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引揚げ当時の思い出

ページ番号:0002164 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

引揚げ当時の思い出

北島 米和さん(高来町)

この体験談は「再生への原点~引揚港・佐世保(浦頭)を偲ぶ全国の集い記念手記集~」(平成10年2月発行)へ北島米和さんが寄稿されたものに、平成29年2月にお話を伺った内容を加筆したものです。

私達家族7人は昭和21(1946)年に満州の新京(しんきょう)(現在の長春:ちょうしゅん)から引揚げて来ました。当時の家族の年齢は、父(40歳)、母(36歳)、姉(長女13歳)、私(長男11歳)、弟(三男7歳)、弟(四男4歳)、弟(五男1歳5ヶ月)でした。

父は満州鉄道(満鉄)に勤めていました。昭和20年7月、満鉄の突然の命令により、家族のみ北朝鮮の東林という村へ集団で疎開し、そこで8月15日の終戦を迎えました。北朝鮮から直接日本へ引揚げるかどうか、大人たちも話し合っていましたが、生きるか死ぬかならば、新京にいる家族のもとへ戻っていっしょに引揚げようということになったようです。終戦から1週間ほど後に、いったん父のいる新京へ戻りました。

新京では、満鉄の社宅に住んでいました。3部屋に私の家族7人と植木さん一家4人、そして私の従兄弟を含めた独身の方3人との合計14人の共同生活でした。引揚げが決まるまでの1年間は、子どもといえども食うための商いや労働をしました。

終戦の翌年、昭和21年8月1日、貨物列車で引揚げることになりました。南新京駅を出発し、引揚げ船に乗るコロ島駅までの行動日程は下記のとおりでした。かかった日数は昭和21年8月1日から9月23日までの53日間でした。

中国大陸での移動

  • 8月1日 南新京駅を貨物列車で出発
  • 8月2日 奉天駅で下車 14日間兵舎跡に収容された
  • 8月15日 奉天駅を出発 乗車した貨物列車は無蓋車(屋根のない車両)
  • 8月16日 錦県駅で下車 14日間収容所で過ごす
  • 8月29日 錦県駅を出発 貨物列車は無蓋で周囲のワクの高さは50cmほどしかなかった。
  • 9月5日 コロ島駅に到着後、港まで歩き引揚船「米山丸」に乗船

コロ島駅に列車が到着する前から雨が降り、身体も荷物のリュックサックもびしょ濡れでした。港まで500メートルくらい全員歩き、夕闇せまる風雨の中危険な状態でしたが、乗船するとの決定でした。米山丸(貨物船7000トン)の側面にある勾配の急なタラップを船員の方々の助けを受けながら、一段一段リュックを背負った身で必死の思いで乗船することができました。千人ほどが乗船しました。着替えるものもない濡れたままの状態でしたが、乗船した直後に船内の放送で「これからは皆さんの周りの人は、皆日本の人ばかりです。どうか安心してください。」とのねぎらいの言葉がありました。これには大人も子どもも感激の涙を流しました。

すぐに船は出航し、佐世保への入港まで7日間かかりましたが、最も心配された台風もなく、幸運にも航海中はほんとうに穏やかな天候でした。大海原でのイルカの大群の移動などを見て、海の大きさを子ども心に強く感じました。航海中には亡くなられた人の水葬という悲しい行事もありましたが、船員の方々のはからいで、船員さんと引揚者が一緒になっての演芸会なども催され、楽しいひと時もありました。出航して7日後、無事に佐世保に入港し、祖国日本のみどりを目にしたとき、やっと生きて帰れたという実感が湧き、涙がこみ上げました。

佐世保入港後

  • 9月12日 佐世保 浦頭(うらがしら)港着
  • 9月19日 入港後1週間停泊した船内で過ごす
  • 9月20日 下船し、収容所(佐世保引揚援護局)へ向かう
  • 9月23日 南風崎(はえのさき)駅より国鉄列車に乗り、故郷へ

入港後は、検疫のために停泊した船内で1週間を過ごしました。コロ島から乗船して野菜をまったく食べていなかったので、その1週間の間に食べた、さつまいもの蔓のみそ汁がおいしかったことを今でも忘れられません。船から降り、佐世保の収容所(佐世保引揚援護局)まで行く途中では、消毒のためにDDT(白い粉の消毒薬)を人にも荷物にも真っ白になるまでかけられました。それぞれの荷物は、船上から長い急勾配のすべり台にのせて先へ進ませ、人が手ぶらで少しでも楽に早く行動できるよう工夫されていました。

