ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画財務部 > 企画政策課 > 原子野を懸けて66年の想い

本文

原子野を懸けて66年の想い

ページ番号:0002146 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~『原子野を駈けて66年の想い』-平成23年12月3日宮城県仙台市宮城野高等学校土曜ゼミナールでの講話より-~ 今白卓司さん(高来町)の被爆体験

【原爆投下(昭和20年8月9日)】
昭和20年、長崎中学校2年生だった私は、学徒動員のため報国隊として学校工場で働いていた。
当日(8月9日)の朝、学校工場へ出勤するため自宅の諫早市高来町湯江(疎開先)から長崎市(鳴滝町)の現場へ向かい、着いたのは午前9時頃だった。そこで現場主任から、私は非番になっていることを知らされた。汽車の時刻の事もあり、帰宅の時間を調整する為、級友の宮内君宅(銅座町の宮内歯科)に行き、12時30分の汽車で帰宅するつもりで休憩室でくつろいでいた。10時過ぎ頃、警戒警報が出ていたがそれも解除され、昼弁当でも早めに食べて帰宅しようかと思っていたその時のことである。
突然、「閃光が走る!!」一瞬、青白い閃光に驚くと同時に「バサッー」と、まわりの窓硝子や壁が爆風によって打ち当ってきた。眼の前にある応接机の下へかくれる暇さえなかった。ランニングシャツ1枚でいた私は、ガラスの破片で背中に少し傷を負ったが大事には至らなかった。
外を見ると、付近の店はほとんどが大破し、街中は負傷した人々で右往左往する姿があった。これは爆撃による衝撃だと察した。路上を通行している人達は、防空壕へと走り込む大勢の姿があった。当時は、戦時態勢の中、市内の車道や軌道の両側に幾つも防空壕が掘られていたのである。

1時間ばかりして、友人の兄が外出先から帰宅してきた。大波止附近で被爆しており、半袖シャツの先の両腕と首のまわりが、閃光の熱で火傷し水泡が出来ていた。外に居た人達のほとんどが、閃光と爆風で大変な火傷を負ったのである。長崎駅より浦上方面にかけては、上空一面黒煙に包まれ、兵器工場や浦上の町全体が全滅の状態だと聞かされた。
帰宅が不可能となった今、徒歩での帰宅を考えた。再度空襲をさける為には、安全な田舎への避難が良いと思い、友人兄弟を連れて湯江の自宅まで帰ることにした。徒歩にして歩くも40kmの行程である。
夕方5時頃、私と友人兄弟の3人で諫早へ向かって日見街道へと出発した。途中、長崎市内では数人の同級生と会い、お互いの無事を確かめ合った。被災した人達が続々と長崎市内を離れる姿があった。長崎から日見街道は、避難する人の波、荷物を積んだリヤカー、大八車、馬車など遠々と深夜まで続く有様であった。道の両側には、歩き疲れた子供連れの人達が路上に横たわり休む姿や一時仮眠を取る人の姿もあった。
何時間くらい歩いた頃だろうか。夜10時も過ぎた頃だったろうか、歩き疲れと睡魔におそわれ、喜々津駅で休憩を取る事とした。駅舎は案の定、すでに満員で床に新聞紙を敷いて泊まる避難民で一杯だった。私達も駅舎の片隅で一夜を明かした。翌日、一番列車が喜々津駅に到着したのは、午前9時過ぎ頃だった。駅に泊まっていた人達は、ホームで列車を待ったが、到着した列車の車内を見て驚いた。負傷者で満席となっており、お互いをなぐさめ合う姿の中に私達は入って行けず、昇降口に立ったまま諫早へ向かった。
諫早駅に着くとホームには、婦人会の人達が救護や炊き出しの活動を手際よくおこなっていた。すでに長崎の被災の様子が伝えられていたのであろう。救護作業のかたわら、下車して来る人々に長崎市内の状況を尋ね合っていた。列車が止まるたびに、家族の安否を確かめ合う大勢の人達が駅につめかけていた。
当時は、県内各地域から、多くの人達が造船所や兵器工場などへ微用工(40才以上の男子)として配置されていたのである。湯江駅に到着しても同様に、身内の姿を見つけて安堵する人、友人に安否を確め合う人々の姿、それはまた必死の様相にもうかがえた。自宅に帰り着き、母や祖父母は安堵してくれたものの、三菱造船所の技師をしていた叔父の安否が分からない事を気遣っていた。祖父母が、あまりにも我が子の安否を気遣うので、母と妹(当時2歳半)と私で再度長崎入りし、叔父や知人の安否を確かめる事になった。汽車は長崎駅までは入れず、道ノ尾駅で折り返し運行されていた。

