ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画財務部 > 企画政策課 > 閃光を浴びた日

本文

閃光を浴びた日

ページ番号:0002148 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~閃光を浴びた日~ 尾崎 正義さん(諫早市白岩町)の被爆体験

  1. 学徒動員
    昭和19年8月11日の夜、米軍のB29爆撃機29機による長崎初の空襲があり13名が亡くなった。
    我が家は、父は既に戦死しており子だくさんだったので空襲をさけて疎開することにしたが、私は中学に入学するので残り、竹之久保町の村里様方に下宿した。
    戦争はますます激しくなり、中学2年生以上は兵器工場に動員され、地下室や講堂は施盤(工作機械)が置かれ、三菱兵器の分工場と化していた。1年生も夏休み返上で軍の作業に協力して、長崎市田手原町の甑岩(こしきいわ)で本土決戦に備え、橘湾方面から上陸し進撃してくる敵戦車を捕捉するための戦車断崖(戦車を崖から落とし動けなくする人口の崖)の構築作業に動員されていた。
    昭和20年8月9日の早朝、いつものように約束の場所、渕神社の大鳥居のもとに同級生数名が集まった。竹之久保から思案橋経由で甑岩まで毎日約8キロ徒歩で通うのは大変だった。その上、食糧事情が窮迫し、牛馬の餌の脱脂大豆の配給をありがたがる時代、空腹と真夏の暑さときつい穴掘作業で、作業には行きたくなかった。そのとき誰かが「今日は休もうか」と言い出した。みんなすぐに賛同した。
    近くに三菱造船製材工場や御厨製材所の大きな貯木場があった。みんなはそこで泳いで遊ぶことにした。ところが、高原君が「僕は今日だけは休まれん。母ちゃんが田舎から米をもらって来て、米の飯の弁当を作ってくれた。母ちゃんに悪いので休むわけにはいかん。でも一人では行きたくないので誰かつきあってくれ。」と頼んだ。
    みんな行きたくないので黙っている。私は困っている彼に同情し、2人でしぶしぶ作業に出かけたのだった。残ったみんなは、笑って手を振っていた。(これが最後の別れになろうとは誰も知るよしもなかった)
  2. 閃光
    つるはしで土手を掘っていたら「空襲警報だ。雑木林に逃げろ!」と監督の兵隊が大声で叫び、誰かが「敵機らしいものが2機通過した」と言っていた。それでもしばらく何事もなかったので、作業を再開した。暑いので上半身裸になって岩石を掘り起こしていたら、一瞬、あたり一面が強烈に明るく淡いピンク色の光に包まれた。まるで虹が落ちてきたような、美しいと言っていい情景だった。裸の背中にかすかな熱さを感じ、しばらくすると生暖かい風が吹き抜けていった。
    「退避、退避!」と兵隊が大声で怒鳴っていた。雑木林の中で「今の光はなんだろうか。」「透明な白い光だった。」「いや黄色だった。」「目が潰れるかと思った。」と、みんな興奮状態であった。
    しばらくして、外は夕暮れ時のようにだんだん暗くなってきた。雑木林を出て空を見上げると、一面黒煙に覆われていた。その真中に、太陽が焦げたように赤黒くぼんやりかすんでいて不気味だった。長崎の街はどうなっているのか、林の木々に遮られて見えないので、一体何が起きたのか、みんな非常に不安がっていた。
    そうしているうちに、黒煙に覆われた空の中に小さな白く光るものが、きらきら舞いながら無数に落ちてきた。それは、四辺が焼け焦げた新聞紙だった。瞬時の熱射に焼け、爆風で舞い上がったものだろう。これは大変だ。長崎の街は丸焼けか全滅かとみんな戦々恐々だった。
  3. 金比羅越え
