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ビルマでの戦争体験

ページ番号:0002147 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~ビルマでの戦争体験~ 橋本 三四郎さん(諫早市高来町)の戦争体験

この体験談は、平成27年1月に高来町在住の橋本三四郎さんからお話を伺った内容を掲載しております。

昭和17年12月、19歳のとき兵隊検査で徴用(戦時などに国家が国民を強制的に動員し一定の仕事につかせること)され、第18師団(菊兵団)歩兵第55連隊第2中隊として大村市に配属された。それから3か月後の昭和18年3月、20歳の時、戦闘地であるビルマ(現:ミャンマー)に送られた。
まず、日本から船で3か月をかけてシンガポールに向かい、列車でタイのバンコクを経由し、その後歩いて戦地であるビルマのフーコンに向かった。途中5人の仲間が虎に襲われ亡くなった。私達は、虎に襲われないために火を灯したりしながら、何とか目的地まで辿り着いた。
フーコンに着くと、戦闘は激しさを増しており、すぐに前線へ送られた。私は、背中と腰に各々30箱の銃弾を負い、戦いの現場に向かった。
部隊の先頭にいた私は、機関銃を振りかざし、5メートルもの至近距離で敵(中国兵)とにらみ合いとなり激しい銃撃戦となった。その瞬間、背後に「コトーン」という衝撃を感じた。同時に私の左腕が垂れ落ちた。敵の弾が右肩の付け根から入り、左脇の下を貫通していたのだ。歩くことができなくなり、そのまま仲間に引きずられ谷底に運ばれた。
その後、象に乗せられ野戦病院に連れて行かれた。弾を受けた時は感じなかったが、暫くしてから激しい痛みに襲われた。病院とは名ばかりでベットなどは無く、土の上に寝かされた。治療と言ってもたまにガーゼの付け替えがある程度であった。キリキリと痛む傷口からは、ウジ虫が湧き、ガーゼを何枚も差し込まなければならなかった。その時の後遺症なのか、日本に帰還してからも傷口から白い異物が湧き出て、強い異臭を放ち続けた。野戦病院で3か月ほど療養し、再び戦地に送られた。

次に送られた戦場は、飛行場があるビルマのメイクテーラ(現:メイッティーラ)だった。戦闘に向かったものの、依然左腕は垂れ下がったままであった。
英国軍が迫撃砲を打ってきたため、自分たちは塹壕(ざんごう:銃撃から身を守るために使う溝)から顔を出し、敵の攻撃に備えた。しかし、胸や尻に弾を浴びてしまった。胸の弾は自力で取り出したが、現在も尻の弾は体内に残ったままである。弾が唇を貫通した時もあったが、歯で止まったため、引き抜いて敵に向かって投げるなどした。
終戦の日をメイクテーラで迎えたが、その日に亡くなった戦友もいた。その後、何百人もの仲間とともに捕虜となり、鉄橋を修復する作業をさせられた。その時は、食事として米とベーコンの缶詰が配給された。

いよいよ帰還することとなり、ラングーン(現:ヤンゴン)から船に乗って広島県の宇品に着いた。ビルマに向かった当時、同じ部隊にいた300人もの仲間が、日本へ帰り着いた頃には5人になっていた。しかも、その部隊にいた5人の湯江出身者のうち、生き残ったのは自分1人だけであった。
その後、広島から汽車に乗って、やっと湯江駅に着いた。駅から歩いて家に向かう途中、3歳年下の妹が迎えに来てくれとてもうれしかった。出征前にすでに母親は亡くなっていたが、父親は健在であった。しかし、私には3人の兄がいたが、海軍の長男、陸軍の二男、海軍の三男は、いずれも戦争で亡くなった。その後、自分は結婚し、子、孫に恵まれ、今年93歳を迎える。

(平成27年2月掲載)