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青天の霹靂

ページ番号:0002144 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

『青天の霹靂』―諫早史談第41号(平成21年3月発行)より― 古賀 力(本野町)

私の生涯に於いて体験した事象の中でこのことだけはいつかは書き残し、後世の人に伝えなければと8月9日を迎える度に思いながら、60年余りの年月が経ってしまいました。しかし、現在の日本の内外情勢を見ると先人が残した「歴史は繰り返される」という言葉が私の頭の中で激しく点滅し始め筆をとることにしました。

昭和20年8月9日、その日の朝は家族が長崎から移り住んでいた大村の家から、学徒動員先の工場に出勤するため汽車で長崎に向かいました。汽車が浦上を通過するとき、本来ならばそこから出勤したはずの祖母と住んでいた城山住宅を数時間後の地獄を知る由も無く、乗降デッキの風に当たりながら眺めていました。丘の上に建つまだ新しい護国神社と白黒の迷彩色を施された城山国民学校の姿が、その日に限って妙に印象的でした。

県立長崎中学3年生であった私が学徒動員により勤務した工場は、鳴滝町の県立長崎中学校の特別教室を改装して造られた三菱造船から分散疎開した工場であり、製品の検査係に配属されていました。その日は午前10時頃に飽ノ浦の三菱造船本工場に製品を運搬するようにと指示があり、鉄車輪の大八車に製品を積み出発しました。工場を出た私達検査係6名は、誰が言い出すともなく持っている弁当を早う腹に入れて走ろうと、当時生徒の中で流行りの早弁を食べることで話が決まりました。工場を出発したとはいえ、まだ学校内に居た私達は門衛の人に断りを言って校門の所で車座を作って早弁を食べたのです。そこで費やした時間が運命を分けるとは知る由も無く、大八車の鉄車輪の音を響かせて新大工町の坂を駆け下り、飽ノ浦の本工場に向かいました。諏訪神社前から馬町を通り勝山国民学校から右折し、次いで八百屋町から中町方向に左折し、ちょうど家屋強制疎開で辺り一面が空地になった中町天主堂の近くにさしかかった所で、私達は小休止をとりました。疎開家屋の跡にまだ水が出る水道蛇口があり、その水で喉の渇きを潤おしたり、上半身裸になり水で濡らした手拭で汗を拭く者もいました。その時です。北側上空に爆音が聞こえ、振り仰いだ山の上に3個の白いものが高低差のある状態で浮かんでいるのを見たのです。頭の中を「あれは?」という疑問符が過(よぎ)ると同時に青白い閃光(せんこう)が走り、熱いと感じるとともに一時は全く視界を失ってしまい、その後僅かの間を置いて一瞬身体が浮き上がるような感触とともに猛烈な風圧が押し寄せ、辺り一面が土埃で薄暗くなりました。その時に私がとった行動は未だによくわかりません。今までに経験したことがない閃光(せんこう)と風圧に戦慄(せんりつ)(恐ろしさで震えること)と恐怖感に襲われた身体は、ただ反射的に溝など低いところに伏せていたのだと思います。学友達と、長崎駅に向かうため途中から同行していた2年生達が無事であることが確認できると、先ずは安全な場所に避難しようと大八車を曳いて、落ちた瓦礫や半壊の家で埋まった道を夢中で走り、現長崎歴史文化博物館敷地に残る横穴防空壕に避難したのです。しかし、時間が経過するとともに次々と負傷者が担ぎこまれ、壕内は一杯になり、元気な者は壕から出るように言われ、状況が判らない不安な気持ちのまま壕を出て鳴滝の工場まで走り帰りました。校門を入ると学年主任の森永種夫教官が立っておられ「無事だったか、よかった、よかった」とほっとした表情で迎えられた。

