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原爆記

ページ番号:0002180 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

※この体験談は、桐山さんのご意向により、可能な限り原文に近い形で掲載をしています。

~原爆記~ 桐山久子さん(諫早市幸町)の被爆体験

爆心から500メートル以内にあった城山国民学校で昭和20年8月9日被爆。奇跡的に生きて70数年。
何かの?見えない力で生かされている被爆の記録

桐山(旧姓 小川)久子
昭和4年生まれ

残り少なくなった人生

この体験は戦争を、核の悲惨さ、恐ろしさを知らない世代の人々に是非伝えなければならないと思い、長い間、頭の片隅に追いやって、忘れようと努めた記憶を呼び戻し、ここに書き留めた。毎年、8月9日が近づいて来ると体調が悪くなる。忘れてしまいたい。忘れよう。でも、中々忘れられない。
私しか知らない部分は、どうしても残しておかなければと思い直して、やっと湧き出して来た記憶を書き記した。そのため一つ一つの古い記憶は年月が前後している所もあるかと思う。

原爆投下 昭和20年8月9日11時2分
私は長崎県立高等女学校の3学年の時、労徒動員の報国隊の一員として、三菱兵器製作所、茂里町工場に勤務する事になった。事務所は工場地帯にあり爆撃の目標となり危險なので、住宅地にある城山国民学校(城山町33-1)の校舎の一部を借りて移転した。三菱兵器製作所分工場事務室である。

城山國民学校は爆心から500メートル以内の位置にあった。A.B.C.Cの調査では、私の席は廊下側で490メートル位だった。

8月9日、快晴、何時と同じ仕事をしていた。空襲警報が発令されたが、何事もなく間もなく解除になった。でもその直後、各教室に備えてあったラジオが米空軍、B29、2機が島原半島上空を西進中と告げた。やっぱり来るのかと思ったその時、11時2分、パッと目が眩むような真白な強烈な閃光と同時に背面から猛烈な衝撃を受け、体が跳ね飛ばされた。瞬間、目と耳をおさえたが、上から何かおおいかぶさり、机の下?に押し込められているようだった。あたりは建物の壁、机、椅子の破壊された粉塵で何も見えない。一瞬シーンとした不気味な靜けさだった。私すぐ近くに大型爆弾が落ちたと思ったので、「助けてー!」と大声で2、3度叫んだが、何の反応もなく、あたりはどんな状態なのかよく見えない。

ここにいても助けは来ないと思って、身の廻りの瓦礫をはらいのけたら何とか立ち上がる事が出来た。隣の同級生と手がふれあったのでお互いに引っ張って立ち上がった。少しずつ視界が開けてきたので廊下へ出て、いつも利用していた階段まで行ったが、筒抜けで3階から階下まで抜け落ちて、階段らしいものは何も残っていない。(平成9年当時の写真を見たが鉄筋は引きちぎられ折れ曲っていた。あまり簡単に落ちていたので、校舎とは別で木造と思ったが、やはり同じ鉄筋コンクリートと知ってそのすさまじい破壊力を改めて実感した。)急いで引き返し、その時教室から出て来られた事務職女性2人と通常は通行禁止になっていた西側の小学校が使用していた校舎への渡り廊下を4人一緒に駆け抜けた。あとで聞いたが、下は小使い室になっていて、お昼の茶の湯を窯でわかしていた。その火が天井に燃え移り渡り廊下は焼け落ち、私達の他に渡れた人はいなかったそうだ。

階下に降りて校舎の出口で愕然とした。外は誰が誰だかわからない程、火傷をした人、衣服もボロボロ、血だらけに変り果てた人。生きているかわからない人達がゴロゴロと横たわっている。4人は言葉もなく入口の階段に座り込んで了った。私は廊下側だったが窓に近い人は鉄の窓枠、ガラスも一緒に吹き飛ばされ地面に落ちてしまったのではないか?