    午後1時頃になって全員集合させられ、「本日は作業中止、街の方は大変らしい。みんな注意して帰れ!」と言う兵隊の話に、仲間と隊を組んで帰りを急いだ。
    下山する途中、避難してくる人達に出会ったが、怪我した人が多く痛々しかった。あわてて飛び出したのか、素足でガラスをよけながら恐る恐る歩いている人、さらに進むと焦げた服の人、動けずに座り込んだままの人、皆、無言で放心状態であった。
    街はどうなったのか、はたして無事帰りつけるのか、だんだんと不安になってきた。甑岩から田手原、愛宕、思案橋と下りてきて、対岸の稲佐、竹之久保を目指して県庁方面に向かった。
    県庁一帯は、盛んに燃えていて危なく通れなかった。やむなく西坂の方から帰ろうと、今の桜町、玉園町、上町の方に行ってみたが、ここも木造の家が燃え尽きて崩れ落ち、道路をふさいでいて一歩も前に進めなかった。市街地はどこも火の海で危険だったので、もう金比羅越えしかないと思い諏訪神社の森をぬけ、山頂に向かって山路を急いだ。
    山沿いの坂道を進んで行くと、頂上付近は西坂あたりの家屋が炎上中で、煙が立ち昇り、一面灰褐色に覆われ何も見えなかった。その煙が目に染みのどが痛かった。道には墓地の石塔が爆風で倒れ、山路をふさぎ煙でよく見えないので、倒れた墓石につまずいたり、スネをぶつけたりしながら進んだ。山頂近くには、いたる所に被爆者が避難していて放心状態でたむろしていた。
  4. 避難者の群れ
    今の御船蔵町、浜平町の上あたりに来たとき、捕虜のオランダ兵の群れが避難しているのに出会った。当時、三菱長崎造船所幸町工場に福岡県捕虜収容所第14分所があり、オランダ、イギリス、オーストラリア兵480名ほどが収容され、労働に従事していた。
    捕虜の一団は、さかんに何か語り合っていた。囚人の一群も避難しており、怪我人が多く、目もうつろでただ黙って座っていた。彼等はきっと、この下の三菱兵器茂里町工場で作業中に被爆したのだろう。この様子では、浦上刑務所も壊滅したことだろう。彼等がその後どうなったのか、ずっと気になって仕方なかった。
    その時、他校の中学生が嘉村助教を呼びにきた。(上級生の中で数名が動員を免除され、助教という名で教練や動員時に先生の助手をしていた。)我々は何事かと思い後をつけて行った。奥まった平地には、火傷で動けない人達が口もきけない状態で横たわっていた。あっちにもこっちにも一様にぐったりと倒れ込んでいる人達がいた。
    その群の中に長田助教がいた。近くの工場で被爆したのだろう。顔は赤黒く焼けただれ、皮膚がめくれ、よく見ないと誰か分からなかったが、体が特別大きい先輩だったので彼だと分かった。小さな声で水を欲しがったが、誰の水筒も空っぽで何の手だても見つからず、みんな彼をとりまき見つめるだけだった。
    引率の先生が「ここで解散しよう。気をつけて帰れ。絶対家に帰り着けよ!」と言うので、我々はそれぞれに山路を進んで行った。
  5. 浦上が消えた
    街に下りる道はどこも火の海だったが、坂本町の近くまで来ると、すべてが燃え尽きたのか煙が薄くなってきた。前方の左下に、白黒のしま模様の2本の煙突が見えた。その1本は、くの字に折れ曲がっていた。「あそこは大学病院だ。」「じゃあ、ここらが浦上駅だ。」と言い合いながら山際から街の方へ下りた。
    途中、大場君が「僕の家がない。」と泣き出した。あたりは一面焼野原で、丘陵地帯の民家は焼失してしまい、黒焦げの段々畑になっていた。みごとに焼き尽くされ、街全体が消滅して何もない状況だった。級友達も自分の家が心配になり、急ぎ足で下りて行った。