【道ノ尾駅より浦上原子野へ入る】
8月12日、列車はなかなか定刻通りには運行出来ていなかったが、午前8時頃の汽車で再度長崎へ向った。道ノ尾駅に着いたのは午前10時過ぎだったろうか。途中の駅で乗り込んでくるのは皆、家族、親族、友人、知人の安否を尋ねる人達ばかりだった。駅に降り立つとその光景は見るも余りある悲創そのものだった。この3日間、爆裂、爆風、火災にさらされて、やっと逃れてたどり着いた負傷者達が、ホームや植え込みの蔭に数百の人達が横たわり、水を求めて嘆願する姿だった。このような場面を地獄絵と言うのだろうか。
「おじちゃん、おばちゃん、水、水を・・・」
「兄ちゃん、水ば・・・、水ばのませて・・・」
悲痛な、かすかな叫び声が今でも耳の底に残っている。しかし、水を与えれば死を招くことが知れていて、無情だが黙って通り過ぎるほかなかった。後程、これらの行為を悔やんだ人達がどれ程多くいたことか。自己の無情さを悔いたことだろう。
道路は障害物が多く、線路伝いに浦上駅の方へ向かうことにした。被災地一帯は、一見、東北津波水害地の如く、一面の焼野原の広がりに見えたが、唯一違っているのは、そこには多くの焼死体の山と死臭のただよう光景があったことである。
線路伝いに、まず医大病院を目指した。それは母の姪が看護婦として勤務していたのでその安否を確かめる為だ。炎を逃れる為だったのか、線路の土手の両側や浦上川の川沿いには、水を求めて命果てた遺体が数限りなく続き、医大の玄関口に通じる道路には、治療や助けを求めて数百人の負傷者が列をなしていた。病院自体、爆弾と火災で大破していたのだが、災害を逃れた医師や看護婦達によって必死の応急の手当てに走り回る姿が見られた。
尋ね回るうちに、たまたま母の姪と同じ部署で働く医師と会い、様子を知ることができた。その医師は丁度防空壕のそばを通りかかった時、あの閃光を見て急きょ防空壕へ飛び込み一命をとりとめたとの事であった。医師の案内で、職場の焼跡へ行って唖然とした。焼け落ちた廃屋の中に焼け焦げた医療機器や黒こげの遺体、その中の一つが「野副クミさんです」と教えてくれた。直前まで同じ場所で仕事をしていたので、誰かの判断が出来たとのことだった。母は、涙にくれながらも姪の骨の一片をハンカチに包み大事にしまい持ち帰ることにした。
医大病院を出て浦上方面へ向かう途中、一本足鳥居の山王神社前を通った。ガレキの山の中、何を求めてか探し続ける人々、なかには廃材で小屋を組み立てる人も居た。住居を確保する為であろう。多くの遺体には、変な特徴が見られた。それは眼球が飛び出している人が多い事である。その原因が爆風爆裂による圧力の影響なのか定かではない。そして昼食前のためか、お膳を囲んだままの家族の遺体、リヤカーを引いて仕事をしていたのか、平常の生活を思わせる遺体の姿には、爆発の瞬間の威力のすさまじさをうかがわせた。浦上地区一帯は、兵器、電気、製鋼等の軍儒産業的な工場が立ち並び機密地帯となっていたが、鉄骨はへし折れ、外壁は吹き飛んでいて、殆んど全滅状態の様相を示していた。
当初アメリカは、原子爆弾を長崎港の上空で爆発させ最大の威力を示そうとしたそうだ。もしそうであったとすれば、東洋一を誇る三菱、香焼造船所をはじめ、県庁、市役所、最大の繁華街浜の町、銅座町、新地、市内に住む40万人の市民の大半は災害を受け、被害の程度は恐らく2倍以上となっていたであろう。
背中に妹を交互に背負いながら、叔父の下宿を尋ねた。頭部に硝子傷を受けてはいたが無事を確認した。その後、母の知人宅を2、3軒見舞ってから帰路についた。また、長崎から諫早間40kmの道のりである。ここまで一日中歩き続け、何を補食しながら来たのか記憶が定かではない。
夕方、蛍茶屋を出発した時は、また今夜も一晩中歩き続けなければならないかと思うと気が大変に重かった。しかし、交通手段がとざされた今は、それだけが移動出来る手段だったのである。夜道を歩く旅は淋しくはなかった。連日連夜、長崎街道は人、人、人で連なっていたのである。歩き疲れては、道端で休んだり、また仮眠を取ったりしながら諫早へ向けて歩いた。喜々津の駅を通ったのは、夜明け前だったと思う。列車の時刻表がないため、諫早市内に向けて歩き続けた。
市内へ入ったのは、夜もかなり明けてからだった。母が習っていた筑前琵琶の師匠である梶田のおばあちゃん(天満町)の家で束の間の休息を取り、体を休め、食事を戴いた様に思う。疲れも最高峰に達し、歩くことが困難になり東諫早駅で列車が来るのを待った。お昼も近くなり、やっと列車に乗り自宅(湯江)までたどり着く事が出来た。漸らくは、浦上での多くの遺体の死臭が体から離れず、食事が思うように進まなかった記憶が今でもはっきり残っている。

【終わりに】-平成27年1月追記-
今年は戦後70年、被爆70年の年でもあります。私達(昭和6年生れ)は出生した時から、国政は、軍事優先国家で満州事変(昭和7年)支那事変(昭和12年)太平洋戦争(昭和16年)と幼・少・青年期を戦事態勢の中で滅死奉国、奉公を教育されて成長してきました。男児は、幼少から大きくなったら軍人志望が大勢でした。
80年前のこんな歌を想い出します。「僕は軍人大好きだ。今に大きくなったなら、勲章胸に剣さげて、お馬に乗ってハイ、ドウードウー」
戦後70年、戦争放棄を宣言し、平和主義を貫き通してきた日本の姿勢は世界に誇り得る事としてよいでしょう。しかし、もし戦争が起こり、その戦争に参加した時、国民が受ける恐怖、困窮、悲愴感などは想像を絶するものがあるのです。テレビ等で報道される実態を遙かに越える現実を見逃してはいけません。学習体験でなく、実体験でなくては得られない重み(重圧)を感じ得なければなりません。
今こそ、未来永劫の平和をどうすれば子々孫々まで保てるかを全国民で確かめ会う事が大事な時ではないでしょうか。

(平成27年1月寄稿)