気が付くと私の右手、人指し指、中指の根本がパックリと口を開け骨が見え、血がしたたり落ちている。ひどい怪我をしたと思った時、三つ編みにして胸まであった髪の毛が爆風にあおられ結んでいた毛先が耳の所に来て、その先から生温いものがスタスタと膝に落ちる。血だった。頭も怪我している。腰も異常を感じたので触ったらモンペは裂けて、手を入れたら皮膚も身もはじけた感じだった。けれど不思議に頭も手、腰も全く痛みを感じなかった。その時生れて初めて血生臭さを体驗した。

目を遠くに移すと、あの緑豊かな美しかった城山の住宅街が木端微塵に砕け去り、瓦礫となり、あちこちから火の手が上っている。このまま、ここに居ては火に巻かれてしまう。どこかに逃げなくてはと、4人であたりに転がっている人々をまたいで歩き出した。どこへ行くあてはなかった。途中、全身はだかで黒こげに火傷をした男の子が「一緒に連れていってよー」とよろよろついてきたが、手を取ってあげる余裕はなかった。その子はいつの間にかいなくなってしまった。かわいそうな事をしてしまった。又爆風でずたずたに破れた衣服をまとった若いお母さんが首がちぎれかけて後にぶらさがり既に息絶えた赤ちゃんをしっかり抱きしめて、ふらふらと立ち上がりついて来られたが、その後どうなされたか。姿は見えなくなってしまった。辺りはむごい事ばかり、目にした光景は忘れないが書けない。(山端庸介の写真集「長崎ジャーニー」が物語っている。)

三菱兵器製作所の大橋工場へ行けば本部の人たちと会えるかも知れない。火を避けて護国神社へ登った。社殿は崩れてあと形も残っていない。人の気配は全くない。この先までは被害は及んでいないと思い、ここを越えれば何とかなると思ったが、その先も焼跡と瓦礫ばかり。通り過ぎて市立商業高校のグランドへ降りた。途中で鎮西中学校5年生の生徒さんに出会った。その人はお友達を背負っておられたが、その人はお腹が裂けて腸が出ていた。その生徒さんは、「もうこの友達はとても助からない。少しでも望みのある人を連れていこう。」と親切に私をおぶってくださった。

しばらく暑い廃墟の中を歩き、漸く森の中に入り、涼しい水の流れがあった。暑さもやわらぎ、皆疲れた体を休ませた。私はここちよく眠くなりウトウトとした時「かわいそうだけど、もう駄目だろうから置いていこう。」と声が聞えた。私の事らしい。驚いて手に触れた足に力一杯しがみついて「置いていかないで。連れて行ってー!!」と叫んだ。

山をおりて森を出なくては、又皆で移動を始めた。その時どこからか朝鮮の若者が現れて合流し、疲れた生徒さんに代り、私を背負ってくださった。なんと大きく広く強そうな背中かと安心してしっかりとつかまっていた。

川の側に出た。どこの川かわからない。川の中は火傷をした人、大怪我をした人で一杯だった。まともな姿の人は一人もいない。皆無表情で呆然と水の中にすわっている人、横たわっている人!!

あちこちから消息を尋ねる叫び声が聞える。「大橋工場給与課の課長はおられませんか?」と叫ぶ声が聞えた。課長も行方不明かと益々心細くなった。大橋工場も破壊されていた。

どこをどう歩き、どこの情報だったかは、今となっては定かな記憶はないが、大橋のガスタンク横の広場で待てば、救護列車が出るとの事で大橋へ向った。着いた時はうす暗くなって、雨まで降りだした。大橋へ着いたあと、あの朝鮮の親切な若者はどこへ行かれたのか、姿は見えなかった。御礼も言えなかった。

ずいぶん待ってやっと来た列車は、動けない重傷の人達か、簡単な消毒の手当の人しか乘れず、諫早か大村までしか行かない。女性事務職の一人はそれに乘り、諫早で降りて、迂回路を通って長崎へ行くトラックに乘って帰られたそうだ。その後、私の消息を書き表書に「小川久子さんの消息が書いてあります。目に留った人は造船所に届けてください」と書き新大工町の電信柱にくくりつけてくださった。それが父の元へ届けられた。

次の列車は道ノ尾駅からしか出ないと聞いたので暗闇の中を鉄道の大橋の鉄橋の枕木の上を歩いた。私達3人と、もう一団、戸板に怪我人をのせて男性4~5人が渡った。

道の尾駅に着いた時は少し明るくなってきた。漸く救護列車に乘ったが、大村では重傷患者だけが降された。軽傷者はそのまま乘っていた。竹松も止まる駅はすべて怪我人で一杯。だんだん遠くへ運ばれやっと降りたのは、早岐駅だった。救護所は早岐国民学校。道を教えていただき歩いた。こんな遠くの早岐に来て父母は知らないだろうから、もう会えないで死ぬのかと…!

