ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画財務部 > 企画政策課 > 学徒動員の想い出

本文

学徒動員の想い出

ページ番号:0002151 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~『学徒動員の想い出』ー長崎県立諫早高等学校創立百周年記念誌 御書院よりー~ 川良 政好さん(諫早市小野町)の戦争体験

昭和20年6月某日、中学3年(14、5歳)になったばかりの少年には判断や決断などできず、ただ命ぜられるままに大村第21海軍航空廠に飛行機製作のため学徒動員された。

学徒動員中、忘れえぬ悲しく悲惨な事実の1つ目は、長崎への原爆投下。8月9日11時2分である。所属する飛行機部作業班は、大村空港入り口の大橋右側海岸から約100メートル位に位置した飛行機の格納庫の中での作業だった。外に野積みされたジュラルミンや鉄の丸棒の資材を取りに行ったとき、突然「ピカッ」とものすごい閃光がした。しばらくして、間近で爆弾が破裂したような「ドーン」という凄く大きな轟音に遭い、一目散に格納庫に逃げ帰った。
入り口で何事が起きたかと振り返り、長与方面を見ると例の「キノコ雲」が立ち上がりつつあり、その「キノコ雲」の真上に「真っ白な雲の輪」が凄い速さで大きく広がって行くのだ。その輪の中をB29爆撃機が1機、左から右方向に飛び去るのが見られた。長崎原爆の日が来ると、あの時の写真があれば貴重な資料だと思っている。また、しばらくして長崎方向から来た「砂塵混じりの爆風」に遭ったのも記憶している。その時、残念にも長崎市内の「生き地獄」の様子は想像もできなかった。

事実の2つ目は、「欲しがりません勝つまでは」の合言葉だった。14、5歳の成長食べ盛りの時期、毎日が空腹で旺盛な食欲は、徴用ダゴ(イモ)1個1銭と1銭5厘の2種類を長時間並んで求めたものだった。主食は、いつも大豆の絞り糟(当時家畜の餌)と、少しの米麦まじりのものだった。汁ものは、岩塩で味付けをした海草汁で、味噌汁はほとんどなかった。午後5時に仕事が終わった人の夕食で出た汁ものは、岩塩の味付けだったが上澄みの汁は塩気なく、残業で遅く帰った人は、鍋底に岩塩の固まりがあり飲めなかった。
この食生活の連続で体力はなく、その上夜の寝床では「ノミ、シラミ、南京虫」の攻撃でさらに体力を奪われ「カマキリ」みたいにやせた。そこで先生が「実家に食べ物がある人は、休みを利用して帰ってよい。」と言われ、土曜日の勤務を終えた夕食後、午後8時頃から現在の大村聾(ろう)学校裏の植松宿舎から砕石国道を一路、諫早市小野まで歩いて帰った。鈴田峠では夜も明け、実家に着いたのは午前8時頃だったと記憶している。当時はただ、食いたい、満腹を得たい、「岩をも通す」食い意地の一念信念だった。

事実の3つ目は、動員直後に1週間基礎教育を受け、初めて航空廠内の作業場所に着いた途端、航空廠内の「サイレン」が鳴り渡り、艦載機グラマン戦闘機の機銃掃射を受けた。どこに防空壕の入り口が在るかもわからず、土手に伏せたら、グラマンの機銃掃射が10数発、土煙をあげながら私の脇1~2メートルぐらいの所をかすめ、命拾いの体験をしたことを鮮明に憶えている。
さらにその時、250キロ時限爆弾投下を目撃し、1発は作業所前にある海岸の海中に、あと1発は、私たちの作業所の野積み資材置場に投下され、12時10分ぐらい前に爆発した。私は、その現場へ爆発5分ぐらい前に資材を取りに行っており、その日は2回も命拾いの体験をしている。

合わせると学徒動員中3回、戦後1回(長崎水害)計4回の命拾いをして、現在元気に生かされていることに、常に神、仏に感謝し一生が悔いのない人生でありたいものと願っている。

(平成27年10月寄稿)

旧大村海軍航空廠飛行機部作業班格納庫前から目撃した「きのこ雲とB29爆撃機ボックス・カー」の画像
旧大村海軍航空廠飛行機部作業班格納庫前から目撃した
「きのこ雲とB29爆撃機ボックス・カー」