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私の被爆体験1

ページ番号:0002140 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私の被爆体験~ 橋本利一さん(諫早市高来町)の被爆体験

さてみなさん、五島列島の福江島はご存知でしょうか。私は福江の港から小さな船で1時間ほどの、黄島という小さな島で生まれ育ちました。子どものころは夏になると海に潜り、鋒で魚をついたり、サザエやアワビなどを採って遊んだ思い出があります。14歳で国民学校を卒業しますと、島の男たちはほとんど漁船に乗っておりました。

私は、叔父の勧めで、国鉄長崎駅に就職しました。昭和19年の7月でした。昭和16年に戦争がはじまってから、あちらこちらで空襲があり、そのつど避難させられる毎日をすごしていました。

就職から1年が過ぎた昭和20年8月1日、米軍が長崎上空に飛来し、爆弾を長崎駅の貨物ホーム近くの線路に投下いたしました。これにより、仲間が1人即死しました。また、同時に貨物ホームの反対側に時限爆弾が投下され、5日後に爆発しました。その直前に、私はその近くに行きましたが、なんとか巻きこまれずにすみました。

8月9日午前11時2分、私は、長崎駅構内の詰所で次の作業を待っておりました。ピカッと青い閃光が一面に走り、その後すぐさま、ドォンという大音響とともに、詰所は潰され、その下敷きになりました。詰所の入口の近くに木製の電柱があり、それも一緒に倒れましたので、そのすき間から、外の明かりを目指して這い出ました。そして立ち上がりますと、NHK長崎放送局の近くの木造家屋から火柱が上がり、火災が発生しました。

気がつくと、首がヒリヒリし、左わき腹もやけどしておりました。そして鼻血が出ました。子どもの頃、母から聞いた話で、鼻血が出たときは首の後ろの髪の毛にちょっと刺激を与えると鼻血が止まると聞いていたので、そのとおりに髪の毛を引っ張って刺激を与えましたところ、鼻血は止まりました。

線路とホームを越えて、駅の鉄道診療所に行きますと、死んだ赤ちゃんを背負ったお母さんが、顔にやけどを負って鉄道診療所に来て治療を受けておりました。私のやけどは軽傷だったので、看護婦さんからヒマシ油を塗ってもらっただけでした。被災者が次々と診療所の方に運ばれてきます。私は長崎の地理をよく知らないので、夢遊病者のように町の方へ行ってみましたところ、そこが新興善小学校(現長崎市立図書館)だったのです。道路から校舎内を見ましたところ、たくさんの被災者が来ておりました。被災者の1人の背中が焼けただれているのを見まして、本当に何とも言えない思いがいたしました。

新興善小学校をあとにして、駅の貨物室に戻りますと、先輩が、「橋本君、僕の弁当を半分食べていいよ。」というのでいただきました。本当にありがたく、おいしかったことを今でも覚えております。食事が終わりますと、先輩に、「線路を走るモーターカーが大橋町の鉄橋付近に来る予定になっており、長崎駅長も現地に向かうので、橋本君も同行してくれないか」と言われましたので、「行きます」と答えました。

日が暮れてから、長崎駅長以下18名が、長崎駅から線路を歩いていくことになりました。夕方になり、貨物室から届いた夜食用のおにぎりを食べ、浦上方面に向かって出発しました。途中、井樋ノ口電車停留所付近では、真っ赤に焼けた電車が鉄のかたまりになっていました。浦上駅の踏切付近は、現在ブリックホールなどのりっぱな建物が建っておりますけれど、当時はすべて三菱の兵工廠であったわけです。その兵工廠も焼けて、曲がった鉄骨と化していました。道路には馬車馬も死んでいました。踏切を越えて、浦上駅の方に行きましたが、すべて真っ暗でございます。すると、誰かが、「敵機来襲!伏せろ!」というので、その場に伏せました。もしかしたら、死体の上に伏せていたんじゃないだろうか、と思いました。それから、浜口町の方に歩いていきましたら、三菱球場の中の宿舎が火災で燃えていました。それを明かりに球場内に入りますと、そこは死体の山でした。山川駅長が、「まだ生きている人もいるようだ。」と言いましたが、皆どうすることもできませんでした。山川駅長が、「このあたりに青年寮があるはずだが」とおっしゃられるので、「はい、私の住んでおりました青年寮は、この球場のとなりでしたが、もう焼けてしまってありません。」と答えました。そこは私のいた寮でした(現長崎西洋館付近)。寮がすぐそこであれば、線路はこの近くだから線路に上がろう、ということで、職員18名が線路に上がりました。下の川の鉄橋を渡って国道の入り口まで行きましたが、左右の建物が燃えていたので、それより先へ歩いていくことができず、長崎本線の線路へ戻って、大橋町の鉄橋付近まで歩いていきました。その際、周囲の建物はみな倒壊しているというのに、2軒の2階建ての家が無傷で残っているのが目に入りました。あたりは炎が出ており、延焼するのも時間の問題だと思われましたが、とても奇妙に感じたのを覚えています。その後の話になりますが、その2軒の家が建っていた場所は、まさしく現存の原爆落下中心地のあたりでした。何とも不思議な光景でした。

