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私の被爆体験

ページ番号:0002194 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

~私の被爆体験~ 中村 セツ子さん(諫早市)の被爆体験

私は2歳の時に、長崎市城山2丁目で被爆しました。

しかし私には、その時のことは殆ど記憶にありませんが、当時6年生だった、9歳上の姉がいつも話してくれました。

家族は、両親と兄が3人、姉と私の7人でしたが、父は兵役で不在で、6人で暮らしておりました。

8月9日その日は、母は縁側で繕いもの、1番上の兄は、滅多に休んだことのない会社を休んで、防空壕の扉の修理をし、下の2人の兄たちは、庭の柿の木に登って遊んでいたそうです。

夏休みだったので、姉は私を連れて、すぐ近くの安部仁子さん(4年生)のお宅に遊びに行き、他のお友達と一緒にトランプをしていたそうです。

そこに爆音(B29)がして、仁子さんのお父さんやお姉さんから「広島に原爆がおとされたから、ここもわからん。子供は防空壕に入りなさい」と言われ、姉は、私のからい帯を探したけどみつからなかったので、手がらいして急いで入ったそうです。

その直後「どーん!!」と、ものすごい音がして爆風が入ってきたそうです。

幸い防空壕の向きが、爆心地の方を向いてなかったため、直接光線を受けずに助かりました。仁子さんの1番下の弟さんは、靴を探していて間に合いませんでした。

外に出てみると、壕の入口には人が倒れ、周りは家が倒れて煙が上がり何もなく、みんな亡くなってしまったんだと思ったそうです。

そのあとどうしていいのかわからず、姉は私をからい、仁子さんと弟さんの4人で、山の方にぞろぞろと歩いて行く大人の人達について一緒に歩いたそうです。

姉は小さい体で、2歳の私をずっと手がらいして大変だったようです。

その夜は畑のような所で、飛ばされてきたのか、布団のような物を拾って、4人で一晩過ごしました。朝目を覚ますと、周りに何人もの方が亡くなっていたそうです。

その後また4人で山を下り、仁子さん達とも別れ、自宅にたどり着きました。

母と兄3人は、直接爆風を受けておりましたので、体はとても弱っていたそうですが、私たちが亡くなったものと思って悲しんでいたので、会えた時はとても喜んでくれたそうです。被爆後、みんな何も食べていないので、母がいつも防空壕に備えていた米などを、姉が近くの井戸に洗いに行き、炊いて食べ、その後片付けに行くと、その井戸に女の人が浮いていたそうです。水を飲みに来て落ちられたのか、沈んでおられたのか定かではありません。

翌日(?)兵役で諫早の有喜砲台にいた父が、親戚の人達と迎えにきてくれました。

体の弱った母と兄たちは、大八車に乗せられて道の尾駅まで行きました。

途中、母は父に「子供たちがおるけん、うちは死なれんね」と言っていたそうで「おまえが頑張っとかんば」と父も励ましたと言っておりました。

小柄な姉は、またも私を手がらいして、大人たちの後を遅れないようについて歩いたそうで「あの時はきつかった」と大きくなってからもよく笑って話してくれました。

その後長田の駅で降り、長田小学校に1日(?)泊り、母の実家のある、諫早市川内町の伯父の家に落ち着きました。

皆さんには良くして頂いたそうですが、8月15日と16日、母も兄3人も続けて亡くなってしまいました。

枕経を読んで下さってる時に、また1人息を引き取ったと、父が悲しそうに言っておりました。また「おまえたち(姉と私)がいなかったら、俺も死んでいたかも」とも話しておりました。

その後も、姉も私も髪が抜けたり、嘔吐や下痢など色々ありましたが、病院にもかかり、半年程で落ち着いたそうです。

長崎には住めない(何十年も草木は生えない)と諫早の方に落ち着きました。

一晩一緒に過ごした、東京在住の安部仁子さんとは、長崎に残られたお友達を通してその後も姉とは交流があり、以前(S63年)長崎に来られた際、私もお会いして、元住んでいた所を散策したり、姉たちが通っていた城山小学校にも行ってきました。

仁子さんは私たちの事を「姉妹仲が良くていいですね。羨ましい!!」と言われるので「姉には頭が上がりません」と言うと「そうかね?」と姉が言うので笑っておられましたが、

仁子さんのご家族は、ご両親と姉弟さんたちが亡くなられて、残されたお姉さんは、妹弟のお世話等で大変だったのでしょう、少し厳しかったようで「それも原爆の後遺症でしょう」と淋しそうでした。

また、私たちを防空壕に入るよう指示してくださった仁子さんのお父さんは、竹の久保にあった鎮西学院の先生だったと聞いていたのですが、数年前テレビで、学校が諫早に移ってきた後、原爆で亡くなった先生や生徒さん達の慰霊碑(H21・8・9)ができ、毎年8月9日平和式典が行われていて、その様子が放送されていました。

翌日早速学校にお尋ねして、姉とお参りさせていただきました。

「今生きているのはお父さん(安部先生)のおかげです。ありがとうございました。」と72年も経ってしまいましたがお礼が言えてよかったです。