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早弁で助かった命

ページ番号:0002145 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~早弁で助かった命~ 田代 一弘さん(諫早市多良見町)の被爆体験

昭和20年4月、旧制中学3年(14歳)になった私たちは、学徒報国隊として三菱長崎造船所に動員された。しかし、次第に激しくなる空襲に備えて企業は工場をあちこちに分散して操業するため、私たちの学校校舎二棟を工場に改造し、そこで特攻艇のエンジン部品の加工をしていた。当時、工場のシフトは3交代24時間稼働していた。私は喜々津から汽車で通学していたため、交代勤務が出来ず工作機械を扱う事はなく、検査発送係に配置されていた。しかし、検査とは名ばかりで、主に本工場と学校工場間の材料や加工品の運搬にあたっていた。
8月9日は、私たち汽車通学者の当番になっていたが、朝からの空襲警報で外へ出ることができず控室で待機していた。10時頃になって警報が警戒警報に変わったこともあり、すぐに出発するよう指示を受けたが、朝から出鼻をくじかれたこともあり、なんだか班員全部ぐずぐずしていた。いざ出発となったが、弁当を持っていくのもいやだから、臨時飯をしてから行こうと話はまとまり、監督の先生も黙認の早弁をすませて出発した。
後に思い返すと、早弁で10分以上も遅れて出発したおかげで全員命拾いをしたのだった。班員5名と浦上方向の自宅に帰宅するという1年下級生の2人を加えて7名の仲間は大八車を曳いて、いつものコース、新大工町から馬町を抜けて中町通りに差し掛かった。その時、近くの家のラジオの声が聞こえたので立ち止まり、耳を澄ますと「島原上空を敵機が通過」と放送していた。「ちょっと待て、敵機が来ているらしい」といってみんなで空を見上げた時、小さな白いものが見えた。1人が「あの白い落下傘みたいのはなんや」と言い、他の1人が「あれは日本の阻塞気球(そさいききゅう:気球と地面をワイヤーで結び航空機の進路妨害をする気球)やろ」と言った途端に「ピカッ」と閃光が走った。私は「退避」と叫んで、すぐそばの側溝に飛び込んで伏せた。溝に飛び込むと同時に、「ドーン」ではなく空気を引き裂くような異様な音がし、「ゴウー」っという台風のような風とともに回りが薄暗くなった。しばらくといってもほんの1分も経っていないと思うが、顔を上げてみると、周りはゴミやガラスや瓦の破片などが散乱していた。これはすぐ近くに爆弾が落ちたなと一瞬考え、「おーい、みんな大丈夫か」と呼ぶと、3人の仲間がすぐそばの路地から出てきたので一安心した。大八車はどこかと探すと、30mくらい先の電柱にぶつかっており梶棒の中のM君は、呆然と立っていた。他の2人はそばの店に飛び込んだようで、その1人が手首の上をガラスで切ったらしく血が滲んでいた。他はみんな無事だった。前進するか引き返すかみんなで話し合ったが、被害の様子がわからないためT君の提案で、すぐ近くの提防空本部へ行ってみると、屋上の監視櫓にいた監視員が、目をやられ全く見えなくなったと聞いた。どうやら3日前広島に落とされた新型爆弾のようだと言うので、学校へ帰ろうということになった。下級生の2人は自宅へ帰るというのでここで別れ、私たちは大八車を曳いて鳴滝の学校工場へ戻った。途中の道路は、瓦や柱が道をふさいでいるところもあったが、なんとか学校に帰り着きもう2時近くになっていた。担任の先生や工場の上司等が大変心配してくれたようで私たちの無事を喜んでくれた。
それから暫くして、校舎の高いところに登って町の方を見ると煙が見えた。市役所が燃えているとの情報が入ってきた。担任の先生から「君たちは家も遠いことだし、汽車も動いているかわからないから帰宅しなさい」と言われ、喜々津以遠の4人は矢上経由で歩こうと言ったが、長与のU君が一緒に行こうと言うのと道ノ尾まで列車が運転しているとの情報もあったので、片淵から西山を越えて本原へ向かった。
