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先の大戦から戦後70年の戦い

ページ番号:0002177 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~先の大戦から戦後70年の戦い~ 本田 勇豪さん(諫早市船越町)の戦争体験

私は、諫早市立諫早国民学校に入学し、小学2年生の時に終戦を迎えました。戦後70年を振り返ると、よく70年生きてきたなという思いをいだきます。戦前・戦中・戦後に対する反省をしっかりと踏まえる必要があることは、言うまでもありません。

当時は、警戒警報・空襲警報の鐘・サイレンや不意に飛来する敵機の飛行機におびえながら、担任の先生、地域の先輩やお兄ちゃん達に引率されて学校に行き、教室で勉強したり、校庭を走り回ったりする場所も時間もない無為の日々を過ごしておりました。
小学校では「手旗信号練習・竹槍での攻撃等」を学び、国民小学校での戦いでもありました。校庭の北隅に位置していた「二ノ宮尊徳の銅像」なども忘れられない思い出のひとつです。
昭和20年8月3日の朝、「警戒警報」発令の合間をぬって、船越町から母の本家に向かうため、兄姉弟妹達と小野駅へ連れられ、そこから約5km川沿いの田舎道を大きな荷物を背負って歩きました。途中で「赤トンボ」の愛称で呼ばれる複葉練習機がある小野島飛行場(大村海軍航空隊諫早分遣隊)で休息しました。土を固めた滑走路にあった3機の赤トンボ(飛行機)を近くでみると、思ったより大きくツヤツヤした木製のプロペラで、2枚羽根の布のキャンバスにゴッテリと塗られた塗料がところどころひび割れていました。飛行兵としゃべりながら、「今日は特別だ。」と戦闘機に触ることができ嬉しかった記憶があります。
母から金毘羅山の話や、昭和2年に大水害が起きたこの小野平野での出来事を聞きながら、ぼつぼつと歩いて実家に到着しました。今は亡き、叔父・叔母の愛情で支えられながら自然を愛し、小野平野と共存したいと思う強い私の性格は、疎開・土と共に過ごしたこの少年期の疎開生活が礎になったことは、間違いありません。

8月9日、私は疎開先(母の実家)の生活にもいまだ慣れず、田畑の草を採っていました。昼ごろに、赤トンボ(飛行機)がある飛行場の近くを米軍機B29が通り、11時2分、長崎へ1発の原爆を投下しました。米軍B29「ボックスカー」から「ピカドン」(原子爆弾ファットマン)が投下され、爆心地から約30km離れた位置にいた私の目にも、四方が「キラリ」と光り山を越えて入ってきた光景が、今も記憶の片隅にかすかに残っております。そして「ギラギラ」と暑い日差しの中、私は原爆投下の瞬間、長崎の空が黒くなるのを諫早からじっとながめていたのです。
私は、長崎への原爆投下を目撃した証人です。長崎の地上500m上空で爆発した「1発の原爆」によって約15万人が死傷したのです。

父は消防団員をしていたので、長崎で無念にも犠牲となられた多くの御霊者が諫早駅へ運ばれた際、火葬するため雨戸板に犠牲者を乗せ、リヤカーで天満町にあった市営の火葬場に運搬する作業をしておりました。日増しに亡くなる人が増え続け、運ぶ間隔が迫っていき、運搬手段もリヤカーから人力車、牛車から馬車へと大型化していきました。私も消防団員の人達と焼けた犠牲者を運ぶ手伝いをしていました。
母たちは、婦人会から召集があり、妹を背中におぶって「炊き出し・にぎりご飯作り」など小学校講堂での活動や負傷者の看護を懸命に致しておりました。
昭和20年8月14日、我が国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日、昭和天皇からラジオを通じて「終戦の詔書」が発表され、全日本軍は一斉に戦いを止め連合軍に降伏しました。この8月15日が「終戦の日」でこの日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていました。
戦争が終わり、アメリカの占領軍が諫早に上陸した時は、その後を追い、ジープやトラックに近づき子供ながらアメリカ兵隊からチョコレートやガムなどをもらっていました。占領軍は、小野島川内町へ向かい、航空隊跡の曙兵士舎へ駐屯していたと記憶しております。

このような時代を過ごしてきましたが、終戦を迎えた後も農業生活や父の建設関係の手伝いをしながら、多くを学ぶことが出来、その後の人生に数知れない知識を得られ、生きのびてきました。

【戦死した私の親族について】
母の弟、陸軍伍長享年26歳。昭和19年7月18日、マリヤナ方面サイバン島上陸に於いて戦死。

父の弟、陸軍工兵軍曹7等功6級 本田政雄享年34歳。昭和12年11月11日、淅江省錢家濱附近の戦闘に於いて戦死。昭和13年3月7日、現在の諫早高校で町葬儀(当時は諫早町)を営む。

召集を受け、出兵する前の様子の写真

【召集を受け、出兵する前の様子】

本田政雄氏(父の弟)の町葬儀(場所:現在の諫早高校)の写真

【本田政雄氏(父の弟)の町葬儀(場所:現在の諫早高校)】

国破れ、早くも先の大戦から戦後70年が経過しました。平和ボケの自分と日本国民に警鐘を与えるため、そして憎むべき無差別テロへの怒りの気持ちと無念にも犠牲となられた多くの御霊に対し、真心からの追悼とやすらかなご冥福を祈ります。
最後に言葉があります。「老兵は死なず消えさりもする。」

(平成27年8月寄稿)