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被爆者救護の体験

ページ番号:0002167 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

被爆者救護の体験

西田 アヤ子さん(高来町)

 この体験談は、平成29年8月に、高来町在住の西田アヤ子さんからお話を伺った内容を掲載しています。

〈はじめに〉
昭和20(1945)年当時、私は18歳でした。その年の春から、諫早市役所に臨時職員として勤めていました。

〈昭和20年8月9日〉
8月9日、水道料金の請求書を手書きで一枚一枚作成している時でした。急に騒がしくなり、女性職員が操作してサイレンを鳴らしていました。間もなく誰かが「長崎に新爆弾が落ちた」と言いました。職員はあわてて近くの防空ごうに役所の書類を運び出していました。当時は、空襲警報のサイレンが鳴るたびに、役所の書類を、近くの防空ごうまで運んでいました。
しばらくして上司から、当時東小路町にあった諫早高等女学校(現諫早高校)に救護に行くよう、指示がありました。女学校に着くと、戦争に行かなかったお年寄りたちが戸板にけが人を乗せて、講堂に運び込んでいました。このけがをした人たちは、列車で長崎から諫早駅に運ばれ、そこからさらに講堂へ運ばれてきたようでした。

講堂の中は、この世のものとは思えない光景が広がっていました。目玉が飛び出た人、男の人か女の人か、区別もつかないほど焼けただれた人。隙間もないほど、けが人で埋め尽くされていました。そこでは、私たち職員だけでなく、地域の人や婦人会の方など、たくさんの人が救護にあたっていました。ふいに、男の人がかすかな声で「あんたたちもこがんなっとよ」と言うのが聞こえてきました。諫早にも新爆弾が落とされるかもしれないと思うと、恐ろしくて震えあがりました。

けが人の救護といっても、薬も消毒液もありません。病院に運び込めないような人数です。講堂には人が重なり合うように、寝かされていました。「水、水」という声が聞こえても、「飲ませたら死ぬよ」と言われていました。けが人にしてあげられることは、ほとんどありませんでした。その日は遅くまで救護の手伝いをして、夜は原口町の友人の家に泊まらせてもらいましたが、とても眠れるものではありませんでした。

翌日、また女学校の講堂に行くと、すでに亡くなってしまった人が多いからか、けが人の数は減っていました。けがをした人の目や、鼻や、耳にはうじやハエがわいていました。見ることも耐えられないほどでしたが、箸を使って、うじを取ったりしました。本当は、一秒でも早く、逃げ出したかったです。あの風景は本当に思い出したくありません。それでも、救護した時のにおいや、音、声などは、今でも忘れられないのです。
しばらく救護にあたった後、栗面町の自宅に戻りました。私の父は毎日のように現在の県立総合運動公園のあたりに出かけていました。「死体を焼きに行かんば」と、原爆で亡くなった人の焼き場に行っていました。そのつらそうな姿が、思い出されます。無口な人でしたが、本当につらく、苦しかったと思います。

その後、昭和23(1948)年に結婚し、4人の子どもを授かりました。昭和29(1954)年には、次女の良子が、おっぱいも十分に飲めないまま、1歳で亡くなりました。昭和36(1961)年には、長女の靖子が小学3年生で亡くなりました。白血病でした。靖子はその年の7月に、具合が悪いといい、「風邪やろうか」と言っていましたが治らず、入院しました。あっという間に、体中に紫色の斑点ができて、一か月もせずに、亡くなってしまいました。原爆症だと思います。

〈戦争の記憶〉
被爆者救護の他にも、あの時代といえば、つらい思い出ばかりがあります。毎日毎日、夜も昼も空襲警報が鳴っていました。飛行機が迫ってくる音と、空襲警報の音は、耳から離れません。長崎の上空に焼夷弾が落ちるのを見たこともあります。毎日、防空頭巾をかぶって、仕事に通っていました。気の休まる時がありませんでした。

普段の生活も、今と全く違います。本当に何にもない時代で、食べ物や着るものにも困ったものでした。お米をほとんど食べられずに、おかずと言えば、漬物ぐらいです。昼にはふかした芋だけを弁当に持って行っていました。今では考えられないようなことばかりです。

〈私の願い〉
今望むことは、戦争が二度と起こらないでほしい。あんな思いは二度としたくないですし、他の人にもつらい体験をしてほしくない。心からそう思います。

(平成29年9月聞き取り)