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原爆の日によせて

ページ番号:0002135 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

昭和57年8月9日、北小の生徒に話して聞かせた話から

野中チトヨさん(諫早市船越町)

 今日は、長崎に原爆が落とされた日ですね。
今から37年前の今日、長崎に原爆が落とされた時、この諫早ではどんなことがあったのか、私が、この目で見たことや、したことをお話します。
長崎に原爆が落とされたあの日は、今日よりももっとよく晴れたとても暑い日でした。今でも忘れません。昭和20年8月9日、11時2分。長崎に落とされた原爆が、まるで諫早に落ちたように、稲妻の何倍という光と、ほとんど同時に『ドーン』という物凄い音がしたのです。みんなびっくりして、その瞬間反射的に物かげに隠れました。しばらくして外へ出てみるとどうでしょう。今まで晴れていた空が、真昼というのに薄暗くなって、長崎の方に変な形をした雲がもくもくとできたのです。それは、皆さんも写真で見たことがある、あの「きのこ雲」だったのです。一体どうなったのでしょう。きっと、今までにない、ものすごい爆弾が、どこかに落とされたに違いないとみんなで心配していました。
それから約3時間ばかりして、やっと警防団のおじさんが来て、「長崎は、さっきの爆弾でほとんどやられたそうです。怪我をした人が諫早にも来るので講堂を掃除して下さい。」と言って来られました。その頃の諫早小学校の講堂は、今の市役所の所にあって、2,000人以上の人が入ることのできる大きな建物でした。私たちは汗だくになって、心配で胸をどきどきさせながら一生懸命掃除をして、怪我人を待ちました。
やがて、午後5時頃、トラックに乗せられた人たちが、次々に来ました。その人たちは、トラックに乗って来られたくらいだから、怪我といっても軽い方の人たちに違いありません。だのに、どうでしょう。着ている洋服はずたずたに破れ、顔や背中、手、足等、火傷をしているのです。なかには、外から見て何一つ傷がない人もいました。
その人たちは、みんな講堂の床板にござをしいて、その上に寝ころんだり、うずくまったり、または木の長椅子に腰かけたりして所せましと収容されました。私たちは、大急ぎで、薬といってもオキシドールと赤チンキと黄色い粉の薬しかなかったけど、それを無我夢中で塗ってやりました。傷口には、ガラスの破片がいっぱい突き刺さっています。それにうじ虫までが、傷口に突き刺さるように幾つも幾つも食いついているのです。
「痛いよう。痛いよう……。 う…うう……水水」
という傷ついた人たちの悲鳴を聞きながら、ただ夢中で、ピンセットでガラスの破片やうじ虫を取りのぞき、薬を塗ってやったり、走っていって水で口を湿らしてあげたりしました。
ふと見ると、可愛い赤ちゃんが、傷一つないのに死んでいました。するとそばにいた傷一つついてないおじさんが、ふらふらと立ち上がって10歩ばかり歩いて、そこにあった木の長椅子に「どすーん」と座ったかと思うと、両手を椅子の背にたらして亡くなってしまいました。
中央の方では、女学生と若い女の先生が、輪になって座り、苦しさをおさえて、静かに小さい声で讃美歌を歌っておられました。でも、その人たちの中からも次々に死んでいく人が出たのです。
苦しさに、朝鮮の人が、大きな声で、
「アイゴー、アイゴー、水、水、水をくれ。」
と泣き叫ぶ声も耳に突き刺さりました。私たちは、そんな人たちの間を、あっちへすりぬけ、こっちへすりぬけ、まるで操られているように動き回ってお世話をしました。
やがて夕方になり、婦人会のおばさんたちが、おにぎりをつくって持ってきて下さいました。でも、どうしても胸がつまって、一つも食べることはできませんでした。
2日、3日と経つうちに、死んでいく人がどんどん増え、ある教室は、死体を安置する場所になってしまいました。
三日三晩、家に帰らないままお世話していたら、着ているものはもちろん、頭から足の先まで、異様な臭いが染み込んでしまっていました。でも、じっと家にいるわけにはいきません。それからとうとう10日間位、みんなで力を合わせて泣きながらお世話をしつづけました。
8月20日頃になると、生き残った人は半分位になってしまい、その人たちを、やっと病院に移すことが出来るようになったのでした。この時のことは、今思っても涙が出てきます。
皆さんは、こんな様子は想像もつかないでしょう。でも、これは、今から37年前に、私の目の前であった本当のことなのです。
こんなことが二度と繰り返されてはなりませんね。日本だけでなく、世界のどこででも。
そのためには、一人一人がしっかりした考えを持っていなくてはなりません。どんなことが戦争につながってしまうのか、わかる人にならないといけません。
皆さんは、私の話をとてもよく聞いてくれたので、きっとこのことをわかってくれて、平和な、楽しい社会を築いてくれることを信じます。では、これで終わります。