    浦上駅もなくなっており、建物も人も突然消えてしまった異様な光景であった。一面が焼野原で燃え残った木の幹が所々に点在し、もろもろの残骸や瓦礫の層、くすぶり続けている建物の断片が見えた。広場らしい所には、荷車用の馬が数頭並んで黒焦げになって死んでいた。荷車は燃え、車の鉄輪だけが残っていた。
    何もない広場らしい所が浦上駅だとわかった。今の浜口町、目覚町、川口町、岩川町、銭座町、宝町は、ただ焼土が広がっているだけであった。避難してしまったのか人影すらない。
    だが、あちこちに黒い塊が点々としていた。何かと思って近づくと、ふいにゲートルを巻いた足元をつかまれた。皮膚が焼け、服が黒焦げになった人がまだ生きていて「稲佐の○○番地の誰々に連絡して下さい。」と手を離さず、自分がここに倒れていることを伝えてと必死なのだ。買い出しに行った帰りなのか、背負ったままの布袋の中にはプスプスと玄米がくすぶっていた。肩にかかった燃え残りの着物の断片を見ると、この先どうなるのか自分の事が心配だったが、仕方なく「わかった。わかった。」と言うと、安心したのか手を離し、ぐったりと崩れてしまった。
  6. 灼熱の竹之久保
    浦上駅裏の三菱製鋼所は、今を盛りに燃え、時おり音を立てて鉄骨が崩れ落ち、爆風で曲がりくねって折り重なっていた。戦死した父は、以前この製鋼所に勤めていた。父によく弁当を届けに行っていたが、その製鋼所が今燃えているのだ。父は出征していなくても、きっとここで被爆死したことだろうと思った。
    第1工場と第2工場の間の道路を危険を冒して抜けたとしても、その先の梁川橋が残っているかどうかわからなかった。しかし、下宿に帰るにはその道しかなく、思い切って炎の中を突進した。幸い鉄骨が倒れてくることもなく、くぐり抜けることができた。
    欄干の一部は飛んでいたが、橋は残っていた。しかし、その先(今の梁川町一帯)は倒れた家が道を塞いでおり、仕方なく屋根を乗り越えて進もうとすると、ズボッと腰まで落ちた。民家は爆風で倒壊し燃え尽き、屋根の姿を残したまま灰になっていたのだった。
    やっとの思いで渕国民学校にたどり着いたが、校舎の中はまだ燃えておりコンクリートの壁も熱く、手をつくと手のひらを火傷してしまった。
    それから渕町の山際を通り、下宿を目指した。途中、空き地にかぼちゃが植えてあり小さな実を見つけたが、そのまま通り過ぎた。ようやく帰り着いた下宿一体は、全部倒壊していた。下宿の人は避難しているのか誰もおらず、火が迫っているが消火する気力も術もなく、ただ茫然と見ているだけだった。
    日が暮れるとますます激しく燃え盛り、夜空が真っ赤に染まり、この世の終わりかと思える光景だった。下宿も燃えてしまったので、寝る所を探した。渕神社の山中に掘った町内の防空壕も、焼け出された避難者で満員だった。寝る所も食べ物もなく、着の身着のまま山中で過ごすことになったが、夏だから野宿ができたのだ。
  7. 友の死
    疎開先の南高湯江村(現島原市有明町)に帰るにも汽車は不通で、することもなく焼跡をさまよっていると、酒井君の家の人に出会い「うちの三夫は一緒だったんでしょう?どうして帰って来んの?どこにいるの?」と迫られた。作業をさぼり、貯木場に居るだろうとは言えず、「知らない。そのうち帰ってくるでしょう。」と答えるしかなかった。
    あの日、作業に行かなかった級友は、貯木場の材木の上で遊んだり裸で泳いだりしていて、熱線を浴び炭化した塊となってしまったことだろう。彼らを目にする勇気のなさと、自分が生き残った不思議さと申し訳けなさとで、貯木場にはどうしても近づけなかった。
    数日後、私は酒井君の家に下宿していた指方先輩を訪ねた。彼の話では、やっと捜しあてた三夫君を昨夜連れ帰り、空き地で倒れた木材を組み、荼毘にふしたとの事だった。三夫君の荼毘の黒い焼跡を見て、とてもショックだった。