漸くたどり着いたが、そこは既に怪我人で一杯。私のように歩ける者は治療も待たされ、頭にささった2センチメートル角位のガラス片をペンチのような器具で力づくで抜き取り、消毒をしてリバノールガーゼをのせただけ。手、足、服の中の傷は見ていただけなかった。教室へ行ったがもう一杯。少しのすき間にねた。

廻りを見ると、背中一面、ガラス片、木片、竹のササラのようなものが無数に刺っている人、身体全体、何もまとってなく、頭も、体も、手足も黒焦げの火傷でパンパンにはれあがり、目も鼻も口もわからないような人。まるでゴム手袋をひっくり返したように肘のあたりから手の皮が赤むけになり、爪の先だけでくっついて、ぶらぶらとぶらさげたまま歩いている人。これが地獄かと思う有様だった。私等は極軽傷だと思った。

同級生は一人っ子で、こんな悪環境の所はとても堪えられないと、その日の夕方、早岐発のトラックで帰ってしまわれた。とうとう、私一人になってしまった。

教室、廊下、三和土は、足の踏み場もない程、怪我人が寝ておられた。生きているのか死んでいるのかわからないような、衣服もまとっていないような人達が空襲警報が鳴ると、ガバッと起き上って防空壕へ急いで行かれる。私にはそんな力は残っていなかった。黙ってその人達を見ていた。防空壕へ行ったきり、戻って来ない人も何人かいた。隣に寝ている人のおなかの大きな傷口からはウジが盛り上がってこぼれるようにボロボロと出て来て、あたりを這いまわる。枕元の人は苦しそうに、うなっておられたが、とうとう動かなくなってしまわれた。

「小川さん!小川さんではないか?私の顔を覚えているか?」と声をかけてくださった方がおられた。長崎の付属小学校の頃の先生だった。こんな所へ来て先生にお目にかかれたなんてと、涙が溢れた。暫くして小さな赤ちゃん用の敷布団を持って来てくださった。お布団はとても柔かだった。早岐まで運ばれてこんなに遠くまで来てしまっては、もう父母にも会えず死ぬのかと思っていたので先生にお会い出来たのは幸運だった。早岐で良かった。偶然とは言え、先生にお会い出来たのだから!!すぐに早岐警察署に連絡。早岐警察署から長崎警察署へ、そして父へ知らせてくださった。

8月12日?だったと思う。日時は全く解らなくなっていた。父の知人が若い男性2人と迎えに来てくださった。坦架に乘せられ、学校を出て漸く我が家へ向った。坦架に乘って運ばれる幸運に恵まれたのに、ゆさゆさとゆれる度毎に弱った体にはなんと苦しい事であったか。

早岐駅から列車に乘り長崎へ向った。諫早を過ぎ、長与のトンネルを出た所で米軍機の機銃掃射を浴びた。列車のすぐ横をヒュッ、ヒュッ、ヒュッと音を立てて銃弾が何発も飛んで来た。急いで座席の下へ降り、若い男性が覆いかぶさってくださった。列車は再びのろのろとトンネルの中へ引き返し暫くなりをひそめていた。再び動き出したトンネルの窓の外は一面の焼野原。曲りくねった電柱に倒れかかって死んでいる牛、地面に転がっている馬、恐しい光景が広がっていた。

列車はまだ道ノ尾までしか開通していない。私の体力では道ノ尾から南山手の自宅まではとても無理なので、道ノ尾の父の知人のお宅へお願いしてお世話になった。やっと畳の上の柔いお布団に安心して寝ることが出来た。落ち付いて緊張が解けたら、右の耳の傷がズキズキと痛い。幸い隣りの道ノ尾神社に長崎大学医学部外科部長の調教授が御自身も怪我をされながら婦長とお二人で救護所を開いておられた。お願いして教授に往診していただき、耳の傷にささっていたガラス片を抜き取り、膿を押し出してくださった。膿と一緒にガラス片が出て来た。痛みは少しずつ薄らいできた。体のあちこちの傷も見ていただき、長時間傷口が汚れたままになっていたので破傷風を発症するおそれがあると血精の注射をしてくださった。その後も往診していただいた。ありがたかった。

