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太平洋戦争体験記(戦後七十六年)

ページ番号:0002197 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

太平洋戦争体験記(戦後七十六年)

梅林 ミツヨさん(諫早市)

昭和十六年十二月八日未明、日本は、アメリカの真珠湾を奇襲しました。これにより「日米は、戦闘状態に入れり」と言うラジオ放送がありました。日米戦争が始まりました。
その日、日本の上空には幾機もの飛行機が飛び廻り、ものものしい雰囲気の中、何とも言えぬ緊張感におそわれた事を覚えています。

そして日本は戦勝戦勝と、バンザイバンザイに湧いていました。しかしそれは長くは続きませんでした。
間もなく至るところに防空壕が掘られ、男は赤紙一つで召集され、男と言う男は一人も居なくなりました。女もまた挺身隊として徴用され、妹は十六才で久留米のゴム会社に送られました。そこは軍靴を作るところだったと思います。
食料品店も衣類店もなくなり、警察の駐在所も閉鎖となり、本当に暗い世の中となりました。

その頃大村には、二十一航空廠といって飛行機を造るところがありました。そして神戸製鋼所と言う大きな会社から飛行機の部品が空廠に納められていました。その中間で検査をする会社に私は事務員として勤めていました。会社は空廠外でしたが、大村は空襲が度々で、その度に防空壕に走り込みました。そして仕事を終え駅に行ったその時、二台のトラックが走りました。それには空廠が爆撃され死亡した人の死体が積まれてあったと聞き、震えて鳥肌が立ちました。また汽車も機銃掃射されたりして、運よく帰れば夜は「灯火管制」と言って灯が外に漏れないように一つの電灯を風呂敷で包み、それだけの光で何も出来ない夜な夜なでした。食料も乏しくなり、また衣類に困りました。親の着物を解いて「モンペ」を作り、防空頭巾を抱え通勤しました。田舎でも空襲警報が度々で防空壕に走り込みました。本当に辛い日々の明け暮れでした。

そしてラジオの報道は○○島玉砕、○○島玉砕、サイパン島も玉砕と、悲しい事ばかりでした。只命令のまま遠い島に送られ死んで行った人達の事を思えば、只々涙がこみ上げるばかりでした。

丁度その頃、小長井の沖にアメリカの「B29」が墜落しました。たちまち話は町内外に広がり、私も四キロ余りの道を走って見に行きましたが、人垣で見えませんでした。搭乗員は十一名だったそうですが、その中の二体が長里の実家の前に流されてきました。当時は今の旧国道まで海でしたので、その巨体が舟に引き揚げられたのをかすかに覚えています。戸板にのせられ、長里の墓地に運ばれました。九人の遺体を引き揚げ始末された小川原浦の人は、それはそれは大変だったそうです。昭和一九年十一月の事でした。

そんな中にも戦況は悪化するばかりで、二十年三月には東京が大空襲に見舞われ焼野が原と言うニュースが流れました。死亡した人は十万人とも言われています。

そして四月にはアメリカ兵は沖縄に上陸、大激戦の末占領され、二十万人の人が命を落としたと言われます。六月には近くの大村も佐世保も空爆され、間もなく本土に上陸する、覚悟しなければならない、と毎日毎日怯えていました。そして、二十年八月六日、広島に原爆が投下されました。大変な事らしいと、何もわからないまま、続けて八月九日、曇一つない晴天の朝、有明海の上を低くゆっくりと飛んで行く「B29」を見ました。音を聞きなれていましたので、また「B」が飛んでいると思う間もなく鋭い閃光が走りました。この晴天に何だろうと怯えながら布団をかぶったりしていましたが、外に出て驚きました。西の空にもくもくと大きな黒煙が上がっていました。これが長崎を無にした原爆でした。一瞬にして広島も長崎も生地獄となり、何万人の人が亡くなられたとの事でした。東京も焼野が原となり、広島も長崎も亡くなり、日本はどうなるのだろうと悲しい日々の明け暮れでした。

