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戦地から家族への手紙

ページ番号:0002190 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

戦地から家族への手紙

大塚 梓(あずさ)さん

(この体験談は、令和三年七月に、諫早市在住の大塚 梓さんからお話を伺った内容を掲載しております。)

私の父(大塚 格(いたる))は、諫早市出身の軍医で、太平洋戦争中の1944年、私が七歳の頃にニューギニアで戦死したと聞いていました。令和二(2020)年、亡き母の遺品の中から、父が戦地から家族に送った手紙約386通が綴られたファイルとアルバム数冊を発見しました。以下、手紙の内容を一部紹介しながら、私の想いを綴ります。

※手紙の内容については、原文のまま掲載しています。

昭和十四(1939)年十一月十二日(入隊)

昭和十四(1939)年十一月十二日(入隊)の画像1
【原文】
平野叔父さんと兄さんとの御親切な附添(つきそ)いで本日無事入營を完了した。
僕は矢張(やはり)今月下旬出動することになつた。
衛生隊本部付。(おばあちやんにはびつくりしない様適当に申して頂戴)。歩兵部隊附軍医の様に危険はないのだから。ピストル(約80円)を買ふことにした。戰地へ持参するものは衣服は心配無用。防寒具は先方でちやんと渡るらしい。
薬品を高橋君に依頼して調達して貰ふから(小生から手紙を書く)こちらに送つて頂戴。
其他少々の身の廻品は持つて行ける程の「こほり」を一個与絵せられるらしいから御気附きのものは御送りください。例へばバレー。刀の手入油類。懐爐(カイロ)。等食物歡迎。親類知己の住所録。

昭和十四(1939)年十一月十二日(入隊)の画像2
【原文】
御父様によろしく。
御身体を御大事にね。
色々御心配が夛(おお)いだらうが暫くの御辛抱を頼む。
では取敢へず入營の夜。十時

太郎ちやん
お母さんやおばあちやんやねーちやんの云ふことをよく聞いて學校からは早く歸へりなさい。
梓ちやん
あまり泣かないで下さい。笑つてばかり居なさい。

 これは、福岡県の部隊入りを知らせる手紙です。部隊での衣服の配給などの状況と、家族を思いやる内容が書かれています。私(梓)は、この時三才。出発の日、自宅の庭に大勢の人が集まっていた雰囲気をかすかに覚えています。

昭和十五(1940)年四月十八日(おばあちゃんへ)

昭和十五(1940)年四月十八日(おばあちゃんへ)の画像
【原文】
おばあちやん!御容態は如何ですか!又胸のところがキリキリ痛むそうですね。御飯があまり食べられないで身体がだるいでせう。どうぞじつと辛抱して佛様を念じて下さい。私も明日から山に登りますよ。暫くは御便りがやれません。でも毎日毎朝毎夜おばあちやんの事は忘れようとしても忘れは致しません山や河を登つたり下つたりし乍馬の上でおばあちやんの為に心から祈つて居ります。馬には例の日の丸の國旗を掲げ櫻子さんと云う人形(慰問使節)を二人首にさげて一緒に参ります。勇しい行軍や面白い夜営や華々しい傷者治療収容の事等歸へつてからまた送ります。おばあちやんも早く快くなつて居てください。それでは行つて参ります。

 私の曾祖母をいたわる内容の手紙です。手紙のやり取りは頻繁で、母から体調について聞いていたのでしょう。
離れていても、家族のことを想ってくれて私も嬉しいです。

昭和十七(1942)年二月二十八日(作戦を終えて帰る貨車の中)

昭和十七(1942)年二月二十八日(作戦を終えて帰る貨車の中)の画像
【原文】
二月二十八日(日記14)
これで四時間も走れば間違ひなく古巣に歸へれるのだ。今度も亦(また)皆無事だつた。代用客車(無蓋貨車)の鉄板に寄りかかつて落附(おちつ)いたかと思ふと兵隊さんは皆睡つて了つた。ひどく疲れて居るのだ。自分の銃や機関銃をしつかり握つて眠むつて居る。貨車は物凄(ものすご)く揺れ銃はともすれば倒れる。それを夢現の中に無意識に握り直しては又いびきをかくのです。顔は陽に焼け髭は伸び服は痛ましく破れて居る。眞に迫つた悲壮な姿!これは敗北の凱旋ではなく実に榮ある勝利の凱旋です。勝つ為には又生きるために如何に眞剱なる努力が要ることか!