    竹之久保の火葬場では、栄養失調で死んだオランダ兵の捕虜(製材所に作業に来ていた)を焼いていた。焼ける間、その場に来ていたオランダ兵達と過ごし、時々釜の覗き窓から見ていたので、三夫君の焼ける姿を想像してたまらなくなった。数日前まであんなに元気だったのに、どうして死ななければならなかったのか。
    指方先輩と妹さんが西彼杵郡雪ノ浦村まで歩いて帰るというので、三夫君の荼毘跡で水筒の水で水盃(水で盃を交わすこと)をして別れた。
  8. 食べ物を求めて
    あまりの空腹に、作業から帰る途中に見つけたかぼちゃの事を思い出し行ってみると、まだ花がついている小さな実まで既に誰かが取ってしまっていた。かぼちゃの花が食用になるとは後日知った。
    時々、炊き出しのにぎり飯が配られているらしいが、私は食べ物探しに出歩いていて貰えずじまいだった。空腹に我慢できずにいると、友人の誰かが「駅前の馬車の馬肉を取りに行こう」と言った。私は、熱傷でケロイド状の馬の焦げた尻肉を包丁で切りさく場面を思い浮かべ、とても食べる気はしなかったので一緒に行かなかった。行った友人は、あの放射能をたっぷり浴びた肉を食べたのだろうか。だとしたら、きっと体に異常が出たのではないかと思う。友人のその後の消息は、分からずじまいだ。
    またある時は、倒れた家の台所付近を掘り起こし、食べ物を探しまわった。米びつが潰れ、壁の赤土が混入していたので手ですくい集め、浦上川の水で炊いてみた。赤飯みたいなきれいな色だったが、食べてみるとガリガリしていて食べられたものではなかった。
    真夏というのに、みかんを食べている人がいるという話を聞いて、早速、旭町の缶詰工場に行ってみたが、工場はまだ燃えている最中だった。ロープが張ってあり「危険だから入るな」と警官が制止していた。それでも大人が数人中に入り、積み上げられた箱を引き出し、きれいな箱を取り焦げた箱は捨てていた。それを拾って帰り開けてみると、イワシが焼け黒く炭化していた。それでも空腹に耐えられず墨みたいな缶詰を食べた。飢えと疲労の放浪者生活だった。それでも、母や妹弟が疎開先で元気でいると思うと、別に不安はなかった。
  9. 帰郷
    食べ物を求め廃墟をさまよい、山中で寝て1週間近くたった頃、役所の人が町内に来て、罹災証明書を書いてくれた。これがあれば鉄道は無料という。やっと長崎駅から汽車が通うようになったと聞き、駅に行くと被爆した人がたくさん集まっていた。その人達は皮膚がただれ、水ぶくれができ、化膿して苦しんでいた。汽車は昼は敵機に狙われ危ないので、夜に出るということだった。暗くなってから爆音が聞こえたので、皆一斉に駅前広場の防空壕になだれ込んだ。
    大分待ってやっと汽車に乗ったが、満員の上被爆で苦しんでいる人達が立っておれず、うずくまったり通路に横たわったりしていた。その中にいたケロイドで口がただれている人が、あまりに水を欲しがるので、用意していた水を一升瓶ごとやってしまった。あたりはガス会社のコークス(燃料)が燃え盛っていて、一面真っ赤だった。汽車が進むにつれ、荼毘の火がいくつも見え異様な感じがした。
    汽車は諫早駅に着いたが、夜中のことで乗り換えの島原鉄道の汽車がなく、諫早駅の地下道の壁にもたれて寝るほかなかった。手には、燃える前の下宿から捜し出した竹刀と、別れ際に指方先輩がくれた形見の靴下を大事に抱えて一夜を過ごした。
    翌朝、島原鉄道の貨車が来た。私は、それに乗って母と弟妹が待つ疎開先へ心急いだ。吾妻あたりまで来たら敵機が来たので、先頭の機関車は避難させるとのことで貨車だけ残して行ってしまった。我々は駅前の桑畑に待避した。汽車はいつ動くかわからないので、近くの農家に行き、大きな黄色い種きゅうりを分けてもらいかじって過ごした。
