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小長井港沖米軍機B29引き揚げ

ページ番号:0002142 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

小長井港沖米軍機B29引き揚げ(昭和19年11月21日) 森春義さん(小長井町)の戦争体験

平成4年2月2日(生涯学習資料)
平成21年4月10日再編

あの辛かった、あの悲惨な、さきの大戦の思い出や、傷跡も戦後48年の歳月が風雪とともにうすれ、忘れられてしまいそうな平和で幸せな日々を、私達は過ごしております。
昭和19(1944)年11月21日、中国大陸より来襲した米軍機ボーイングB29が、大村の海軍航空隊より迎撃のため発進した戦闘機ゼロ戦に、多良岳上空の空中戦で撃墜されました。戦時中とはいえ、のどかな小長井上空をかすめながら波静かな小長井港沖の海中に墜落し、機体に損傷が少なく、ほとんど完全な状態で着水沈没していたので、これを引き揚げる事になり、当時、私達がこの引き上げ作業に関係し、強烈な衝撃をうけ感動しながら作業をしました。
あのような、大きな出来事も歳月と共に人々の記憶も薄れかけていると思い、あのような惨事は、後世の人達にも、小長井町の歴史のひとこまとして語り伝え、私達も当時を思い起こし戦争の悲惨さ、平和の尊さ有難さを思い直してみるために、この問題をとりあげ、お話をしてみたいと思います。

1 大村第21海軍航空廠

私は、昭和18年4月5日に、大村第21海軍航空廠機材部(その後補給部となる)に仲間55名と14歳で入廠し、半年間、心身ともに過酷な軍事訓練と飛行機全般についての特訓を受けました。昭和18年11月に陸上機と水上機の組立整備工場にそれぞれ配属され、私は陸上機の松添班で作業をし、九七式艦上攻撃機、零式戦闘機や雷電、紫電など小型機の整備作業などで経験を積みました。翌年の昭和19年、15歳で輸送機班に配属され、双発のエンジンを搭載した大型機(一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機、それに戦前海軍が購入していた米国製のダグラス輸送機の3機)の整備を班長以下6名で担当しておりました。
当時大村には、東洋一と言われた私達の第21海軍航空廠、これに隣接して大村海軍航空隊、近くに陸軍の大村第46連隊と多くの軍事施設があるため、毎日のように1回から2回の空襲警報がかかり、中国大陸からの米軍機ボーイングB29による攻撃を受けていました。

2 第1回目の大村大空襲

昭和19年10月25日、大村での第1回目の大空襲があり、最新鋭機の流星(B7)と言う複座機(800キロの爆弾または魚雷1個を胴体の弾倉内に搭載し、急降下爆撃、雷撃ともに可能)を作る工場を急襲され300余名もの死者を出しました。この工場は壊滅状態となり、その後、この流星(B7)はやっと一機だけが完成したが、多くの海軍高級将校をはじめ私達が注目している中、十分の性能と妙技を披露しながらの試験飛行中、急降下し高度不足のため機体の引き起こしが出来ず、真っ逆様に墜落した。大きな衝撃音と共に機体は爆発炎上し、私達の目の前で流星(B7)の機体とともに炎上焼死する2名(名テストパイロットの清水少尉、他1名のパイロット)を、どうする事も出来ず一塊の機体中にくすぶる遺体に手を合わせ涙したものです。

3 小長井に墜落したB29の引き揚げ

(1)B29墜落

昭和19年11月21日の午前10時頃、この日も空襲警報が発令され、近くの防空壕に避難し空襲警報の解除を待って所定の部署につき、輸送機の整備をしていました。午後3時頃、戦闘機班の先輩がきて「森、小長井に米軍のB29が落ちたらしい」と言うので半信半疑で家に帰り、(当時朝は5時、帰りは9時すぎの列車で通勤)母が「きゅうは小長井に、11時頃アメリカん、ふとうか飛行機のおっちゃけて、そりゃ、ううごつじゃつた、ここんにきん、うえんば、ふとうかとんゆらーゆらーしながら、おじって、いったときゃあえすかったー(今日は小長井に、11時頃アメリカの大きな飛行機が落ちて、それは大事だった。この辺りの上を大きなのが揺ら揺らしながら落ちて行った時は怖かった。)」と話した時に事実を知り、その晩はなかなか寝つくことが出来ませんでした。