そして八月十五日の朝、今日は大事な放送があるから「そこ、ここ、集まって聞くように」との町内放送がありました。何だろうと、誰も居ない駐在所の庭に集まりました。それは畏(かしこ)くも厳かな天皇陛下の玉音放送でした。敗戦と、国民に対し「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでくれ」との内容のお言葉でした。皆、地にひれ伏して号泣。陛下のおつらい御心を拝察し、これまで辛く悲しかった事の数々が脳裏をよぎり、溢れる涙が止まりませんでした。最後までお言葉を拝聴し、ようやく頭を上げた時、あぁ戦争が終わったのか、戦争が終わった、戦争が終わったのだと、胸を撫で下ろしました。思えば涙、涙の一年でした。昭和二十年八月十五日、戦争は終わりました。

静しづと、夜は更けゆき辛き日の

こぼれる涙に枕もぬれる

それから数日後、私は長崎に行きました。それは実家のすぐ隣に、長崎から一家六人が疎開されていて、その長女の人が被爆され長崎まで治療に行かれますので、友達になっていたし一人ではと付いて行きました。長崎に着いた途端、びっくりしました。驚きました。長崎一面焼野が原で、煙がまだあちこち燻っていました。たった一発の原子爆弾で何万人の人が亡くなり、こんな状態にするその凄さ、恐ろしさ、長崎のあの時の光景は、私の頭の奥深く刻まれ忘れる事はできません。

一方、食糧難がひどく、一言、二言で言える事ではありませんでしたが、人々は安らかに過ごすことの喜びに何年振りかの笑顔もありました。
七十年は草木も生えぬとの説もありましたが、一ヶ月後には三十種の草が芽生えたそうです。

東京も広島も長崎も復興は早く、日本は素晴らしい国になりました。日本人本来の英知と努力により、尚、歴代のお偉い方々の御尽力により、今日の日本があると思います。七十六年を振り返る時、この平和、この豊かさに包まれながら、私は長い間、恙(つつが)なく生かせてもらった幸せに感謝の念でいっぱいです。

でも私は忘れる事は出来ません。この戦争で亡くなった人は三百十万人とも言われています。そして、戦争に反対された山本五十六(いそろく)大将、他犠牲になられました。また、国の為、国のためと若い生命を自爆して散った人々、そして未来ある大学生が角帽かぶり、鉄砲担いで行進する姿(新聞紙上)に私は泣きました。

この様な戦争が二度と無いことを切望致しますと共に、世界の平和を心から祈念しまして結びと致します。

追伸

昭和十九年十一月二十二日、中国から飛んできた「B29」は、佐賀県出身の坂本少佐が大村から飛び立ち「B29」に体当たりされたため、「B29」は小長井港沖に落ちました。搭乗員の引揚げから遺体の始末をされた人々は、それはそれは大変だったそうですが、十一人の遺骨は丁寧に白木の箱に納められ、憲兵隊に届けられたそうです。戦後、佐世保の基地から米軍が引き取りにこられたそうですが、その丁寧さに大変感激され感謝されたとあります。
激しく戦った仲でも戦が終われば敵も味方もない人間同士、小長井には十一人を慰めるため、海の見える高台に鎮魂碑が建立されています。更に平成二十七年十一月二十一日に「戦後七十年日米友好追悼式」が開催されました。「B29」搭乗員の鎮魂碑の前の広場でしめやかに執り行われました。

戦後七十年日米友好追悼式
開式のことば、黙祷、(自衛隊によるラッパ吹奏)
犬尾委員長による式辞、長崎県知事、諫早市長、米第五空軍司令官、海上自衛隊大町海将補による追悼のことば、献酒、献花、一般参加者による献花が続き、その後、高来町榎堂、坂本少佐の慰霊碑の前でも同様の式が執り行われたとしてあります。

七十六年前激しく戦ったアメリカは、今、唯一の同盟国です。日米同盟が永遠に続きます事を切に願い終わりと致します。

かしこ

(今は大半が戦後生まれの人ばかりで、戦争とか、平和と言う言葉さえ無関心の幸せの人が多いと思いますが、約八十年前にこの様な大戦争があった事を知ってもらい、平和の大切さ有難さを感じてもらうきっかけになれば幸いと存じます。)

(令和3年8月寄稿)