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原爆が落ちた日

ページ番号:0002143 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~原爆が落ちた日~ 吉川湞子さん(諫早市小長井町)の被爆体験

昭和20年8月9日「長崎に原爆が落ちた日」の私(当時20歳)の体験についてお話します。
自宅は長崎市でしたが、昭和20年4月に小長井の叔父さんの家に疎開していました。毎日朝5時50分、小長井から汽車に乗って長崎まで通勤し、弟も学徒報国隊として工場行きでした。私は、三菱重工長崎造船所に勤務しており、会社に着くとすぐ「空襲警報」毎日がそうでした。その日も解除になるまで横穴(防空壕)に入っていましたが、やっと横穴(防空壕)から出られ、仕事のため第2事務所(造機設計部)にいました。

11時2分、光線が「ピカッ」と光り、すぐ「ドカン」とすさまじい音がしました。ロビーにいた10人ぐらいの人が、訓練どおりみんなその場で目と耳をふさぎ、長くなってうつ伏せになりました。みんなが重なり合っており、私は下の方だったので起き上がるのが大変でしたが、頬(ほお)にとげが刺さったような気がしました。この時は空襲警報が解除され、警戒警報中だったので、外の現場で仕事中の人は、突風の影響で火傷されたと思います。
事務所に帰ってみると机の上には何もなくなっており、書類や母が作ってくれた弁当も飛ばされて何も見つかりませんでした。その2・3日前、上司が広島に新爆弾が落ちたそうだと話されていたのを思い出しました。隣の席で一緒に仕事をしていた同僚の活水女学校5年生(現在の高校2年生)の吉田さん(学徒動員で働いていた)が、すぐに「私の家においで」と言ってくれ、2人で厚い防空頭巾をかぶり、水筒、大豆のいり豆の袋を肩に掛け、専用の船に乗って大波止まで行きましたが、その間、また爆撃がありはしないかと心配でした。
船を下りた後、県庁の坂は上れなかったので、江戸町を回り小島へと急いで行きました。吉田さんの家に着いてみると、崇福寺(中国寺)の上の方(高台)だったので、少しホッとしましたが昼も食べられませんでした。その頃は配給だったので、余分の食糧はなかったと思います。段々と日が暮れていき、家の窓から外を見ると長崎の空が火の海になったように赤く染まっていて、私の家が焼け落ちるのも見え涙が出ました。

翌朝早く、泊めてもらった吉田さんにお礼を言って、水だけもらって家を出ました。私は、防空頭巾をかぶり、母が作ってくれたマスクを着けて、小長井へ帰る元気を出し、長崎駅へと急ぎましたが駅は無くなっていました。両親がどんなに心配しているだろうと思うと、心ばかりが急いでいました。その付近の情景は見られるものではありませんでしたが、線路を歩くしか道はないと思い、勇気を出して枕木の上に足を乗せてしっかりと歩きました。
線路の両側には真っ黒に焼け焦げた人体があり、中には弟がすがるように兄の足をつかまえたまま横たわった姿もありました。馬もそのまま倒れていたのを覚えています。浦上を通り大橋の鉄橋がありましたが、そこを歩くのが怖かった記憶があります。その川の辺りで「テルコ」、「ケイコ」と娘を探す人の叫ぶ声がし、その声が、みんな私の名前「テイコ」と聞こえ、急いで帰らなくてはと思いました。
歩いていると、私の前にはお尻が半分焼けただれた男の人が歩いており、見るに見かねていましたが、どうすることもできずに黙って後ろからついて行きました。その時の光景が今も脳裏に焼き付いています。
ようやく道ノ尾駅に着くと、列車が停まっており中を見ると、怪我人がいっぱいで網棚まで乗っていました。「水を、水を」と言う人たち、可哀想とは思いましたが、水を飲むと命が亡くなるのではないかと思ったりしました。
そんな中、小長井に疎開している遠い親戚の江口さんとばったり会い、涙が出るほど嬉しかったです。江口さんから、道ノ尾駅では乗れないから長与駅まで歩きましょうと言われ、また元気を出して歩き長与駅でやっと乗ることが出来、本当にホッとしました。途端にお腹がスカスカになりましたが、もうすぐ小長井だと思いまた元気を出しました。
やっと小長井駅に着き、駅のホームには母が待っていてくれました。寝たきりの父の看病の傍ら、汽車の着くたびに駅に来ていたのだろうと思うと嬉しくて涙が出て、心の中でありがとうとつぶやきました。偶然にも、同じ汽車に乗り合わせていた弟も降りてきて、二人の子どもが無事に帰ってきたことが、どんなに嬉しかったことだろうと今にして思います。

三菱重工長崎造船所に勤務する前の事ですが、女学校を卒業した後、昭和17年5月から2年間、内地採用になり友達の金子貞子さんと二人、上海の華鉄に就職しました。その後、何があったか分かりませんが、金子さんは私の知らない間に日本へ帰国し、兵器工場に勤めていたそうです。金子さんは、工員さんの弁当を取りに長崎の大橋まで行った帰りの電車の中で被爆したようで、お母さんが洋服の柄で金子さんを探し出し、その場ですぐ火葬されたそうです。
終戦になり、仏前にお参りに行ったときに話されておりました。あの時、空襲警報が出ていたらこれほど沢山の死傷者は出なかったのではないかと、今でも悔やまれてなりません。戦争は人殺しです。二度とこんなことがあってはならないと思います。

現在は、両親も兄弟も亡くなり、私は89歳になろうとしています。被爆者の私がこんなに長生きさせてもらい申し訳ない気がします。せめてものお勤めとして、先に逝った方々を偲び、毎日朝夕は感謝の意を込めて仏前で手を合わせています。毎日が、感謝、感謝の生活です。

(平成26年8月寄稿)