3日間の収容所での生活を終えて、いよいよ今まで行動を共にした皆さん方とお別れの日が来ました。9月23日、収容所から南風崎駅まで歩き、列車に乗ってそれぞれの故郷へと帰っていきました。南風崎駅には仮の売店があり、蒸したサツマイモを5個ぐらいずつ一皿に盛って並べてありました。子どもの私たちは食べたくてたまりませんでしたが、親にねだることはできませんでした。

国鉄列車の中では、私たちは一目で引揚者とわかる、着の身着のままの姿でした。忘れもしない9月23日の夕方、戦病死した従兄弟の遺骨を抱いて家族7人、祖母、親族の待つ実家の敷居をまたぐことができました。遺骨となって故郷へ帰った従兄弟は、私達一家と満州で同居しており、満州で終戦を迎えたのですが、昭和20年10月18日に満州にで戦病死し土葬されました。引揚げの際、ともに故郷へ連れて帰りたいとの思いで、火葬して遺骨を持ち帰りました。当時、火葬をするには相当にお金がかかったものですが、親戚が満州でロシア軍人にも重宝される理髪店を営んでいたので、火葬の費用を出してもらいました。

引揚げ時のリュックサックと水筒

引揚げ時のリュックサックと水筒の画像
今ふりかえってみますと、私は何もわからぬ子どもでしたが、あれだけの集団を組織的にまとめて行動された、当時の大人の方々、世話役の方々、米山丸の船員の方々のあたたかいお力添えと、佐世保地区、内地の方々の励ましとご援助のおかげで生きて帰ることができたと感謝の念でいっぱいです。貨物船「米山丸」ありがとう。引揚から何年か後、老朽のため米山丸が廃船解体されるとの記事を新聞で見たとき、家族一同当時を思い感無量でした。

昭和21年当時、私は11歳の子どもでしたので、リュックサックを背負い、親についていくだけしかできませんでしたが、両親にとっては一寸先は闇という厳しい状況の中で、肉体的・精神的な苦労は筆舌に尽くせぬものであったろうと思います。

私の父もすでに13年前に亡くなり、母ももうすぐ88歳で歩行が困難な身体となりました(平成10年当時)。時々引揚げ当時のことを語り合い、母はそのたびに、当時1歳半の私の弟を前に抱きリュックサックを背にし、よく生きて帰ってこれた、命に縁があったと幸運に感謝しています。裸一貫で帰りましたが、当時のもので残っているのはボロボロになったリュックサックが一つと、昭和18年に父が内地の祖父に送った写真が一枚です。その写真は、新京の櫻木小学校(在満国民学校)2年生のときのクラス全員が写っている貴重な一枚です。

櫻木小学校 吉水学級
(北島さんは2列目左から2人目)

満州での子どもの頃を思い出しますと、小学生といえどもよくたたかれたきびしい時代でしたが、その中でもやさしかった子ども好きの女性の先生がいらっしゃいました。私たちの学級担任であり、吉水先生というお名前でした。吉水学級と呼ばれていました。その頃の遊びといえば、学校の近くに射撃訓練場がありました。午後訓練がないとわかると、弾ひろいに行ったものです。数多く集めて友達と比べたり、大きなものを見つけるとうれしく、まるで海岸で貝ひろいを楽しむようなものでした。ある日、火薬の残ったままの機関砲の空弾をひろった友達が、それを教室に持ってきたところ、火薬が残っていたらしく、くすぶり始めて廊下へ逃げたこともありました。他には縄のぼりで競争をしたり、冬場はマイナス30度ほどになるので、凍らせたグラウンドでスケートをして遊んでいました。当時の友達の名前は、今でも覚えています。あの時代をともに過ごした友達が、みな無事に内地へ帰ったのだろうか、一度は逢ってみたいものです。吉水先生だけは、佐世保の収容所内で一瞬でしたが姿を見ました。無事に内地へ帰られています。姓は変わられたとしても、どこかの県で元気にしていらっしゃることと思います。今は75、6歳でしょうか(平成10年当時)、お逢いしたいと思います。

終戦から引揚げが決まるまでの空白の一年間、他国での敗戦国民のみじめさや悲惨な状況は書き尽くせませんが、今の平和が戦争犠牲者のおかげで成り立っていることを忘れてはなりません。私自身、今日、物心両面あまりにも恵まれすぎ、恐ろしい気がします。「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」の諺(ことわざ)どおりになっているのではないか、と申し分けなく感ずることがあります。

私たちの子ども、孫の時代には二度と戦争がないよう願いをこめて私の半世紀前を記録として残し、あの当時のことを風化させないように少しでも役に立てていただくことで、今は亡きおやじへの恩返しにしたいと思います。

(平成29年2月聞き取り)