(2)B29墜落現場へ

翌日は、通勤列車の中や職場でもその話ばかりでした。その日の午後、戦闘機班にいた小長井町牧の原田茂喜、小川原浦の田川幸郎、井崎の山開秋義君達は、墜落したB29の引き上げ作業のため小長井の墜落現場に行った事を聞き、私も上司に小長井のB29引き上げ作業に参加させてくれるように申し出たところ、今日はだめだから明日から参加させるとの命令がありました。11月23日、その当時まだ、非常にめずらしいクレーン付きのトラックにゴム製のボートやその他、多くの引き揚げ用の資材を積み込んで小長井へ向けて10時頃出発しました。2時間ぐらいトラックの荷物の上で揺られ、やっと、昼頃現在の小長井町役場付近まで来てみると、海岸より500メートルぐらいの沖あいにB29の大きな垂直尾翼だけが見えました。その、とてつもない大きな垂直尾翼に驚きながら農協の農業倉庫前に到着してみると、船津地区は道路も空き地も人の波で、現在の役場付近から井崎の野中製材所の線路の上まで黒山のような見物人でした。憎い米英鬼畜の飛行機やアメリカ兵をひと目見ようと、東は鹿島、西は諫早あたりから連日の人だかりでした。
その日、私は到着後直ちに海岸近くの小屋のそばで待機を命じられました。しばらくして5、6人の警防団員(現在消防団)が波打ちぎわより、B29の搭乗員の遺体を運んで来るのが見え、それと同時に憲兵2人と海軍将校5人(2人は軍医)それに眼鏡をかけた若いひ弱な陸軍二等兵1人も一緒に来ました。私が小屋の陰に粗むしろを3枚広げると、その上に警防団の人が遺体を寝せました。私は、あれほど米英鬼畜と憎んでいましたが、初めて見るアメリカ兵の遺体に、なぜか憎しみを感じなかったのが不思議でした。

(3)B29搭乗員の検死

私の目の前で、軍医による検死が始められました。遺体の足には、チョコレート色をした編上げの立派な長靴を履いており、それを脱がせるのを見て驚いたのは、編上げ長靴の中に、また、チョコレート色の短靴を履いていたのです。服装の上は、皮ジャンパーの下にスマートな軍服、カッターシャツにネクタイを締め、その下には純毛のシャツと綿の肌着をつけておりました。服装の下は、軍服のズボンにズボン下をつけ、靴下は二枚(純毛の浅黄色)もはき、贅沢な出で立ちでした。
軍医が検死をしていく中で、わが陸軍も使っていた真鍮製の認識票が見つかり、その場には不似合いの陸軍二等兵の出番が来たのです。それは認識票に英語で刻銘された、氏名、階級、所属部隊等の解読をするためでした。この時、なぜ大学出身のひ弱な陸軍二等兵が必要であったのかと、私の頭の隅に残っていた大きな疑問が解けたのです。
遺体が上がったのはその日に2人、翌日は4人、その次の日が2人だったと思います。私がその場で見た立会い検死をされた搭乗員は、その飛行機が隊長機であったのか、白髪まじりの40歳ぐらいで階級は大尉、また最年少は19歳だったと記憶しています。いずれも頭や腕、左右の大腿部を骨折負傷しており、中には即死したのではないかと思われる搭乗員もいました。
検死が終わると、警防団員がその遺体を受け取り、小川原浦の墓地で火葬して白木の箱に分骨し、一時農業倉庫に保管していましたが、後で大村の憲兵隊へ持って行ったようでした。(また小川原浦の墓地に仮埋葬されていた残りの遺骨は、戦後、米軍が受け取りに来て丁重な埋葬に感謝をして本国に持ち帰ったと聞いています。)