ここ道ノ尾で天皇陛下の終戦のお言葉を聞いた。日本は負けたのだ。この後はどうなるのだろうか。不安が広がる。家主の小父様がいざと言う時のためにと、日本刀を数振り出して来られて、私の部屋にも一振り置いていかれた。アメリカ軍につかまって連れて行かれるよりは自刃するようにと用意してくださった。

ここで食事らしい食事をいただけたので少しずつ、体力も回復して来た。父も数回会いに来てはげましてくださった。早く父母の元へ帰らなければと、歩く練習を始めた。足は細くガクガクになってしまったので、先ず起きて座る事、次に立つ事、腰も抜けてぐらぐらとする。2歩、3歩と歩いた。靴をはいてお庭に立った。帰りたい一心で表のお庭までほんの少しの近い所だが懸命に歩いた。

帰る日がやっと来た。8月24、25日だったか?長崎駅まで鉄道が開通した。私は自宅の受け入れが整った8月29日日?に道ノ尾をあとにした。車窓から眺める景色はここも焼野原。三菱製鋼所、三菱兵器製作所茂里町工場、三菱造船所幸町工場は皆、押しつぶされ、原形をとどめていない程、めちゃくちゃに破壊されていた。馬がガクンとひざをついたまま、白骨になっていたのを思い出す。忘れられない光景が広がっていた。

長崎駅からはすぐ隣りの水産場から舟に乘り、松ヶ枝の炭坑社の桟橋に上陸。背負われて、やっと南山手の自宅にたどりついた。和室にゆっくり落ち付く事が出来た。ここもベランダー側のガラス戸は原爆の爆風で全部割れてしまったそうだ。

待機しておられた医師の診察を受け、傷の手当、血液檢査を受けた。白血球の数値が非常に少くなっており輸血の必要がある。早い方が良いと、9月4日、1回目の輸血。輸血が始まった直後、激しい悪感。父が力一杯おさえてくださったが止まらない程の震えと寒さに苦しめられた。その後2回輸血をしたが、度毎に激しい悪寒になやまされた。

その後、少しずつ回復し気持に余裕が出来たので、被爆後よごれた髪もそのまま、櫛も入れてなかったのでときたくなった。三つ編にして胸まで長かった髪が爆風にあおられ逆毛立ち、耳のあたりまで短くクシャクシャになり血液が血糊となってドス黒くかたまり、こびりついていた。母に櫛と新聞紙と屑籠を持って来てもらった。新聞紙を広げ、手先から少しずつ櫛けずった。血の固り、ガラス片、木片、瓦礫の土くれなどがザラザラと出て来た。毛もどんどん抜けて来る。1ヶ月近くも髪をといてなかったので、たまっていた抜け毛が出て来たと思い屑籠に入れた。すぐに一杯になってしまった。

その時、私の様子を見に来た母の顔が急にこわばり、櫛をもぎ取り、一杯になった屑籠を持って足早に出ていってしまった。何事が起きたのかわからなかった。丸坊主になっていたのだ。お手洗に行って鐘を見てしまった。情けない姿に愕然とした。こんな姿ではとても復学して通学したり普通には生きていけない。少し元気になって歩けるようになったら、誰も知らない遠くの尼寺を探して行こうと思った。涙が溢れて止まらなかった。でも大叔母や父、母には見せられない涙。もうこれからは絶対に泣くまいと覚悟した。

その頃から口の中、喉の奥まで白い大きな水泡が出来て、言葉を言う事も、水、食物を食べる事も、唾液を飲み込む事さえ痛くて出来ない日が続いた。柿の葉を煎じて飲むと良いとか、乾燥して粉末にしたレバーをとかしたスープが良く効くとか、皆さん心配して色々と教えてくださり、母もそれを工夫したお料理を作ってくださったが、唯でさえ、口は痛いし、食欲もないので、おいしくいただけるものではなかった。

左腰の傷は化膿してガーゼを取換える度に膿と一緒にいつまでも小さなガラス片が出て来る。仰けに寝ると傷が痛いので身体をひねって寝ていたので、右腰骨あたりが常に体重がかかり圧迫されてだんだん感覚がなくなり褥瘡になってしまった。母が紫色になってると心配していた。気分の良い日には庭の良く見える部屋の靜かなベッドに連れて行ってもらい庭を眺めるのもささやかな楽しみだった。

