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私の被爆体験2

ページ番号:0002136 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私の被爆体験~ 小林壽美さん(諫早市高来町)の被爆体験

私は長崎市竹ノ久保にうまれ育ち、被爆当時は14歳でした。城山小学校を卒業して渕国民学校に進み、動員学徒として三菱兵器大橋工場に勤務していました。同じく三菱兵器大橋工場に勤める父、母と私の3人は長崎に残り、幼い妹と弟は深海の祖母の家に疎開していました。他の学徒は甲板工場と鋳造工場に行きましたが、私を含めた10人ほどは、県の機械製造補導所に回されて補導を受け、技術部設計課に配属されました。魚雷の設計図の図面を部品ごとに分けて、写し書きするのが私たちの仕事でした。
8月9日のお昼頃、大橋工場で勤務していると空襲警報が鳴りだし、みんなで避難しました。警報が解除されたので工場に戻ってきて上着を脱いだところで、ピカーッと激しい閃光がして、真っ暗で何も見えなくなりました。ただ大声で力いっぱい「助けて」と叫びました。同じように吹き飛ばされた友人の声が聞こえ、そばにかけ寄って抱き合ってみると、やけどした皮ふがべらりとはがれました。私はそこで力つきて、気を失い倒れてしまいました。どれくらいの時間がたったのか記憶が定かではありませんが、私は目を覚ましました。周りには亡くなっている方も生き残った方もいらっしゃいました。生き残った方に、「早く早く」と急かされて外に出てみると、工場も長崎市内も何もない焼け野が原になっていました。他の工場は屋根や壁が吹き飛び、鉄筋があめのようにねじ曲がっていました。設計課が入っていた建物はコンクリート造だったので、私たちも命だけは助かりましたが、顔と両手はやけどを負い、洋服は血だらけでぼろぼろの重傷でした。髪の毛は逆立ち、男女の区別さえ分からないありさまでした。
それでも意識はしっかりしていたので、西町の上の方に避難しようと、とぼとぼ歩きだしました。道のそばには「水、水」「助けて」とうなる人や、焼けただれて裸になった人が倒れていました。立ったまま真っ黒に焼けこげた馬も、ばたばたと倒れていきます。時々、道の脇に積み上がった燃え残りの灰がごそごそと盛りあがったかと思うと、黒こげになった人間が出てきて、そのまま地面に倒れこむこともありました。私は悲鳴をあげながら、同僚とともに必死で逃げました。浦上川に差しかかり、川の中を覗きこむと、そこは人間の頭首と胴体が浮かぶ人間の川になっていました。それをガボガボと踏みつけるようにして逃げました。人を助けるような余裕はありませんでした。ただ自分が生き残ることしか考えることができませんでした。
逃げる途中、野口英世さんがやけどを負ったときに指同士が癒着しないように指のあいだに布をはさんだという話を学校で習ったことを思い出し、ぼろ布を拾って指の間に1本ずつはさみ、長めの布で首の傷を止血し、山を登っていきました。さつま芋畑に横たわって気を失っていると、だれかが一升瓶に水を持ってきて、「飲みなさい。でも寝たら死ぬから目は開けておきなさい」と言ってくれましたが、その方にお礼を言うこともできず、眠ってしまいました。
目が覚めて左右を見ると、もう夕暮れどきのようでした。下に救援列車が来ていたので「あれに乗れば、諫早にいるおばあちゃんや妹弟のところに行ける」と思ったのですが、何度立ちあがっても転んでしまうので、芋虫のように這って山を下りました。その途中、男の人が一人ぽつんと立っていました。「俺は造船所から来て親せきを探しよるとばってん、あんた違うね。」と聞かれたので違うと答えると、パンを1個くれました。「水をください」と言うと、「近くに井戸があったようだ」と言って水をくんできてくれました。その人に停車場まで連れて行ってもらい、列車に乗せてもらいました。列車に乗るやいなや、血をたくさん吐きました。この子はもう死んでしまうから列車からおろせ、と引きずりおろされそうになりましたが、「いいや、私は深海のばあちゃんの家にいく」とソファの下にもぐりこみました。負傷者はあとからあとからどんどん乗ってきて、列車はすし詰め状態になりました。本当にこの世の地獄のようでした。