(4)B29引き揚げ現場

小長井に到着して4日目、遺体もあまり上がらないだろうと言う事で、私もゴムボートで沖の引き揚げ現場に行って見ると、海上には今まで見たこともない大きな海上クレーン船(200トンぐらい)と、まわりには軍の命令で徴発された太良町竹崎からの潜り船が10艘ぐらい、それに小さな漁船(運搬用)や石積み船(運搬用)が入り混じって、けんけんごうごうの引き揚げ作業中の潜り船1隻に、生まれて初めて乗り込んでみました。中には潜水夫が1人、ポンプを突く人が2人、舵取りが1人いました。手が足りないので私に「この棕櫚縄を握れ。海底で作業している潜水夫が合図したら、棕櫚縄をたぐり引き揚げろ」と言われました。それから、機関砲の弾や飛行機のいろいろの部品等を引き揚げる中で、海底の潜水夫からの引き揚げの合図があったので、棕櫚縄を手繰りあげました。もうよかろうと海面に眼をうつすと、水面に右手首が見えた後、目の前に米軍の首から上が現れ驚きました。その後、遺体引き揚げの取り扱いを警防団の人たちに頼みながら、私はよくよく死人に縁があるものだと思ったものです。
また、この遺体が上がる少し前に、近くの潜り船の上が急に騒がしくなりました。空気ポンプを急いで突出し、潜水具の頭部を外すのももどかしい様子で潜水夫が慌てて船に上がってきました。潜水夫が騒いでいるのを見ると、顔は蒼白な様子で海底を指差して「土左衛門、土左衛門」と言っておりました。海底の遺体につまずいて転び、驚いて引き揚げてもらったようでした。せっかく探し当てた遺体だからもう一度潜って引き揚げる様にと仲間の人たちが説得しても、死人がよほど怖い人だったのか、その潜り船は作業を放棄してその日は帰ってしまいました。(墜落した当日に米兵を1人収容し、私が関わった遺体が9人、後日、近くの長里海岸に漂着した1人の遺体もあり、B29の搭乗員は11人だったことが判明した。)
その翌日も沖合に出て引き揚げ作業をする中で、海底に落ちている250キロの爆弾を引き揚げる事になりました。潜水夫がワイヤーを掛けた爆弾をクレーン船で吊り上げ、誰の石積み船だったか顔も名前も思い出しませんが、私がその石積み船の船底で引き揚げられた爆弾のワイヤーを解き、爆弾が船内で移動しないように固定し、4個目をクレーン船が4、5メートルの高さに吊り上げたと思った時、爆弾に掛けていたワイヤーが、ずるっ、ずるっと解け始めた。これを見ていたまわりの潜り船は、エンジン音をいっぱいにあげてクモの子を散らす様に逃げ出しました。爆弾回収の潜り船(クレーン船と私が乗っていた石積み船)は動く事が出来ず、落ちかかった爆弾が大きな水しぶきを上げ、海底に落ちてしまうまでの数秒間の恐怖は、今も忘れる事が出来ません。搭載していた8個の爆弾は、すべてその日に海底より私が乗っていた石積み船に回収しました。満潮時に現場から船津の港に入り、船津橋のそばに、大村から乗ってきたクレーン車をすえつけ、井崎側の線路下の空き地に揚げましたが、私は爆弾に対する知識はまったくなく、その取り扱いには身体がすくむ思いでした。その作業が済むまでは、生きた心地がしませんでした。
B29のプロペラ、エンジン、機体の大きさにも驚きましたが、あの中国大陸の2,000キロ奥地、成都より飛んで来た飛行機のエンジンには一滴の油漏れもなく、それを見た私は、敵国アメリカのすばらしい技術に驚き、これから先のアメリカとの戦いに大きな不安を感じたものです。海底に落下飛散した、飛行機の部品とともにゴムボート、救命胴衣、野営用のテント、釣り竿、食品(パン、サンドイッチ、米の飯、チーズ、バター、肉、魚、コーヒー、紅茶)たばこ、チューインガム、せっけん等、遭難しても救助されるまでは十分生活が出来るように缶詰め、パック詰めのものがたくさん引き揚げられ、当時の私達の生活との大きな隔たりを感じ、いつも空腹をこらえていた私達は缶詰パック詰の食料品を見て垂涎したものです。
他に機関砲の弾などもたくさん揚がり、その中には電波探知機、無線機、爆弾投下計算機、護身用の拳銃、時計、写真機、地図、医薬品、多数の書籍などの多くの搭載品がありました。また、搭乗員が身につけていた細く白い腹巻には、アメリカの紙幣、硬貨類もたくさん入ったままで、珍しいものがたくさん揚がりましたが、憲兵の目が厳しく何一つ手にする事は出来ませんでした。