浦上方面の詳細は判らないが甚大な被害が出ている模様で、今後のことは追って連絡するので本日は帰宅してよいとの指示があり、帰宅することになりました。そこで私達は、喜々津より以遠に帰宅する者達と矢上経由の徒歩で帰るか協議した結果、西山から山越えし、道ノ尾方面を目指すことになったのです。まず、西山水源地の手前から金毘羅さんに登りはじめたのですが、稜線(尾根)近くになると浦上方面から脱出してくる負傷者が目に入り始め、山頂近くでは当時設けられていた高射砲陣地の側に負傷した兵士の姿がみられました。そこからは稜線伝いに穴弘法さん付近を通り坂本町の上にでたのですが、その間眼下に見た浦上方面一帯の状況は忘れることはできません。朝汽車から見た城山地区は、それと分る城山国民学校を除いて建っている建物はなくなり、一面が家の土台で区画された更地のような光景でした。また途中は衣服も無く、火傷を始めさまざまな傷を負い一様に黒ずんだ身体で横たわる沢山の人々を見るようになりました。空は薄暗く夕立の降り始めのように雨が落ちてきたのもその時だったと記憶していますが、雨とともに落ちてくるごみに宣伝ビラらしきものも混じっており、それを拾ってみると『日本国民に告ぐ即刻都市から退避せよこの爆撃は一発の爆弾でB29、2千機による爆撃効果に相当する云々・・・・・』の文が記されており、その日の朝刊の一面に書かれていた『広島に新型爆弾・・・落下傘で投下・・・甚大な被害』と書かれた見出しの文字と炸裂直前に見た白い3個の落下傘が頭を過ぎりました。これは大変なことが起こったのだと恐怖と絶望、その他諸々の感情が押し寄せ、一同黙りこくって尾根伝いの道を急ぎ、倒壊して燃えかけた農家から助けを求める声に耳を塞ぎ、神学校が火を噴いて燃えるのを見ながら現在もある三菱造船船舶試験場のところに辿り着きました。

完全に倒壊した三菱兵器製作所の方を見ますと後を振り向き振り向きしながらこちらに小走りにくる女生徒がいて、そばまで来ると道路にへたへたと座り込んでしまいました。長与まで帰ると言うのでその女生徒を交代で背負い、付近の山の立ち木が盛んに燃える住吉のトンネル工場付近を見ながら、浦上水源地を経て線路沿いの道路を長与駅にようやく辿り着くことができ、女生徒とは氏名と校名を聞かないまま別れました。駅周辺は大混乱で救援列車には重傷者以外は乗せないと外に出されてしまい、プラットホームで待つことにしたのですが動き出した列車の機関車は逆向きで、炭水車が先頭になっていたのでとっさの判断で炭水車の上端に飛びつき石炭の上に乗ることができたのです。薄暗くなってきた沿線にはたくさんの人が不安そうに列車を見る姿があり、トンネル、跨(こ)線(せん)橋(鉄道路線をまたぐ橋)では皆が声を掛け合って注意し、暗くなった頃に諫早駅に到着しました。そこで大村へ帰る私は学友と別れ、同じ大村まで帰る三菱の工員さん2名に同行し、徒歩で大村市本町の家に午前0時を過ぎた頃ようやく帰りついたのです。玄関で待っていた母が飛び出してきて、身体じゅうをなでまわしながら「怪我はしとらんね、わぁーこの臭いは何ね」と言いながら服を脱がせてくれました。巻き脚(きゃ)絆(はん)を解くと細かいガラスの破片や塵がズボンの裾から出てきたのに母は驚きの声を挙げ、夢中でまったく気がつかなかった私自身も、あらためて身体の隅々まで怪我が無いか確かめました。その後、夜が明けるまでの浅い眠りをとった私は、城山の祖母と叔父一家の安否を確かめるため長崎へ向かった父と伯父の後を追って、8月10日の午後から大叔父と共に再び長崎へ向かいました。

