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湯江からも見えたキノコ雲

ページ番号:0002203 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

8月9日の原爆投下は、小学1年生の時だった。わが家でも目もくらむ閃光が「ピカッ」と光った後、大きな爆発と地響きがした。
また雲の切れ間からは、「キノコ雲」がはっきりと見えたのが今でも脳裏から消えない。わが家ではこの日、店の控えの間にいた祖父母が、訪ねて来られた野口製麺所の主人とお茶飲み談笑中だった。
私は、土間からの上がり段に腰かけていたが、母は見えなかった。その4人がいた控えの間は家の中央にあったので、境川からの川風が吹き抜ける涼しい居場所だった。しかし、曇り日は薄暗かったので、土間の天井にガラス1枚の明かり取り窓があり、外空からの明るさがもれていた。
そんな場で突然、天井のガラス窓から目もくらむ強烈な閃光が「ピカッ」と光ったので、みんなはびっくり驚いた。雲があった夏空ではあったが、思わず「稲光が光ったばい。」と叫んだ。しばらくしてから今度は、家の裏口方向から「ドーン」と大きな爆発の地響き音がした。みんなは、慌てふためき「駅付近に大きな爆弾が落ちたばい。」「おおごと。」と言って、駅方向が見渡せる裏口にかけ出した。裏口からはたきもの小屋の軒先にある柿の木の下に出て、3~400m先に見える湯江駅周辺を眺めたが、爆弾による変わった様子は見られなかった。なんとなく諫早方面を見上げると、黒い噴煙が西の空全体を覆ってきたので、薄暗く急な通り雨が来そうな空模様に変わった。次々と変わる雲行きを眺めていると、横になびく雲間からは、竜巻のような白い入道雲が「モクモク」と立ち昇っており、こわごわと見ている間に、太く大きくなって火山噴火の噴煙のように変わった。そのうえ、雲のてっぺんは「丸いカボチャ」のように膨れ上がって、「こけし人形」のように見えてきた。
音もなく刻々と変わった西の空全体をぼう然と眺めていると、横になびく雲の層を通り抜けた、白くて太い真っすぐな円柱形の雲柱が、「ドスン」と突き立っていたのがはっきりと見られた。祖父母や母も、西の天空で起こっている異様な光景には、あっけにとられてしばらくは眺めていた。
子どもながら、そばでは竜巻のような不思議な入道雲を見入っていたが、急変する雲が怖くなってしまい家の中に逃げ戻った。
日も経ってからは、敵国アメリカの大型爆撃機B29が「ピカドン(新型爆弾)」を落としたので、長崎は焼け野が原になって全滅したと聞いた。当時を思えば、爆心地からは30kmも遠く離れた湯江の町だったが、雲間から見えた巨大な円柱形の雲の柱が、原子爆弾による「キノコ雲」だったことを知った。
数日後のこと、家のそばの境川に架かる「しんばし(新田橋)」の上で遊んでいると、三部壱通りからソロソロと歩きながら橋を渡ってくる中年男性がいた。すれ違った男性は、ボロボロに裂けた袖無しシャツにズボン姿で、背中には黒ずんだ風呂敷包みをからっていたが、肌もあらわな首筋や肩口には「タマゴ大の大きな水ぶくれ」がいくつも出来ていた。また、日焼けし汗した顔や腕にも「赤いただれ傷」があったので、一瞬驚き「ひどく痛か病気のごたる」と思った。その人は、背丈程の竹杖にすがりながら、無表情で通り過ぎ、溝口地区の方向に行かれたが、歩く姿は痛々しく哀れだった。
今思えば、長崎で原子爆弾にあって湯江に避難して来られた方のようだが、そのみすぼらしく惨めな様相は、子ども心にも目をそむけたくなる程だった。今では元気にされているのか気になる。

湯江からも見えた大きなキノコ雲のイラスト

(平成27年12月寄稿)