(5)B29の輸送

B29は、主翼が43.1メートル、機体が30.1メートルもあり、大きな海上クレーンで吊り上げて胴体は3個にガスで切断しました。車輪は、着陸態勢で出していたのでこれも左右ともガスで切断し、いずれも陸送するつもりでした。はじめは、主翼の下に空のドラム缶を何十個も敷き込んで浮上させ、井崎郵便局の裏の海岸まで運びましたが、40メートル以上もある長大な物体を乗せる車両がなく、道路がせまく陸送は出来ないということで、また沖合いに戻して海上クレーンで吊り上げ、ダンベー船に積み込みこれを引き船で運ぶことになりました。しかし、初冬の北風が立ちはじめ、荒れがちの天草灘、野母崎、五島灘、西海橋下の狭くて流れの速い瀬戸を運ぶことは私には出来ませんと、泣かんばかりに人の良さそうな船頭が哀願しておりましたが、当時の軍の命令にはそむかず命令に従い、無事に大村まですべてを運搬しておりました。その後、航空廠補給部水上機班の二式大艇、零式艦上観測機等を格納していた格納庫に復元した状態に並べ、専門的な調査の後しばらく展示しておりました。
B29を運搬する際の11月22日から30日まで、大人数の私達を泊めていただき、食事や風呂のお世話などのお世話をしていただきました森蒲鉾店(小長井トラック)の方、炊き出しをしていただいた当時の国防婦人会の方々に心からお礼を申し上げたいと思います。

4 B29撃墜と坂本中尉

大村航空隊から迎撃のために飛び立った坂本中尉(佐賀県相知出身)操縦の零戦が、多良岳上空の空中戦において、このB29に体当たりをして撃墜したのでした。坂本中尉が操縦していた機体は、諫早市長田町から高来町の山中に飛散し、中尉の遺体は高来町深海榎堂の東北、割石地区の山中に落下しました。戦死されていた遺体は、昭和20年1月8日深海地区に住んでおられた山崎マサノ(当時15歳)さん他2名が、薪取りに行った際、山中で発見し警防団が、この遺体を収容して深海の蓮行寺で通夜が行われたそうです。
くしくも、坂本家では戦死の公報を受け四十九日の法要をされている遺族のもとに、遺体発見の連絡がなされたと聞いています。
体当たりにより壮烈な戦死、散華をされ、二階級特進で少佐になられた坂本少佐と、遠い敵地小長井港沖の海中で戦死された米軍11名の英霊を慰めるために、昭和52年11月27日13時より高来町深海の禅寺天初院にて、坂本少佐の遺族、米軍佐世保基地司令官などの出席のもと、日米合同慰霊祭が行われましたので、私も拝列させてもらいました。
さきの大戦でも、身近でこのような惨事は国内ではあまり例をみないのではないかと思います。あの大戦昭和の時代も、平和な平成の時代となり、平和、軍縮、国際化、国際交流の時代を迎えています。
小長井町にある景勝地さざんか会館の一角に、海底で亡くなられた遠い異国の搭乗員の慰霊碑が建立出来れば、殉国された英霊も安らかに眠ることが出来、小長井町も新たな国際交流、国際親善の輪が出来て、戦争の愚かさや平和の尊さを後世に語りかけてくれるのではないかと思います。
47年前、空腹をかかえ初冬の冷たい雨に濡れながら、まだあどけない友と、お国の為にと、あの痛ましい惨事を処理した一端を記し、多良岳山中と小長井港沖の海底で、殉国散華をされた英霊のご冥福をお祈りし、永遠の平和を願いつつ私の話を終わります。

5 B29搭乗員等の資料

末尾に、米軍搭乗員11名、ボーイングB29と零式戦闘機の性能資料を掲載いたしますのでご参照ください。B29の搭乗員名は高来町深海の、元陸軍大尉荒川斗苗氏の調査によるものです。