この家も、立ち退きを命じられた。家族は弟や妹が未だ幼く、少しでも靜かで食糧が豊かな所が良いと、南高来郡神代村(国見町神代)小路の鍋島邸別邸を拝借して移り住む事になった。私は未だ治療があるので大叔母と長崎に残った。

その頃私は家族と同じ食物を食べているのに、私だけが激しい嘔吐、下痢、全身の蕁麻疹に悩まされた。又、顔の右半分が麻痺して動かなくなり長く続いた。

毎晩、眠りにつきウトウトしはじめると、急に枕元に暗い大きな穴がポッカリと口を開け、頭から逆さまに穴に吸い込まれる。こわくて悲鳴をあげる。父は傍に座って手をしっかり握りしめてくださった。幾晩も続いたので夜が来るのはとてもこわかった。

又悪夢を見る。私はどこかの渚に立っていた。沖の方を筏が通っている。筏には沢山の怪我をした人、火傷をした人、そしてその中には学校のお友達も乘っている。私をみつけて「久子ちゃん、久子ちゃん早くおいでよ。早くこないと乘りおくれるよー」と皆で手まねきをしている。私は沖の筏に向って一生懸命歩こうとするが、なぜかどうしても足が動かない。とうとう筏は通り過ぎて行ってしまった。乘る事が出来なかった。もしあの時、筏にたどりついていたら、亡き人の仲間になっていたのかも知れない。

昭和20年10月中旬頃だったと思う。アメリカ進註軍と日本の合同調査が始まり、新興善小学校で行われた。私にも出頭するように要請が来た。二日間に亘り、当時の城山国民学校の様子を詳細に尋ねられた。私がいた教室の机の配置、そこにいた人の名前や席の配置などを図を書いて詳しく聞かれた。その時、あの教室の生存者は今は私一人だけだと初めて聞いた。驚いた。私が教室のどの位置に、どんな姿勢でどちらを向いて何をしていたかと詳しく尋ねられた。その調査で城山国民学校の3階の端の教室がペシャンコにつぶれてしまったと聞かされた。幼稚園からずっと一緒だった林嘉代子さんは3階で亡くなられた。(米軍撮影米国国立公文書館所蔵、長崎被爆荒野106頁)

昭和20年12月末、やっと神代の母の元に帰れる事になった。家族皆で新年を迎えられるようになった。久し振りに母の手料理をいただいた。とてもおいしかった。賑かだった。又近くの農家の方々からいただいた、みかん、野菜、牛乳、卵などなど、食べるもの、どれもとてもおいしかった。幸せだった。でも食料難はここでも厳しく、お米は母の和服と物々交換でやっと手に入れる事が出来た。朝食はおいもの方が多いいもがゆ、昼食はふかしいも、おやつはいもじるこ、勿論、砂糖やだんご等は入っていない。夕食はこれもおいもが多いいも御飯、野菜は父が近くの農家から少しの畠を借りて種を買って、袋の説明を読み作っていた。

丁度その頃、頭をさわると何かチクチクと指先にふれる。母に見てもらったら髪の毛が生えて来ているようだと。家族みんなでとても喜んでくれた。これでもう尼寺へは行かなくてよい、皆と一緒に居られると本当に嬉しく安心した。

お風呂に入り左足のスネをこするとチクッとして血が出た。翌日も翌々日も同じ事がおきる。指先で押えると固いものがあり痛い。ガラス片が入っているようだ。村の外科医の母里((ぼり))先生に診察していただいたら確かにガラス片が入っている。人間の身体は異物を外に出す作用をする事がある。ほっておくと傷口が化膿する恐れがあるとの御説明で摘出する事になった。十文字に切開してガラス片を取り出してくださった。先生が「被爆者の体内から今頃になって出て来たガラスは滅多に目にする事はない。珍しいから記念に欲しい」と言われたので、差し上げた。又、数年後、右の頬からも同じような状態でガラス片が出てきたので摘出した。

