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父親が出征した日

2 飢餓をゼロに
ページ番号:0002205 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

昭和20年2月の肌寒い早朝、6才のときに寝布団の中で、ゆり起こされてから父の出征記念の家族写真に写った。身近な親戚にもかけつけてもらい、朝食準備や見送りのお世話でバタバタと動き回られる中、早朝に起こされたので、眠たくて機嫌悪く泣いていた。それからは、服も着せられて屋敷裏の植木の築庭の前に抱きかかえられ連れてこられた。家族みんなが勢揃いをした中で、母の膝の上に泣きながら、ぐずぐず甘えていた。土井写真屋さんから「すぐすむ、すぐすむ」となだめられながら、三世代家族で写ったのだが泣き顔での写真となった。その時は、父が兵隊さんになることは知らなかったし、寝不足で泣きぐずぐずしていたので、再び座敷の寝布団の中に戻り、寝かされたとのこと。

一方、父親は兵役の召集令状が来てからは、「40才を過ぎてからも兵隊に行かんばならんとやろか」と話をしていたが当時は敵のアメリカ軍が日本の本土に上陸してくるような戦争危機でしたので、老若男女みんなが戦争をしなければならない状況でした。

このような時期でもあって、わが家みんなが気ぜわしい中、父は午前中に湯江駅から上りの汽車で福岡県久留米に行ったことを知った。それからは父の顔がまったく見えない毎日だったので、家族は先行き不安とさびしさがあった。

なお、出征の激励会は昭和18年までは親類や隣近所が大勢集まり盛大だったが、昭和19年になると戦況が悪化して家族だけの見送りとなった。

さて、昭和20年になると、日本の本土に戦争が差し迫ってきたので「銃後の守り」の戦争要員として、主婦の出番が多くなった。母がモンペ姿で家を出るときは、行く先の様子をよく話していたので安心だった。母が出かけていたのは、隣組の母親仲間の国防婦人会だった。山地区の崖下では、防空壕作りで、湯江神社や尾元墓地、馬場名の坊でのほら穴を掘る作業、また、隣組の班長さんの小溝さんの屋根でバケツリレーによる水かけの防火訓練をしているのを見ていた。

小学校運動場では、麦わら製の人柱で竹やり操作の練習もしたと言った。さらに戦争に行って男手のない農家では田植や稲刈りの手伝いに出かけていた。家庭では父親代わりに祖父母と子どもたち家族を守り養いながら、隣組の共同作業にも借り出されていたので、いない昼間はさびしかった。

時は過ぎて、昭和20年8月15日には戦争が終わったので、9月になってから父は遠い人吉から湯江駅まで汽車に乗り継いで、やっとの思いでわが家に帰ってきた。父の姿は兵隊での作業服に小物を入れたリュックを背負っていた。足元に脚半(ゲートル)を巻いていたのに、足がはれて痛いと言っていた。また兵隊食のまずさから、やつれ疲れきった表情だった。家族みんなは生きて帰れただけでもよかったと喜び合った。背負ったリュックにはわずかな着替えと水筒、また昼食の乾パン袋が入っており、食べずに持ち帰ったとのこと。兵隊みやげになった乾パンをみんなで分け合って食べたのが一番の幸せな時間となった。私にとっても乾パンは今でもその味と感触は忘れられず、最上のお菓子になっている。また人吉暮らしのみやげ話は過酷な兵隊生活で、時折その苦労話を聞かせてもらった。

出征当初は、久留米部隊に入隊していたが、敵のアメリカ軍の九州上陸が迫っていたので、熊本県人吉に移動をさせられた。そこでも食料不足で米粒はない。アワ・ヒエ・トウモロコシ・ハッチャン(さつまいも)ばかりで栄養失調で体力はなかった。兵隊での活動はアメリカ軍の宮崎上陸に備えて、身を守り、隠れるための塹壕掘りばかりの重労働が毎日続いた。しかも作業がはかどらないときや命令に従わないときには、連帯責任で年若い上官からみんなが、木刀で尻や体を叩かれたので、立ち上がり動けない程に体は痛いし、腫れきずもあった。毎日が兵隊としての戦争訓練ではなく、塹壕掘りの強制労働で一日が過ぎることもあった。

時は変わり、昭和20年8月15日には、終戦になったので、重労働からは解放されたが、今まで厳しく鍛えて、苦しめていた上官は、誰一人として兵舎には居なかった。部下の兵隊を牛馬のようにこき使った、その仕返しを恐れたのか、上官みんなは終戦と同時に逃亡していたと聞いた。

一方、終戦により兵役を無事に終えた父は、湯江町役場に奉職できたご縁もあって、わが家の大家族を温く見守ってくれたので、父親への感謝は終生忘れられない。

(令和3年8月寄稿)