    夕刻、やっと疎開先の湯江駅(今の有明町)に着いたが、後で必要になるとも知らず罹災証明書を乗車券の代わりとして駅員に渡してしまった。
    母の実家に行ったが留守だったが、隣家のおばあさんがいて、死んだと思っていた私がやつれた姿で急に現れたので、亡霊ではないかと驚いていた。そのおばあさんが、麦飯の大きなおにぎりを作ってくれたのでかぶりついたが、なぜか急に腹が痛くなり食べられなかった。
    母達は、少し離れたところにある農家の納屋の一室に古い畳を敷いて住んでいた。仏壇には、私の入学写真が飾ってあった。母は、私や親戚を捜すために、原爆投下の2日後長崎に入市した。竹之久保町一帯を探しまわったが見つからず、私がいつまでも帰らないので、もう死んだものと思っていたらしい。
    田舎に帰って来た私は、一軒家の納屋で何もすることもなく過ごしていた。玉音放送も終戦も知らないままであった。
  10. 原爆症
    しばらくしてから、私は頭髪がよく抜けるようになり、歯茎からも時々出血し下痢をしたり目がかすみ充血したが、体質や栄養失調だろうと思い、気にもとめてなかった。工場動員で被爆した親戚が、毎日口に指を突込んで吐き、苦しみながら死んでいったのを見ていたので、それほどでもない自分は大丈夫だろうと病院にも行かなかった。
    そして、もう長崎では暮らせまいと思い、島原の中学に転校することにした。でも、その中学校では疎開者や引揚者の学生が多く、体育館を仕切り教室に改造するまで待たされ、11月頃やっと入学できた。しかし、それまでほとんど授業を受けてないので、地元の学生との学力差に苦しめられた。
    その年の暮れに指方先輩に年賀状を出したら、「貴殿の賀状は故人の霊前に供えました。」と彼の父から葉書が届いたので驚いてしまった。彼は工場に動員され、耳たぶをほんの少し火傷していただけなのに、あんなに元気で雪ノ浦まで歩いて帰って行ったというのに、なんということか。私は一番の親友を亡くしてしまい、悔しく残念でならなかった。
    ずっと後になって、私はあの日を思い浦上の丘に立ってみた。そこの墓地にあるどの石塔にも、原爆投下後の8月、9月に死亡した方々の名前が刻んであった。中には8名も亡くなっている碑もあり、これは一家全滅ではないかと思った。
    長崎の叔父も銭座変電所で会議中、椅子に掛けたまま焼死していたと聞いた。私の級友達も貯木場で閃光一瞬にして死んでしまったのだ。あまりにも短い人生だった。大学時代の同級生の山口竹子さんも原爆投下後に入市したとかで白血病になり、32歳の若さで亡くなった。まだまだ生きたく無念だっただろうと思う。
    あの時私を捜し回った母も、残留放射能の影響か原爆投下後21年目、癌で長いこと苦しんで死んでいった。
  11. あの日から70年
    あれから70年経った今、平和公園では鳩が遊び、観光客で賑わっている。そこでは、あの日あの時たくさんの人がもがき苦しみながら死んでいった。こんなにも多くの人を殺しあう戦争は、もう二度とイヤだ。一般の善良な市民をも一瞬にして大量に焼き殺すあの忌まわしい原爆は、どうかこの長崎が最後であって欲しい。
    しかし、あれから70年が過ぎても依然として戦争も核もなくならない。この愚かさを怒らずにはいられない。
    私は今、画家である。かつての原子野の赤い炎、焼け焦げた黒褐色、燃え尽きた灰褐色、黒煙などがいつもよみがえり、私の描く絵はどうしても赤黒い色調の重苦しいものになってしまう。本当は明るく楽しい夢のある絵を描きたいと思っているのに。

(平成27年2月寄稿)