の『赤トンボ』で、小野飛行場を飛び立って、湯江町の上空まで来て、若い飛行士の操縦訓練をしながら上空を旋回している」と聞いた。湯江は境川の扇状地が広がるのどかな田園地帯だったので、地形でも気象条件でも飛行訓練には最適だったのかもしれない。

さて、湯江町の上空で飛行士の訓練をしている練習機は、西方の里名地区から進入して、湯江駅、そして三部壱地区の中央部上空を通過しながら上昇していた。その練習機は宇良地区の汲水名や山道名の上空では、羽根をゆり動かしてキラリキラリと輝かせながら飛び回っており、わが家からも上空を動き回る機体が見えた。

飛び回る飛行機はしばらくして、金崎名の上空を大回りして、南側の泉名の有明海沿いに飛んで、西の方向へ行った。このように湯江の平野では、飛行訓練がしやすかったのか、進入してくる練習機は毎回、澱粉工場や湯江駅、また三部壱地区を通過していた。飛行機が飛ぶ高さは低く、特に境川河川の上や鉄道の鉄橋の上では電線の2倍もないくらいの低空飛行だったので、よく眺められた。

ある日のこと、弘法さん(神社)の下手の堤防道路で子ども仲間と遊んでいると、練習機1機が南の鉄橋を越えて接近してきた。その時に機上の後部座席の飛行士の方が、子ども仲間の方を向いて、手を上げて、手を振ってくださった。見上げるみんなは一瞬、声を出し手を上げたが、飛行機は「ブーン」とエンジン音を高めながら通り過ぎていった。それからは、天気がよければ飛行機が飛んで来るのが待ち遠しくなった。また飛行機が飛んでくれば追っかけたので、遊び友だちのような気分だった。

さて、小野飛行場から湯江町上空まで飛んできた練習機の「赤トンボ」について、令和3年7月27日の老人会ゲートボール試合のときに白寿会の先輩の中原氏にお尋ねした。

「練習機の操縦をされていたのは、汲水名の出身の副島さんという方。副島さんは飛行機の指導教官で、若い飛行士の操縦訓練をされた後には地元の上空に舞い戻って、みんなに『赤トンボ』の飛行姿を見せておられたようだ。」そのために「上空に上ってからはエンジン音を高めたり、止めたり、また主翼の羽根を上下に振って、ヒラリヒラリと動き回られていた。さらに急上昇や旋回、回転などもくり返しながら飛ばれたので、珍しい飛び方の赤い飛行機を地元みんなは見上げていた。」また練習機の胴体がピンク色で可愛いかったので「赤トンボ」と呼ばれたと教えてもらった。

昭和20年になると、敵国アメリカのグラマン戦闘機が地元まで襲来し、水の浦地区では走行中の汽車が機銃掃射を受けて、多くのケガ人が出たと聞いた。また小野飛行場も空襲を受けたのか、練習機の「赤トンボ」が湯江の上空まで飛んでくるのが見られなくなった。そのうえ、航空燃料が足りなくなったので、松の木の樹液(松根油)を飛行機の燃料として代用するようになった。松の大木は、湯江小学校横の老松天神(神社)や山手側の尾元墓地、川上神社の境内や馬場名の坊の山林などに松林があったので、その樹木に切れ目を入れて樹液の「松やに」をビンや竹筒に流し込んで採集をした。地区の世話役が松林を巡回して、樹液を回収されていた。

一方、練習機「赤トンボ」の指導教官をされていた汲水名出身の副島さんは、終戦後、東京で余生を送られていたとのこと。

さて、子どもの頃の練習機「赤トンボ」の思い出といえば、低空で飛んで来た「赤トンボ」の機上から、小さい子どもの方を向いて「手を上げて、手を振ってくださった」ことで、その飛行士の方のやさしい思いやりに感動した。そのうれしさは生涯、忘れられない心の財産となっている。

練習機「赤トンボ」の画像
練習機「赤トンボ」

(令和3年8月寄稿)