翌年2月頃から頭、顔、手足、全身に8ミリメートル位の水泡が出来てだんだん中が化膿してズキズキと痛んだ。背中一面にも出来ているので、寝ると痛いので安眠出来ない。何のお薬もなく長い間苦しんだ。そのうち水泡はカサカサになり、皮がはげてやっと治った。

その後もひどい口内炎がしばしばおきて食事が思うように食べられなかったり、倦怠感がひどく起きていられなかったり、血液檢査の度毎に白血球が減少していて治療を受けていた。

昭和29年結婚の話があった。被爆者でありながら結婚し、子供を産んでもよいのかと、主治医にご相談した。当時は被爆の影響が一生続くとは、誰も思っていなかったので、主治医も勇気を持って望みなさいと励ましのお返事をいただいた。やっと決心した。

だが、二人共早産だった。小さく、生れてすぐは会えなかった。常に観察出来るようにと婦長の部屋に寝せられ、酸素吸入をしていた。母乳は自力では吸えない。一時間おきに看護婦がしぼりに来られ、器に少ししぼって、脱脂綿を細長く丸めて、母乳を含ませ、口の中へ少しずつしぼり込む。飲んでくれたかと思うと半分位は口の端から流れ出た。

やはり私の被爆の影響があったのか、子供達は何も知らずに生れてきてかわいそうな事を、無責任な事をしてしまった。健康に育って欲しいと思って生れる前から名前には健と康の字を用いる事にしていた。二人の子供を授かり、健と康子と命名した。そして、子供達が一人立ち出来るまでは、自分の健康も今まで以上に大切にしなければと思った。

だが、その願いは続かなかった。昭和34年、アパートの我が家の横に市の保健所の檢診車が巡回して来た。子供達は庭で遊んでいたので念のためと思って受診した。結果はまさかの肺結核の発見だった。早期発見だから良かった。主治医の治療を受けた。1年間ストレプトマイシンとパスの治療だった。

昭和36年頃から月に1、2回激しい頭痛に襲われた。時計の小さな秒を刻むコチコチという音が頭につきささるように痛いし、僅かな光でも目を開いていられない程痛い。頭は疲れ果てて眠りたいのに眠れない。戸を閉め切った真暗な部屋でじっとこらえていた。2、3時間位すると少し楽になる。この状態は6~7年続いた。

又急に目まいがして後にドスンと倒れる事が時々おこった。外の影色が廻るのではなく、後頭部の首に近い所の内部が突然かきまぜられるような表現しにくい目まいだった。外出している時、前兆のような感じがすると、又急に倒れるのではないかと急いで帰宅し、常に恐れていた。

昭和38年頃からか、定かではないが、突然激しい目まいと嘔吐で倒れ、主治医に往診してもらい点滴をしてもらっていた。2~3ヶ月に1回はおこる。これもこわくて長時間の外出は望めなかった。

昭和45年、甲状腺の手術をした。被爆は甲状腺に影響を及ぼす。鏡を見ると首の右側がふくらんでいる所がある。触ってみると、確かにしこりを感じる。診察していただいたら、甲状腺の横に脂肪腫と思はれるものが5個程出来ている。今は悪性ではないが悪性の腫瘍になる事があるので摘出する事にした。9月19日入院、大きい3個は摘出したが、あとの小さいものは結索した。12日間の入院。予後は順調に快復したとはいえ、首を廻すのが暫くの間は痛かったので不自由だった。今もその時程ではないが右はあまり廻らない。

昭和48年8月、腹部左側にしこりがあるのに気がついた。婦人科での診察で子宮にこぶし大の筋腫が出来ていた。出血がひどく、盆血していたので摘出した。

又、乳ガンもこわいと思っていたので入浴時、乳房をさわって気を付けていた。平成3年9月、小豆粒位の固いしこりが右乳房外側にあるのに気がついた。乳腺の炎症の固さとは少し違って小さいのにクリッと固く、おしても痛さは感じない。当時広島に住んでいて、広島でも放影研の檢診があり、丁度その時期だったので担当の医師に相談した。医師は専門ではないので次週、広島大学の江崎先生の診察の予定があると予約を取り紹介していただいた。内分泌の専門だった。江崎先生の診察で確かにガンの恐れがある。早くマンモグラフィーの檢査を受けるようにと放射線科病院に予約を取り檢査をした。やはり乳ガンだった。乳房温存法の手術を受け、傷が癒えた後、少しでもガンが残っていると再発するので放射線照射をしていただいた。その後3年位は右側の首、右腕、脇腹の筋肉がつっぱって毎日の生活に影響が出て不便を感じた。

