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私の町でもあった戦争

ページ番号:0002198 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

小学1年生であった昭和20年初夏のある日。
縁側から母親が「汽車がやられとるばい」とおろんだ(叫ぶ)ので縁先に走り出て外を見上げると、敵国アメリカの戦闘機が止まっている汽車を空襲している衝撃的な光景だった。汽車が停車していた所は、有明海側に広がる扇状地の中を横切る国鉄の有明線、その付近一帯は民家も雑木林もないため家からは丸見えの線路上。今は家も建ち並び景観は変わってしまったが、JA北高給油所横の踏切から東方向の高来斎場付近にかけての区間だった。
一方、空襲を受けた汽車は肥前山口駅方面へ行く正午前の「上り」で4両程を連結した客車だったが、湯江駅を発車し小長井駅へ向かっている途中に敵の戦闘機に発見され、奇襲攻撃を受けたもよう。
また、汽車を攻撃したアメリカの戦闘機は、航空母艦を発進してきたグラマン戦闘機1機で、客車後尾の上空から急降下しながら電柱すれすれの超低空で接近し、先頭で煙をはく蒸気機関車を目がけて「パンパン」と機関銃を撃ちながら機関車真上を飛び越えて通過した。「ブーン」と爆音を高めながら上空高く舞い上がっては宙返りをして、再び客車の後方上空から回り込んで機銃掃射を繰り返していた。
わが家から汽車が止まっている線路までは100m程の近場なので、胴体が大きく、ずんぐりとした「ずん胴型」のグラマン戦闘機がよく見えたし、機上に乗っていた飛行士2人の頭も見えた。
しばらくは、敵の戦闘機がじっと停車している汽車を繰り返し攻撃するのを縁側から眺めていたが、子どもながら無防備の客車が襲われる衝撃的な光景に身もすくみ、恐ろしくて長くは見ておれなかった。汽車は、程なく機関銃のかん高い発射音が聞こえる中を強行発車して、金崎墓地が広がる水の浦地区の山間の堀切に緊急退避したので、敵の戦闘機は攻撃をあきらめて飛び去った。後で聞いたことは、「敵のグラマン戦闘機は、汽車が走れないように蒸気機関車の機関士を機銃掃射してねらっていたようだ」とのこと。
午後になってからは、汽車が湯江駅に戻ったと聞いたので、子ども仲間で湯江駅まで見に行った。汽車は、増山製材所側の3番ホームに停車していたので、線路脇の道端から客車を見上げると、機銃掃射によって客車の窓ガラスが割れたり、車両には弾丸の貫通跡もあった。さらに真っ黒な蒸気機関車や炭水車の外装鉄板には、機関銃弾が当たって、「にぶく光る損傷跡」や「ほがされた(突き通す)丸い弾痕」も見られた。その後、親達からは乗っていた兵隊さんがケガをしたり、線路の枕木には、機関銃弾の破裂跡や砕け散ったグリ石があったと聞いた。機関車の機関士がケガをされたかは聞き覚えがない。
また当時は、敵の航空母艦から発進したグラマン戦闘機がひんぱんに飛来し、低空で飛び回っていたので、有明海で魚取りや貝堀りなどしていると機銃掃射を受け、大ケガした人がいた。親達は「海は隠れ場がないので、飛行機の音がすれば早く浜辺のトキワがや(カヤ)の茂みの中に逃げ込め」と言っていたが、その後のこと、年長仲間に連れられて干潟に下り、ブーワン(貝)やヒョウゼ(巻貝)拾いをした。その海岸端にあった中溝宅の外柱や板張り壁に「機銃弾の跡形」が沢山付いていたのを見てから、敵機グラマンの恐ろしさが分かった。それに伴い、昼夜を問わず敵機襲来の空襲警報のサイレンが鳴り響いていたが、日本の戦闘機は1機も現れない不思議な戦時下だった。

敵機グラマンから襲撃される汽車のイラスト

(平成27年12月寄稿)