親が陸軍の将校寮を経営していた関係で、長崎市桜町まで軍用自動車に便乗できた私達は、西坂町から松山町を経て城山に入りましたが、途中の惨状は今ここで筆に表わせるものではありません。特に下の川電停横の歩道上に乳飲み子を胸の下に、幼い子供を脇に抱え蹲(うずくま)るようにして黒焦げになった母子の姿は、脳裏から消えることはありません。城山では先ず護国神社東側の崖下に造られていた隣組横穴防空壕に行きました。そこで祖母や叔父と同じ隣組の服部アサノさんをはじめ、即死を免れた僅かの人達と会うことができました。被爆直後に叔父一家は生存していて、近所に出かけていた叔父と家に居た叔母と子供2人は別行動になり、叔母は大村に行くと言って城山を離れ、叔父は上半身ひどい火傷を負いながらその後を追ったことが分かりました。服部さんからは、娘の県立長崎高等女学校3年で三菱兵器工場に動員されていた澄子さんが帰らないので安否を確かめてと頼まれ、そこを後にし、安否の分からない祖母と叔父一家の捜索のため城山一帯の死体を一体ずつ確かめながら歩き廻り、城山国民学校下の横穴防空壕では、壕の奥に死者がまるで壁のように折り重なって亡くなっていたため確認が出来ない状況でした。浦上川の川原では沢山の死者と重傷者で溢れ、捜索して歩く私たちの足にしがみ付こうとする人もありました。続いて長崎駅前と大橋電停の間を往復するなど捜索を続け、夜明け近くに赤迫六地蔵前を経て道ノ尾駅に向い、大勢の負傷者や死者を確認しながら駅に着きましたが、駅前の広場は負傷者と死者で一杯でした。叔父一家の被爆直後の情況を知ることが出来ましたが、その後の足取りは攫(つか)めることが出来ませんでした。二昼夜に及ぶ戦場にも勝る体験で、私の心身の疲れは極限に近く、戦場経験がある大叔父もさすがに疲れてしまい、そこで仮眠を取り一度帰宅してから再度捜索に来ることとして、救援の貨物列車で8月11日の午後大村に帰りました。

一昼夜の捜索で見つからなかった叔母と子供二人は、8月12日に外傷がほとんど無い状態で大村駅に着き、私宅に収容することが出来ましたが、2歳の従弟、次いで4歳の従妹と幼い者から放射線特有の症状で亡くなり、叔母は最後まで「祖母ちゃんを助け出せずにごめんなさい」と繰り返しながら亡くなりました。また私には「他人は薄情やよ、赤迫の六地蔵の前で座り、この小さい2人だけでも大村へ連れて行ってくださいと頭を下げて頼んでも1人の人も立ち止りもせんじゃったとよ」と話す叔母でした。私自身も炎の中に助けを呼ぶ声を聞きながらどうにも出来なかったり、縋(すが)りつく手を避けたりしたことが、未だに心の隅に疼(うず)くものとして残っています。

叔母の話から、台所で昼食の仕度中だった祖母は焼け跡から掘り出しましたが、完全に白骨化していなかったため荼毘(だび)に付し連れ帰りました。その後、8月15日の終戦をはさんで長崎市の新興善国民学校その外諫早市内から川棚町まで、あらゆる負傷者の収容場所と死亡者で氏名が確認された者の名簿掲示箇所を叔父の所在を求めて親族挙(こぞ)って探しましたが、とうとう行方不明のままです。

城山の隣組横穴防空壕で娘さんが帰宅しないので、安否の確認を頼まれた服部アサノさんは諫早に収容され、一時仲沖町の民家に預けられた後に川棚の方に転送になったと記憶しています。後日、娘の澄子さんは9日に三菱兵器製作所大橋工場で爆圧死と死亡確認者名簿に記載されているのを知ったのですが、私の体調不良と終戦による陸軍将校寮の閉鎖で急遽立ち退かねばならない家の事情が重なったため、服部さんに知らせることが出来ないままになってしまいました。このことも心の隅に消えることなく慙愧(ざんき)の思いが残されたままでいます。

9月に入って諫早市上大渡野町の仮住まいに移り、私の町籍も昭和20年9月6日諫早市長より罹災(りさい)証明の発行を受けて手続きを終わり、そこから県立長崎中学まで通学することになりました。城山の焼け跡には度々立ち寄り、叔父愛用のパイプを探し当てて遺骨替わりに持ち帰ったり、従業員だった人の遺骨を収容したりしました。その後、進駐してきた米軍が現在の野球場、陸上競技場一帯に飛行場を建設するときにまだ荼毘(だび)をしたままの白骨の山をブルドーザーで押し潰し転圧するのを見て怒りで身体に震えが走り、目の前が真っ暗になったこともありました。

毎年8月9日は、一家揃って平和公園の無縁仏のお堂に参拝し、時には護国神社東側の崖に痕跡を残す隣組横穴防空壕跡に行き、当時のことを子や孫に伝えることにしています。これが亡き人達への最大の供養と思うからです。

(平成26年10月寄稿)

昭和20年9月6日に諫早市長から発行された罹災証明の画像
昭和20年9月6日に諫早市長から発行された罹災証明