 中国の山西省臨汾(りんぷん)に配属後、軍医として戦地に出向き、作戦を終えて列車で帰る様子を記しているもの と思われます。戦場へ共に出向いた兵隊さんが皆ぐったりと寝ている様子が描かれています。この様子が、戦いに敗 れた訳ではなく、勝利の帰還だという内容が驚きをもって記されており、戦争の過酷さ、悲惨さを父は伝えたかったのではないでしょうか。戦地では日記を書き残すことは禁止されていました。父は日々の記録を手紙にして母のもとへと届けていたようです。

昭和十七(1942)年五月二十七日(戦塵の中での手紙)

昭和十七(1942)年五月二十七日(戦塵の中での手紙)の画像
【原文】
五月二十七日
今日は患者を護送して当地に到着。医長殿、井波中尉と久方振りに会食、同時に新任軍医少尉高田、古川両君と初面談。兩君は再び明日より別れて北京へ行くことヽなりますので、A坊(※)への葉書(はがき)のポストを依頼して置いた。そして今自分の宿舎に歸へつて見るとA坊から嬉しい御便りが来て居た。
戰塵の中で戴く御手紙は最も嬉しく有難いものです。
窓の敷居にローソクを立てA坊の手紙の記念スケッチ。
※A坊…綾子さん(大塚 格さんの妻)

 戦地での同僚(井波中尉)と会食した頃の様子と、母からの手紙を心待ちにする心境が描かれています。井波中尉は、この直後の六月十二日に戦死。父は遺骨護送の役目を負って約一ヶ月間(八月二十五日~九月二十五日)、内地に滞在しました。戦争は、命を危険にさらし家族を離れ離れにさせるということが、戦地からの手紙からも感じることができます。

昭和十八(1943)年八月二十六日(爆撃機とアメリカ兵)

昭和十八(1943)年八月二十六日(爆撃機とアメリカ兵)の画像
【原文】
第二十六信
ワタシタチノ頭ノウエデアメリカノ「コンソリデツテツド」バクゲキキガ日本ノセントウキニウチオトサレパツト火ヲ噴キマシタ。ソノトキ一名ノアメリカヘイハカラダガハンブンニチギレタママラツカサンデトビオリテキマシタ。
オウジヨウギワノ悪イアメリカヘイデス。
米機(四發重爆機)

昭和十八(1943)年九月一日(空襲の刹那)

昭和十八(1943)年九月一日(空襲の刹那)の画像
【原文】
第三十二信
「空襲」ノ刹那。
敵「ノースアメリカン」ト友軍戰斗機

昭和十八(1943)年九月十五日

昭和十八(1943)年九月十五日の画像
【原文】
第三十七信
昨日の豪雨で濁つてい居た河も今朝あたり澄んで快晴の空、待ち受けて居た戰(ロツキード)爆大編隊(ボーイング)は小癪(こしゃく)にも侵入して来た。何機落ちるか?
友軍機の安全を祈りつヽ見守る。

 1943年、ニューギニアへ移り、戦況が激しさを増している様子が伺えます。手紙は軍の検閲も入るためか、戦闘の 状況を記した淡々とした内容ではありますが、自らは無事であることと、私たち家族への想いを馳せて宛てた手紙で はないかと感じています。

昭和十八(1943)年十月八日(超低空奇襲)