米軍搭乗員11の名簿》
機長ジョセフ キルブルー大尉、ポール ミークス中尉、エムズリー エガース中尉、アール ハインズ中尉、スピリット オビアール少尉、ジョン ノーマンジュニア二等軍曹、エドワード モンロー二等軍曹、ウィンセント シェリダン二等軍曹、ゴールドン チャード三等軍曹
※平成5年、小長井小学校前の景勝地に、小長井町小川原浦の馬渡広雄氏により米軍搭乗員11名の鎮魂碑を建立してもらっている。

《ボーイングB29の性能》
機体全長30.2メートル
機体全幅43.1メートル
重量64トン
エンジン18気筒二星型空冷2130馬力×4個
プロペラ直径5メートル
最高速度時速600キロメートル
巡行速度450キロメートル
航続距離5,500キロメートル
行動半径2,200キロメートル
上昇限度12,500キロメートル
離陸距離1,450キロメートル
武装20ミリ機関砲6門
13ミリ機関砲16門

《零式艦上戦闘機》
機体全長9.24メートル
機体全幅11メートル
エンジン14気筒二星型空冷(栄)
公称馬力1,130馬力
プロペラ直径3メートル
曲軸最大回転数2,700回/分
最高速度541キロメートル
上限限度13,700キロメートル
航続距離300キロメートル
全装備重量2,745キロ
武装13ミリ機関砲1門
20ミリ機関砲 2

《追記》

6 B29引き揚げ作業後

(1)霞ヶ浦へ派遣後の体験

小長井港沖に落ちた米軍機B29の引き揚げ作業が終わり、昭和19年12月10日頃から昭和20年3月中旬まで、茨城県の霞ヶ浦第一海軍航空廠に零式戦闘機の整備作業応援のため派遣となりました。この冬は一晩で膝上までも雪が積もり(土地の古老達の話では80年ぶりの大雪)毎日、筑波おろしの吹き荒れ、霞ヶ浦飛行場で空腹に耐えながら頑張りました。東京大空襲の昭和20年(1945年)3月10日、この日も2時間残業をし、仲間と帰りの途中、南西方向の夜空が真っ赤に焼けているのを見ながら、東京の空襲被災ではないかと判断をし、次の晩、次の晩もその情景を見ながら寄宿舎に帰りました。
3月16日常盤本線荒川沖駅から帰途の列車に乗り込み、途中の佐貫駅付近から雪化粧をした綺麗な富士山を観て、日暮里駅の近くまで来て見ると、東京の市街地は見わたす限り焼け野原となり、町工場の焼け跡に機械らしい残骸があちこちに残っているのが見られるだけでした。東京駅で、東海道本線の列車に乗り継ぎ、立錐の余地もない状態で、熱海駅付近からやっと座席に座ることが出来ました。
早朝には大阪駅に到着する予定でしたが、京都・大阪間の茨木駅で長い間列車が止められ、8時過ぎにやっと大阪駅に到着しました。しかし、大阪から乗り換える列車の運行は、当分見込みがない事がかなりの時間がたって判明しました。何か他に方法はないかとあちこちに聞き合わせ、やっと阪神電車が運行してことがわかりました。何処まで行けるのか分からぬまま、大阪駅の地下から阪神電車に飛び乗り、やっと西宮駅に到着しましたが、これから先は何も運行している乗り物はないとの事で仕方なく歩き始め、やっとその状況が判明しました。
神戸市内が米軍の空襲を受け、西宮駅付近も大きな被害があり、まだあちこちに発生している火災も消火出来ず、亡くなった人達は道脇に放置され、遺体を何体か見ながら通らなければなりませんでした。
道路が通れない箇所では、竹の梯子で国鉄の高架に登り、歩けないところは竹の梯子で道路におりて進みました。何回かこのようなことを繰り返しながら、約30キロメートルを暗くなるまで歩き須磨駅に着いたときには海岸の松の枝越しに、綺麗な大きな月が出ていたのを鮮明に覚えています。須磨駅でやっと電車に乗り込み、明石駅から蒸気列車に乗り換え帰路につくことが出来ました。
昭和20年3月19日、大村第21海軍航空廠補給部組立整備陸上機班に復帰し、2ヶ月後に再度、20日ぐらいの予定で鹿児島県の鹿屋へ派遣されました。
鹿屋では、競馬場の中で九三式中型練習機の機体を組立後、エンジンを搭載し、機体とエンジンの調整、整備をし航空隊に引き渡す作業をしました。1日何回も米軍艦載機の空襲があり、身近に機銃掃射を受けながらの作業で、しかも梅雨の時期になり、なかなか思うようには作業が進まず20日の予定が2ヶ月に延び、昭和20年7月17日にやっと我が家に帰る事が出来ました。
職場に復帰してみると、旧制諫早中学校の生徒が学徒動員として配属されており、私の班に隣家の牧本英治君が配属されていたのに驚きました。