平成16年7月主治医から電話があり、先日の胸部レントゲンの檢査の結果、昭和35年の肺結核のキズあとではないものが写っている。肺ガンの疑いがある。大村国立病院の呼吸器専門の医師の診察を受けるように予約を取り紹介状を書いたから、4月9日に行くようにと言われた。

肺ガンと知らされてショックは大きかった。だが原子爆弾が投下された瞬間、あの美しかった緑の城山の住宅街、当時としては珍らしかった鉄筋コンクリートの城山小学校が壊滅し、すべてが死んでしまったような悲しいショックに比べたら、私一人の事。まわりには充実した病院、設備が、医学があり、沢山の医師がおられる。主治医も家族も見守ってくれている。又、立ち向っていこうと思った。だがやはり、もしもの事を考え身辺の整理だけはした。

呼吸器科の診断の結果、しばらく様子を見て患部に異常が起こったらすぐに手術をする事に決った。通院する度に待合室で待っていると、お腹がグヂグヂと痛くなり下痢をする。弱虫だと思うが、自分ではどうにもならない。

丁度一年経った頃、ガンが進行し始めた。治療をはじめる事になった。方法は手術と定位放射線の治療がある。手術の方法は外科医に聞いてとすぐに電話をしてくださったので伺った。考えただけでも気が遠くなりそうに怖い。私は身体にもうメスを入れたくないので後者を選んだ。定位放射線治療は県立島原病院でしか行っていなかった。私はその方法には何の知識もなかったので、島原病院の担当の医師の説明を伺うため、平成17年2月、島原病院へ行った。とてもご親切に説明してくださった。生存率を伺ったら、未だこの治療を行っている所は京都大学と島原病院だけで、協同で始めて2年、治療を受けた患者も100名位で参考にはならないそうだ。ただし、この治療は確実にガンと判明しないと、他の病気だと悪化する恐れがある。PET.C.T でガンと確定したら治療は可能だと言われた。当時、PET.C.Tの檢査を行っている所は長崎県にはなく、久留米まで行かなければならない。手術をする位なら久留米でもどこでも行く事にして、檢査を受けガンと確定した。

島原病院で治療を受ける事にした。平成17年4月入院、放射線の治療は毎日受けた。合計4回、一週間で終った。退院時のご注意で放射性肺炎を必ず発病する。ガンの廻りが微量ではあるが放射線で傷つく事はさけられない。微熱が出たら、時間外であってもただちに診察を受けるようにと言われた。8月予期していた肺炎が発病した。ステロイドを服用した。その後、定期檢診を受けていた。決して順調に快復したとは言えなかったが、徐々に健康を取り戻した。平成26年2月の檢診の結果、肺ガンは寛解しました。もう通院の必要はありません。と告げられた。ホッとした。嬉しかった。早速家族、兄弟に知らせた。長かった!!

平成18年11月14日、私は聞いてないがナトリウムかカリウムの異常で倒れ、救急車で国立大村病院へ入院した。食事の制限もあり3週間の入院だった。病名は知らされなかった。

それからも白内障で両眼の手術。不整脈。目まい、嘔吐などしばしばおこった。不整脈は今でも季節の変り目などにはおこるが治療もないので、我慢する。

平成30年7月14日自宅の廊下でころんだ。大腿骨を骨折。7月17日に諫早總合病院で手術、金属の人工骨を入れ、歩けるようになった。3週間後、リハビリのため貝田整形に転院。8月8日から10月13日まで歩るく訓練をして退院出来た。

被爆して60年、70年と過ぎ、少しずつ客觀的に体驗を眺め、話せるようになった。そして被爆した後は、絶対に行きたくない、近寄りたくないと避けていた城山国民学校に一度は行ってみようと思った。私達が使用していた所ではないが、3階から地上まで抜け落ちた階段は保存されていた。

今、息子、娘二人共、還歴を過ぎ、今日((こんにち))まで大きな病気もせず、健康に暮している。私にとっては、このうえない喜び、幸せ、安心。そして一番の嬉しい親孝行をしてくれている。

2019年7月24日 完

(令和元年7月寄稿)