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私が体験したこと

ページ番号:0002186 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私が体験したこと~ 江川 正次さんの被爆体験

私が中学1年のとき、大東亜戦争が勃発し、高校1年の16歳のときに終戦を迎えた。

私は、現在の長崎県諫早市で生まれ、中学3年を迎えたころ、大村の海軍航空隊に動員された。入隊した3日目に空襲に遭い、目の前約2mの所で、同僚に爆弾が命中し即死、私は命からがらそこから逃げ出した。同僚の両親は一人息子を亡くしたことをひどく嘆き悲しんでいたことを今でも私は忘れない。

諫早でエンジン組み立て工場で作業することになり、8月9日も同僚5人とエンジン組み立て作業に従事していた。防空壕で仕事の段取りをしていた時、かなり大きな爆弾の音がしたので、てっきり2・3キロ先の競馬場に爆弾が落とされたのだろうと思っていると、にわかに辺りが暗くなり始めた。それが、長崎原爆投下の影響だった。その日の夕方から翌日にかけて、私は諫早駅に駆けつけ、長崎から続々と送られてくる負傷者の対応追われていた。負傷者は口々に「水をくれ」といい、水を飲ませると5分もたたないうちにみんな亡くなっていった。その光景を見るのがとてもつらかったことを今も鮮明に覚えている。

8月13日、私は長男、次男、四女を探しにすぐ上の姉と父と私で長崎まで車を乗り継いで行った。すぐ上の姉は四女がいそうな浦上の三菱製鋼所の辺りを探し回った結果、大量の放射能を被ばくしてしまった。その日は3人で長崎駅で野宿したが、なかなか寝つけなかった。当然原爆投下間もないこともあり、みんなここでも放射能を大量に浴びてしまった。これが原因で私の場合は白内障を患うことになった。それから、四女は雪の浦に運ばれ、そこで葬式を行うという話を聞きつけ、雪の浦へ向かった。

次男は、原爆投下時は長崎造船所の船底で作業をしていて、難をのがれた。

長男はというと勤務していた三菱製鋼所より数日かけて歩いて実家までたどり着いたが、高熱にうなされ1か月後に亡くなった。

戦争のせいで、原爆のせいで、大事な家族、友人が犠牲になってしまった。もう、こんな悲惨な目に二度と遭いたくない。これまでの数々の被爆者が口々にしてきたことを私も同じように訴えていきたい。戦争は二度と遭ってはならない。長崎が最後の被爆地であって欲しい。

(令和2年7月寄稿)