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戦後の平壌(ピョンヤン)にて

ページ番号:0002168 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

戦後の平壌(ピョンヤン)にて

高以来 眞須美(たかいら ますみ)さん(栗面町)

 第二次世界大戦が終戦するまで、多くの日本人が海外で生活していました。しかし、日本の敗戦により海外で生活をしていた人々は、日本へ引揚げることになりました。この体験談は、諫早市在住の高以来(たかいら)さんに、引揚げまでの日々について寄稿いただいた内容です。

〈はじめに〉
敗戦後、平壌の近くに居た日本人は、戦争に負けた国民として、何か所かに分けられ収容されてしまいました。その時、私は10歳で4年生でした。その時のことを思い出して書かせていただきます。

〈戦争に負けた日から〉
私がロシア人を見たのは、戦争に負けたと聞いた翌日だったかと思います。道路に人だかりができていたので、何事かと周りの人に尋ねると、ロシア兵であることを教えてくれました。私は少々離れたところから見ていましたが、そのみすぼらしい服装は、戦いに勝った国の人とは思えませんでした。衣服はぼろぼろで、裸足でした。鉄砲を持っていました。急いで家に帰り、母に告げたら「危ないから外に出たらいけない」と言われました。母は、銀行でも郵便局でもお金が引き出せないので途方に暮れていました。我が家の父は兵隊に行っていたので、給料は銀行などに振り込まれていたからです。

夕方、父の友人である朝鮮の人がこっそり来て、私の家の玄関に朝鮮の旗を立ててくれました。そして、「これでロシア兵は家に入ってこないだろう」と言って帰りました。ロシア兵は乱暴で、日本人の家に土足で上がり、めぼしいものや金銭を持ち去って行くのです。

それから間もなく、父が軍隊から復員してきました。南朝鮮の部隊に所属していたので、終戦と同時に帰宅できたのです。もし北朝鮮の部隊だったら、シベリア送りだったそうです。それからも日本人は、恐れながら家の中で過ごし、外に出ることもできず、息をひそめて暮らしていました。ある日の夕方、日本人は急に駅前に集合するようにと、朝鮮の警察のような人から命令が出ました。それこそ着の身着のままでしたので、秋でしたが母は私たちを冬服に着替えさせました。そして、平壌駅の近くの体育館のようなところへ入れられました。「2人につき畳1枚」の広さが割り当てられたので、私たち家族は、父、母、私、妹2人と弟の6人で畳3枚の広さが割り当てられました。当分の間の食糧としてだったのでしょう、この時コーリャン(きび)や大豆をもらったようです。米はその時もらわなかったと思います。市場はありましたけれど、お金がないので何も買えません。これからは、自分たちで食料を求めて生きていかねばならない状況になりました。

男の人は使役にかり出され、駅の荷物の運搬や、墓掘りをしていたそうです。賃金をもらっていたかどうかはわかりません。使役に行かなくてよい時は、ロシア語で「アラボータニナーダ(仕事はありませんか)」と言いながら、ロシア人の家や、朝鮮人の住宅を回って収入を得るような生活に変わってしまいました。
女の人は、「ステラーチニナーダ(洗濯物はありませんか)」と言って、ロシア人の家を一軒一軒、仕事を求めて歩きました。女の人がひとりで出歩くのは危ないので、二人一組になり働いて回りました。私の家も、私と母で働きに出ました。当時私は小学4年生の子どもだったので、大声でちょろちょろと狭い道を「ステラーチニナーダ」と言いながら走り回りました。女の人に会うと、「マダム、ステラーチニナーダ?」と言います。ほとんどは「ニェート、ニェート(ない、ない)」と断られます。少々疲れてきたころ、「ダワーイ(おいで)」と呼ばれます。母が洗濯をする間、私は炊事場、廊下、玄関など丁寧に掃除をします。

また、母に献立の下準備をさせるマダムもいました。その時の野菜のくず、ニンジンやじゃがいもの皮、白菜の外側の葉、魚の頭など、何でももらってきました。ロシア人の家のごみ箱の中には、缶詰の食べかけなども捨ててありましたので、拾って食べたりしました。野菜などのくずは、立派なスープの具になります。ロシア人の方でも、古くなったパンや冷ごはん、残ったおかず等をこころよく私たちにくれました。食事の残り物も、もらえるものは何でももらってきました。木炭のくず、練炭の燃えかす、古靴、古着など、その家のごみ箱に捨ててあるものを拾いました。ゴミ捨て場からも、木切れや練炭や木炭の燃えかすを袋に入れて持ち帰りました。自分たちで食料も燃料も拾い集めてこなければいけなかったのです。

私の家族も収容所で、父と母と私が外に働きに出ていましたので、小学2年生の妹と5歳の弟が、まだ1歳の妹の子守りをしながら留守番をしていました。収容所の日本人も、だんだん疲れ、体力も衰えてきました。体力をつけるために、もらったものや拾ったものを工夫して食べました。我が家の1歳の妹は、コーリャンで作った糊のような離乳食をよく食べたので助かりました。これは、コーリャンを一晩水に浸した後、すり鉢ですり潰し火を通して作ったものです。寒くなり、風邪が流行する頃には、老人や赤ちゃんが肺炎になり、医師に診察してもらうことも、薬を服用することもなく、次々に亡くなっていきました。その遺体は、ゴザやムシロに積み、一日に1回、午前中に所定の場所へ並べてありました。それを当番の人が荷車に積み、縄でしばって墓地に埋めに行っていました。私は墓地へ行ったことはありませんでしたが、話を聞くと、広く深く掘った穴に遺体を並べて置き、土を少しかけ、次の日にまたその上に遺体を置いていくとのことでした。

日本へ帰ろう。生きて帰れば祖国日本が助けてくれると信じ、それだけを頼りにして死ぬ思いをして、38度線を突破しました。翌年(昭和21年)5月、博多に上陸しました。

帰国して初めて、原爆、沖縄、大都市の空襲などを知りました。父が、妹を私を長崎へ連れて行ってくれたのは、昭和22年だったと思います。浦上の原爆中心地も見ましたが、私の脳裏に焼きついたのは、大学病院の「く」の字に折れ曲がり、傾いた2本の煙突でした。「あんたたちも苦労をしてかわいそうだったけど、ここで亡くなった人もかわいそうだね。生きながら焼けて苦しかったろう」といった父の言葉は、今でも覚えています。

〈みなさんへ伝えたいこと〉
「平和ほど大切なものはない。」これを大声で叫びます。

平成29年9月寄稿