昭和十八(1943)年十月八日(超低空奇襲)の画像
【原文】
第三十九信
十月八日と云へばもうそちらは秋が訪れて居りますね。こちらは相変はらずの夏です。皆元気でせうね。自分も依然として無病壮健です。今月初め西富中尉殿が病気の為内地に還へつたので通信を言傅(ことづて)して置いた。そちらからの御便りももう一ヶ月位着かない。枝光君も未だ追及しないので例の服等の着否も不明です。こちらは又雨が夛(おお)くなつて毎日の様に降ります。降つては照り照つては降る内地の梅雨期そつくりです。爆撃も慣れて参りました。ノースアメリカン双発重爆が特有の超低空奇襲でジャングルの梢をゆさぶつて轟いて来る様は一寸乙です。

昭和十八(1943)年十月十日(美味しい果物)

昭和十八(1943)年十月十日(美味しい果物)の画像
【原文】
第四十二信
ナンカイセンセンノオイシイクダモノヲミンコチヤンニオクリマス。
コレハミンコチヤンガイツモカアチヤンノイフコトヲヨクキイテオリコウサンダカラソノゴホウビナノデス
「パパイヤ」ハカキトウリト一緒ニシタヨウナアヂデ「マンゴウ」ハモモトナツミカントヲ一緒ニシタヨウナアヂデス
タロウチヤンアツチヤチヤンカアチヤンモホシガツテオリマスカラワケテタベサシテアゲナサイ。
ミンナニヨロシク。サヨウナラ。

昭和十八(1943)年十月十一日(故郷を想う)

昭和十八(1943)年十月十一日(故郷を想う)の画像
【原文】
第四十三信
雨上りの陽光は燦々(さんさん)と大海原に溢れ海底に投射し風穏かに地平の彼方には悠然と雲湧き上る。此の平和な海原に空襲爆撃などあらうとは思へない程である。
今しも夛忙(たぼう)な荷揚げを終つて再び数千里の波濤(はとう)を乘り越へて我等の故郷の方向へ歸航の途に就かうとして居る一隻の船がある。心から航海の安全を祈る。

 戦闘が激しさを増したニューギニアでの滞在中においても、バナナやパパイヤなどの果物の絵を描いたり、家族を思 いやる父の優しい思いが感じられます。また、海辺に座り帰航の途に就こうとしている一隻の船を見て故郷に思いを 馳せる父の手紙を読むと、私も胸に迫るものがありました。家族と離れ離れになり、空襲爆撃などを受ける状況下 で、この先自分が生きていけるか、家族や友人に会えるかどうかもわからない心情が伝わってきます。

昭和十九(1944)年十二月二十二日

ニューギニア・ウエワクにて戦死。
(死亡報告はがき:昭和二十一年十二月二十六日)

昭和十九(1944)年十二月二十二日の画像
<最後に>
今回掲載した手紙のほか、父から送られた約386通の手紙には、部隊の移動歴をはじめ運動会、演芸大会の様子や、現地住民に予防接種や流産措置をするなど軍医特有の地域貢献活動を担った様子もつづられています。
私が五歳だった1942年の夏、父が一度中国から戻り、一ヶ月間自宅に滞在していたそうです。私が父との間で覚えている唯一の記憶は、その間に父にお馬ハイハイをしてもらい一緒に遊んだことのみです。
しかし、これら多くの手紙から、私たち家族がどれほど父に愛されていたかを知ることができました。戦争がなければ、私たちを始め、多くの人が家族と離れ離れになることもなく、命を奪われることもなく笑顔で暮らせていたことと思います。それは、相手国にとっても同じだったかもしれません。
三十七歳で家族を残し亡くなった父の手紙から、様々なことが感じ取れるのではないかと思います。多くの人の目に触れ、後世の平和のために役立てることができれば幸いです。

※今回見つかった手紙類は、諫早市(美術・歴史館)に寄贈されています。