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救護・運搬に従事したときの状況

ページ番号:0002189 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

救護・運搬に従事したときの状況 ~田島 利雄さんの被爆者救護の体験~

(この体験談は、田島利雄さんが原爆の被爆者救護活動を行った当時の様子を記録したものです。)

私は、昭和20年8月9日、長崎に原爆が投下された当日は、学徒動員生の一員として国鉄諫早駅裏付近の第21海軍航空廠輸送部で勤務しておりました。

午後3時ごろだったと思いますが、輸送部の上司から、輸送部前の広場に集まるよう指示され、そこで、長崎方面に大型爆弾が投下された模様で、負傷者が列車で運ばれてくるから、諫早駅に行き救護作業をするよう命令を受けたので、同級生らと一緒に諫早駅に行きました。

駅には、既に警防団や婦人会の人たちもかなり集まっていましたが、長崎からの列車はまだ到着していませんでした。

列車が到着したのは、午後4時過ぎだったと思いますが、列車で運ばれてきた人たちは、殆どの人が、顔や手足など、火傷でただれたり、けがをしており、肩を貸したり、かかえたりしなければ歩けない人ばかりで、衣類も焼けて、ボロボロになっている人、顔のただれがひどくて、年令の判断もできない人もおり、顔をそむけたくなるような状況でした。

警防団の方だったと思いますが、負傷者は海軍病院へ運べと、みんなに指示しておりました。

私は、さっそく、そばにいた同級生4人で負傷者をリヤカーに乗せて運びました。他の級友たちも、それぞれ、3人~4人ぐらいが、ひと組になって、大八車や、リヤカーで運搬作業を行っておりましたが、警防団の人たちは、戸板を使っている人もおりました。

私達4人は、列車から運び出されてきた負傷者をリヤカーに乗せるとき、警防団の人に手を貸してもらったりして運びました。

海軍病院には、4回ぐらい運びましたが、私達は、それぞれ交替でリヤカーを引いたり、押したりして運んだのですが、負傷者の人たちは、痛い、痛いと苦痛を訴えたり、「水をください」と訴える人もいました。

まもなく、海軍病院の方は、負傷者でいっぱいになり、収容できなくなったため、その後は、諫早中学校と国民学校に運ぶよう、責任者と思われる警防団の人から言われ、私達4人は、同じような方法で、負傷者をリヤカーに乗せて、諫早国民学校の方へ運搬しました。

負傷者は警防団の人たちに手を貸してもらったりして、学校の講堂に運び込みましたが、駅から3回ぐらい運んだころには、講堂の方もいっぱいになったようで、3回目ごろには、校庭の木の下にも負傷者を寝かせてあり、負傷者が「水を飲ませてくれ」と何回も呼んでいたのが、40年経った現在も耳の底に残っている様な気がしてなりません。

私は、同級生たちと、水をやろうと話し合ったりしたのですが、誰からともなく、水を飲ませたら、死ぬから、絶対に飲ませてはいけないそうだ、という注意の言葉を聞きましたので、かわいそうだなあと思いながら、水を飲ませることを思いとどまった記憶が、印象に残っております。

作業が終わったのは、午後8時頃だったと思います。

40年を経過してしまった現在、当時の詳しい状況については、記憶が薄れておりますが、現在も、強い印象として記憶に残っていることは、

(1)原爆落下直後、動員先の諫早駅裏で、真っ黒くなった空から、大きな火の玉(実は太陽)が落ちてくるのを見て、同級生たちと、どっちに逃げるかと一時大騒ぎしたこと。

(2)列車から運ばれてきた負傷者の焼けただれた姿を見て、あまりのひどさにおどろいたこと。

(3)救護、運搬作業に従事中、負傷者から、「水をくれ」と哀願されながら、それができず、やりきれない気持ちになったこと。

などです。

(令和3年5月 ご家族より受領)