(2)昭和20年8月9日

忘れる事の出来ない昭和20年8月9日。大村航空廠で最新鋭戦闘機の紫電改一号機が完成し、私の班はその受け入れ検査のため飛行機部に出向き、紫電改の雄姿と初めて接しました。私は、エンジン周りの点検をしており、エンジンの真下で締め付けナットに安全線をかける作業中に、突然、電気のスパークを束にした様な閃光が目に入り、はっとした瞬間、大きな爆音とものすごい爆風により土煙に包まれ、思わず目と耳を指で押さえ機体の真下に腹ばいになりました。
しばらくして、学徒動員の生徒達が騒ぎ始めたので、外に出てみると西南の上空には、中が真っ赤になった、きのこか、かぼちゃの形をした大きな黒い雲が湧いているのを見て、何が起きたのか想像もつかず、仕事も手につかない状態になりました。また、南東方向(矢上か茂木あたり)の上空には、大きな長方形の物体を吊り下げた落下傘が2個並んで、ゆっくりと降りているのを見ました。これは、長崎の空爆状況を撮影する米軍の機材ではなかったろうかと思います。
後日、この黒い雲が「原子爆弾」であると判明しました。この日の帰りに竹松駅から乗り込んだ列車は、遅れながら諫早駅までやっと着いたものの、長崎本線を通る列車の見通しは立たず、通勤仲間と諫早の町中を東諫早駅まで歩きました。駅ホームで夜11時頃まで待っても列車が来る気配もないので、また肥前長田駅までてくてくと歩きました。歩き疲れここでも列車の来る見通しもたたないので、肥前長田駅の待合室で仮眠して、翌朝4時頃からまた歩き出し、やっと8時頃、小長井の我が家に帰ることが出来ました。

《大村第21海軍航空廠の概要》
昭和16(1941)年10月1日、第21海軍航空廠は現在の大村市古賀島町などの一帯に開廠。当初は、約645千平方メートルの敷地に62棟の工場を建設。昭和19年度から学徒勤労動員令により、各地から多くの旧制中学、女学生が動員されました。我が職場には佐賀県鹿島女学校の生徒が女子挺身隊として配属され、昭和20年度からは諫早中学校生徒が学徒動員として配属されました。
最終的には総敷地面積約3,400万平方メートル従業員数5万人で、零式艦上観測機、流星(B7爆撃機)を生産しておりましたが、昭和19年10月25日米軍のB29爆撃機により空襲を受け、工場(流星B7工場を中心に)の大半が焼失し、約300人以上が死傷しました。
この、空襲で大半の工場施設が壊滅状態となり、大村、諫早の僻地に工場を分散して生産をはじめました。昭和20年8月9日、毎日のような米軍機空襲の中、最新鋭戦闘機紫電改の一号機が完成し、受け入れ検査の最中、ものすごい閃光と爆音爆風を受け、呆然、放心状態の中に大きな原子雲を発見しました。
大村第21海軍航空廠の工場は、昭和19年の空爆で大村、諫早周辺地域に疎開し再開したものの、昭和20年8月15日、昭和天皇の玉音放送により終戦となりました。
実働3年10ヶ月で終戦、昭和20(1945)年11月、正式に廃廠となりました。

(平成26年4月寄稿)