列車は諫早駅に着きましたが、病院はいっぱいでした。無我夢中でまた列車に乗り、大村まで来ました。その頃にはもう力つきて、列車からおりる元気もなく、そのまま川棚まで運ばれました。救援隊の方がトラックで学校のようなところに連れて行ってくれて、そこではじめて治療を受けました。血で真赤に染まった下着一枚で寝かされ、やけどに油を塗ってガーゼを当てるだけの簡単な治療を受け、板の間に寝かされました。名前を聞かれるとき、はっきりと「西山壽美です。大橋兵器工場技術部設計課で働いていました。」と言ったら、銀の三菱の徽章を付けていましたね、と言われ、よくお世話してくださいました。横に寝ていた人がわめき泣きさけぶので、よく見たら同じ設計課の方のようでした。「あら、徳山さんでしょう。私、西山です。」と言うと、やはりその人でした。あんたはやけどにうじがわいているかと聞かれ、「いる」と答えると、「うじは肉と一緒にばい菌を食べてくれるからうじがいるとよかとよ」、と言いながら、翌日には亡くなられてしまいました。
負傷者はみんな髪の毛はちりちりになり、真っ黒に焼けて、板の間に3列に並らべて寝かされていましたが、1人2人と死んで戸板に乗せて運ばれていきました。私も運ばれそうになりましたが「いいや、私は死なない」と言って頑張りました。しかし「今度は自分の番ではないか」と、神に祈るばかりでした。山里町の家も父母も焼け死んでいるのに、どうしたらよいのかわからないのも、また不安でした。
その頃から少しずつ気分がよくなり、川棚の婦人会の方やお医者さんにお世話になったことを感謝しました。やけどで両手が動かないので、お腹がすくと口を大きく開けて「何か食べさせてください」と叫んだら、婦人会の方がおにぎりを少しずつちぎって、梅干しと漬物と口の中に入れて食べさせてくださいました。あのおいしさは一生忘れることはできません。また、血だらけで男か女か分からないような有様だった顔を濡れタオルで拭いて、「あら、あなたは女の人だったのね」といって綺麗に拭いてくれたことも嬉しかったです。
その頃、深海大戸の叔父と叔母たちが川棚の収容所に来てくれました。長崎まで私たちを探しに行って、警察で西山壽美が生きていることを聞き、引き取りにきてくれたのでした。「おばあちゃんの家に疎開している妹弟に会いたい。帰りたい。」と頼むと、帰ると死んでしまうから連れて帰れないと言われました。「死んでもいい」と言って無理に頼んだら、川棚の消防団の方が担架の代わりに戸板を持って来て、4人で私を寝かせて駅まで送ってくれました。親戚がリヤカーを引いて小江駅に迎えに来てくれていましたが、「臭い臭い」と言って鼻をつまみ、「毒を持っている」と言って、私に近寄りませんでした。
病院はないので、毎日叔母がリヤカーを引いて診療所に連れていってくれました。火傷の薬はないので手のつけようもなく、治療といっても油を塗りガーゼを貼るだけでした。ガーゼを取る時は「痛い、痛い」と泣き叫びました。やけどした手からは大きなうじ虫が出ました。何日か経ち、少しずつ治りかけてきたかと思いましたが、やけどを負った皮ふがケロイドになり、ひじが曲がったまま固まってしまいました。それを「ガネ(蟹)の横ばい」とからかわれたことが、本当にくやしく悲しかったです。、
母は山里町の自宅で亡くなったらしいのですが、遺骨も残りませんでした。家の焼け跡に落ちていた、びん留めと財布の口金を遺品に持ち帰りました。父も死亡届が出されていましたが、嬉野の病院まで運ばれて助かっていたことが分かり、私たちがお世話になっている母の実家に帰ってきました。父は福岡の大牟田の生まれで、私と同じ三菱兵器大橋工場で電気の工場長をしていて被爆したのでした。
母の実家にいつまでもお世話になるわけにもいかず、大牟田の父の実家に移り住みました。終戦から1年が経った頃、父が長崎の矢の平に焼け残った家を見つけて、そこに移り住みました。
働かなければ食べていくことはできないので、私も「何とかして働かなければ」と毎日水の入ったバケツを両手にさげ、曲がった腕を伸ばす練習をしました。手術をするお金がないので、毎日毎日痛みをこらえてがんばり、くの字ぐらいまで肘が伸びるようになりました。もともと洋裁が得意だったので、洋裁の仕事に就きました。
当時はやけどを隠すために、夏でも長袖の洋服を着ていました。長い年月が経ち、やけどのあとはほとんどわからなくなりました。しかし原爆の後遺症はいまでも残っています。私自身だけでなく、私の子どもも病気を患っています。しかし、子どもの病の原因が原爆にあることを疑いながらも、それを口にすることはできませんでした。今でこそ話せますが、昔は自分の子どもにすら被爆体験について、話したくない、知られたくない、という思いがあったのです。
原爆の生き証人として、お話いたします。

(平成22年7月聞き取り)