大橋まで来ましたが、モーターカーは来ておりませんでした。すると、その近くにあった小さい防空壕から、「水を、水をください。」という女性の声がしました。もちろん真っ暗で顔もわからず、どうすることもできませんでした。それから、あの長い大橋の鉄橋を、四つんばいになって渡りました。

西町に着きますと、そこには線路脇に多くの被災者がおりました。救援列車が到着していましたが、山川駅長が、「我々がこの救援列車に乗れば、その分被災者の方が乗れないから、我々は道ノ尾駅まで歩いていこう」と言われたので、救援列車が出発した後に、道ノ尾駅まで歩いていきました。道ノ尾駅に着きますと、二度目の「敵機来襲」の声がしたので、私は道ノ尾駅のトイレに隠れました。しかし何事もなく、最後の救援列車で諫早に向かいました。

途中、長与駅で臨時停車しました。長与駅には、戦前から大波止の税関の前にあった国鉄の長崎管理部が、火災で焼け出されて一時的に移設されていたので、そこの管理部に行きますと、この部屋の半分くらいの広さでしょうか、救援列車で運ばれてきた負傷者の方がたくさんいました。女性の方が髪を垂らし、シャツもボロボロで、「苦しい、苦しい・・・」と言っていましたが、それが1人や2人ではありません。多くの方がそういう呻き声を上げていました。しかし、しばらくすると、その声も聞こえなくなりました。みな亡くなったのです。長与駅の職員さんが、「今から、救援列車が諫早へ出発するので来てください。」というので、列車に乗って諫早へ向かいました。

諫早駅から国鉄職員養成所に行きました。現在の運動公園の北側第2駐車場が、当時の国鉄職員養成所があった場所です。長崎の鉄道診療所から、看護婦さんも2名来ておられました。「橋本さん、やけどにはキュウリがよかとよ。」と言われ、いただいたキュウリを食べました。まもなくすると、東の空が白けてきました。一睡もできなかったと記憶しています。そのうち、諫早駅の職員の方から、「橋本さん、これから本河内町の地区公民館に来てください。」という連絡があったので、下りの列車に乗って、本川内駅で下車しました。

地区公民館にいきますと、おにぎりの準備がしてありました。本河内には職場の同僚がおりましたので、公民館を使わせていただけたのです。その日は公民館に泊まりました。

翌11日の夜、浦上-長崎間が復旧し、諫早-長崎間がすべて開通になったので、本川内駅から長崎駅へ戻りました。長崎駅はすでに焼失して、ありませんでした。長崎市役所近くの豊後町というところに、国鉄が青年寮として借り受けた旅館に行きまして、3日ぶりに風呂に入ることができました。

翌8月12日、五島出身の先輩が、「橋本君、私の兄の船が今日の午後から福江に行くから、五島に帰って両親を安心させなさい」と言ってくださったので、五島の実家に帰りました。父によれば、8月9日、長崎の空が真っ赤になったので、「これでもう利一は生きてはおらんだろう」と母と話しあっていたところ、私が突然帰ってきましたので、両親は嬉し泣きして出迎えてくれました。故郷の黄島で毎日新鮮な魚と野菜を食べて、体力が回復しましたので、1ヶ月後に長崎に帰りました。駅に行きますと、構内詰所も新しくできておりました。そして、8月15日の終戦以後、進駐軍の輸送で、多忙な日々を送っていた仲間たちもいました。

ある日のこと、進駐軍の列車に病院車があり、軍医が乗っておられました。その軍医の方に4リットルほどの肉の缶詰と大きな角パンをいただいて、職場のみなさんと分けて食べました。食糧事情が悪かったにもかかわらず、栄養失調になることはありませんでした。後にわかったのですが、その方が進駐軍の有名な軍医さんであることを著書で読みました。

その後、「被爆された方々が結婚をして生まれた子どもは奇形児になる」という風評が出ました。しかし、先輩方が結婚されて生まれた子どもは、五体満足であったので、それはあくまで風評であることが証明されたのです。また、「長崎市では、70年間は草木も生えない」という風評もございました。しかし、翌年の春には、山々に草木が生え、緑がきれいでした。

私は、今でも心配になることが1つあります。それは、落下中心地の松山町から長崎駅まで2~3キロメートルの距離で被爆し、さらに当日の夜、落下中心地を歩いていきましたので、私の体内に、もしかして放射能なるものが入っているのではなかろうかということです。

去る4月に、アメリカのオバマ大統領が、チェコの首都プラハで、核兵器を世界からなくそうと演説をおこないました。しかし、それはわれわれが生きているあいだには実現しないだろう、とのことです。長い、長い道のりになろうと思いますが、世界平和への第一歩となりうるのではないかと考えております。

話は前後しますが、ある日、私が県立図書館で、ある1冊の本を読んでいると、このような一説がございました。『この世の中で、何が一番こわいか。それはライオンでもなければトラでもない。それは人間である。』というものです。私はなるほどと思いました。人間が原爆をつくらなければ、あの日、長崎市で7万4千人の尊い命が失われることはなかったのです。

終わりにあたり、私は、今後とも核兵器廃絶運動に、まい進していく所存です。今日は、子どもさんもお見えになっていますが、あなた方が大きくなって大人になったとき、戦争のない日本を、いつまでも築いてくださいますようお願いしつつ、私のつたない証言を終わらせていただきます。今日は本当にありがとうございました。

(平成21年8月7日「被爆体験講話会」にて)