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車掌としての被爆体験

ページ番号:0002163 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~車掌としての被爆体験~原田 シヅヨさん(小長井町)の被爆体験

この体験談は、平成28年11月に、小長井町在住の原田シヅヨさんからお話を伺った内容を掲載しております。

昭和19(1944)年、19歳の時、徴用(戦時などに国家が国民を強制的に動員し一定の仕事につかせること)になる前にと思い、国鉄小長井駅に駅員として勤めました。駅の仕事は、切符を売ったり、転轍機()(てんてつき:線路を切り替える装置)を操作して線路を切り替えたり、運転士さんから皮革に入った金属製の通行票(タブレット)の受け取りや受け渡しをしました。当時は、男性が出征してしまって人手がないので、駅員の多くが女性ばかりでした。駅員の給与は40円、車掌では70円でした。それで、家族のためにも車掌になろうと決心し、試験を受けて合格しました。合格した後は、大分で3か月間研修を受け、長崎車掌区で勤務することになりました。車掌として始発から汽車に乗るので、小長井から通うには朝が早く大変なため、長崎市の馬町(爆心地から約4キロほどの地点)で下宿することにしました。

〈1945年8月9日〉

8月9日は勤務前だったので、長崎市馬町の下宿にいました。原子爆弾が落とされたその時、私は、たまたま手を洗いに水道のある外へ出ていました。空を見ると、ボオッと丸いものが、空から落ちてきました。「あれはなんじゃろなぁ」と思いながら、急いで建物に駆け込んだのですが、その時バッと光が破裂しました。私は運がよかったので、あの光を浴びずにすみましたが、建物の中にいたもう一人は、亡くなってしまいました。当時は、それが原子爆弾だとは全く知りませんでした。とにかく私は仕事があったので、汽車に乗らなければと思い、駅の方へと向かいました。

外へ出たら、それはそれはもう…。みんな裸足になってしまって、火傷して、駅へどんどん歩いてくるのです。駅の方は火の海になっていて行くことはできません。とりあえずお諏訪さん(諏訪神社)の所にある防空壕へ行こうと思いました。私もその時は、真っ黒になって防空頭巾一枚をかぶり、警戒警報が鳴るたびに、ガバッと地面に伏せながら前へ進みました。逃げるのも一人きりです。やっと防空壕に避難することができたのですが、夜になって男の方が「鉄道職員は集まれ」と呼びに来られたので、車掌区の詰所へ向かいました。その詰所で、炊事場にあったご飯でおにぎりを握って、道の尾駅に向かいました。線路を伝って歩き、大橋の鉄橋を這って渡りました。鉄橋の枕木は、所どころくすぶ)っていました。鉄橋の下の浦上川には、たくさんの人の死体、馬の死体がころがっていて、線路を歩いていく途中に見た風景は…もう、生き地獄です。足にすがってくる人を振り払って、「助けて、助けて」という人を、どうにもできずに先へ進みました。本当に生き地獄でした。

道の尾駅にやっと着いたら、そこにはたくさん火傷をした人が、横になっていました。その人たちを運ぶように言われ、汽車に乗せたのですが、怪我()をして動けない人を、まるで動物でも乗せるように、抱えて乗せました。諫早には、海軍病院があったものですから、諫早駅に向かいました。汽車の中では、「水を、水を」と言われましたが、「水を飲ませたら死んでしまう」というので、飲ませることもできません。怪我()をした人を、床にただごろごろと寝かせることしかできませんでした。悲惨なものでした。そのまま、亡くなってしまう人も多かったです。諫早駅で怪我()をした人を降ろし、その人たちは病院へ運ばれていきましたが、帰りの汽車では、病院で亡くなり棺(に入れられた人を運びました。それから、また道の尾駅に戻り、怪我(をした人を早岐や佐賀の方にも運びました。1週間休みなく運んだのです。夜は、車両の床に横になって眠りました。小長井の実家には、帰ることもできませんでした。私が1週間も家に帰らないので、母は私が原爆で死んだとばかり思っていたようです。実家に戻った時には、驚いて「ああ、生きとったとね。」と涙を流して喜んでくれました。

しばらくは、救護列車で怪我()をした人を運んでいましたが、そのうちに戦争が終わり、男の人たちが復員(戦時体制から平時体制となり兵役を解かれて帰省すること)してきました。男の人の代わりに車掌をしていたので仕事を続けることもできましたが、やめて実家に戻りました。車掌として勤務したのは、1年間ほどです。

〈1944年11月、小長井で体験したこと〉
長崎の車掌区に勤務する前、小長井にいたときのことです。
B29爆撃機に日本の零戦((ぜろせん:零式艦上戦闘機のこと)が体当たりして、どちらも墜落しました。B29がくるくると空中を回りながら、海へ落ちていくのを見ました。尾翼は、海面から突き出していましたが、機体は海の中へ沈んでいました。乗っていた人でしょうか、2人の若いアメリカ人が海岸に引き上げられたので、その様子を見に行きました。

私は、命に縁があったのだと思います。原爆が落ちる前の4月、長崎駅のホームに爆弾が落ちて、同僚がたくさん亡くなったのですが、その時、私は車掌の仕事で鳥栖にいたので、無事でした。グラマン戦闘機が小長井駅を機銃掃射した時も、私の乗った汽車は近くの踏切で止まりましたが、駅に落ちていたトウモロコシを拾おうと集まっていた子どもたちは、銃弾に当たって亡くなりました。原爆が落とされた時も、建物にすぐに逃げ込んだので、大きな怪我()をせずにすみました。

正直に言うと原爆のことを、詳しく話したくありません。あまり思い出したくはないです。すべて焼野原で、悲惨な状況でした。ただもう、戦争をしてほしくない、あんなことは二度と起こってほしくない。そんな思いで話をしました。

(平成29年1月寄稿)