途中ひらひらと紙のような灰がたくさん空から降っていた。西山の峠を越えて浦上の一帯を見渡した時は驚いた。はるか向こうに見える城山や油木の方は、焦げた色に変わりすぐ下の神学校(現在はフランシスコ病院)は、真っ黒い煙と炎をあげていた。下の方からこちらへ登ってくるほとんどの人は、着物が破れ、手や顔に火傷を負っていた。神学校のそばは、煙のため通れそうにないので畑道を迂回することにした。二郷橋までいくつもの畑を越えて行ったが、この急斜面の畑にはたくさんの人が火災から逃れてきていた。畑と畑の間に細い溝のような道路があり、そこは少し日陰になっているので、火傷をした人たちが折り重なるようにして休んでいた。この辺はカトリックの信者が多く、そのようになりながらも溝の中でお祈りをしている人を見かけた。私たちは二郷橋を渡って住吉に出るつもりだったが、橋を渡ったすぐ前の人家が火災のため道路を通れず、やむを得ず浦上水源地を越えて行こうと右折をした。道ノ尾と長与の分かれ道に来た時、長与のU君が「道ノ尾に行くも長与に行くも、あんまり変わらんばい」と言うので「それでは長与に行くか」と長与駅まで歩き、ようやくたどり着いてホッとした。駅で状況を聞くと「列車は動いてはいるけど、何時に来るかわからない」とのことで、がっくりして座り込んでいたら、まもなく列車が来た。でも、列車は昇降口まで負傷者があふれるように乗っており、負傷者以外は乗れないと言われたが、どうしても家に帰りたい私は、機関車の信号台にしがみついて乗せてもらった。どうにか喜々津駅に帰り着いた頃には、すっかり日が暮れて暗くなっていた。
翌10日は、登校するかしないか迷ったが、父が勤務先の海星中学校へ出勤したいので一緒に行こうと言うので家を出た。喜々津駅ではかなり待たされたが列車に乗り、道ノ尾で下車し長崎駅を目指して歩き出した。当時、大橋の手前までは家が少なかったので、道路の障害物もたいしてなかったが、大橋の近くになると、両側の家はすべて炎上し、まだ柱などが燻り続け、足下には黒焦げの遺体があちこちに散乱していた。浦上川の河原には、半裸状態の遺体がたくさん折り重なるように並んでおり、路面をたどっていくのが大変で、太陽の照りつけと地面からの火災跡の熱気で息苦しいほどだった。しかも、ものすごい異臭が立ち込め何度も引き返したいと思った。ちょうど現在の平和公園の近くでふと立ち止まり、左右の景色を見たら、金毘羅さんも右の稲佐山も頂上近くまで黒焦げで煙が上がっていた。やっとの思いで井樋の口まで来たら、陸軍の一隊が道路を片付けていた。ホッとして人心地になったものである。学校にたどり着いた時はもう12時近くになっていた。
その日登校した市内の学友たちは、在校生の安否確認のため被災地域を歩き回っていたようだが、遅れて登校した私は何もすることがなく、帰宅してよろしいとのことで、帰ることになった。しかし、あの浦上をもう一度歩く気になれず、矢上経由で歩いて帰った。日見峠を越えると、市内から郊外を目指す人たちがたくさん歩いていた。私は、5時間近くかけてようやく喜々津の家まで帰った。家に着く前に、喜々津小学校の近くに2年下のK君の家があったので立ち寄ってみると、彼の姉さん(私と同じ年だったと記憶している)は、大橋の兵器工場に動員されていたのに、かすり傷程度で無事に帰ってきたと聞いて、互いに喜んだものだった。しかし、2ヶ月あまりしてから亡くなったと聞き、やはり原爆のせいかと改めて怖くなったしだいである。
このように、その時は大した怪我もなかった人が、後になって亡くなったり、後遺症が出たりという話を見聞きしたが、自身もかなり健康には気をつけて生活してきたせいか、なんとか80過ぎまで生かしていただいた。
あの時、早弁をせずに出発していたら、丁度稲佐橋あたりに差し掛かっており爆風をまともに受けていたと思われ、今の私はなかったと思う。
「早弁のおかげで助かった命に感謝」

(平成26年11月寄稿)