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戦争を知らない君たちへ

ページ番号:0002134 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~戦争を知らない君たちへ~ 竹下民輔さん(諫早市馬渡町)の被爆体験

私が持っている被爆者手帳、これには今の住所も書いてありますが、原爆を受けたときにどこにいたかということも書いてあります。私が原爆を受けたのは、長崎市新橋町、爆弾が落ちた地点から3.2km離れたところです。手帳に書いてある「第1号」というのは、原子爆弾が爆発したときに、その場で直接それを受けた人のことです。原子爆弾が投下された土地は、10日間ぐらいは放射能が残っているので、その間に長崎に入って放射能に身体を汚染された人もこの手帳を持っています。そのとき、私は9歳でした。
日本は、私が生まれる5、6年前から戦争をしていました。中国に攻めていって、自分のものにしようとしていました。アメリカやイギリスに「やめなさい」といわれても聞かなかったので、アメリカはとうとう、石油もゴムも食べ物も日本には売らないことを決めました。日本はそういうものが取れないので、とても困りました。そこで日本はどうしたかというと、太平洋の南の方に攻めていって、アメリカと戦争を始めたのです。それが太平洋戦争です。最初はアメリカやイギリスが十分な用意をしないうちに攻めこんだので、日本は勝っていました。しかしアメリカの方がお金持ちだったので、すぐに軍隊を準備して、逆にじわじわと日本に攻めこんできたのです。太平洋戦争が始まったとき、私は幼稚園生でした。幼稚園で、戦況を伝えるラジオを聞かされたのを覚えています。そして小学校に入学した頃には、国中から物がなくなっていました。お菓子はもちろん、服も本もお店に売っていないのです。カメラやフィルムもありませんでしたので、私には入学式の記念写真もありません。ラジオや電話がある家も、地区に1、2軒しかありませんでした。そのころ流行した言葉に『欲しがりません、勝つまでは』というのがありますが、欲しがろうにも、そのころの日本にはもう何も物がありませんでした。
1年生のときには、戦争に勝つようにお祈りするために、12月8日の朝5時ごろから長崎の神社にお参りにいきました。眠い目をこすりながら学校へいって、諏訪神社や八坂神社などの長崎市内の神社にお参りをして回るのです。その頃は子どもの数が多かったので、1クラス60人ぐらいはいたでしょうか、それが4クラスあったので、1学年240人ぐらいで、しもやけやあかぎれをつくって、ブルブル震えながら、お参りに行きました。食べ物が不足してお腹がへっているので、よけいに寒く感じました。何人かの子どもは自分のお兄さんやお父さんが兵隊さんになっているので、特別にストーブが焚いてある神社の社務所に入れてもらって、お参りしていました。そうではない子どもたちは寒い境内で、じっとだまって待っていなければいけませんでした。
小学校2年生までは男の子も女の子も同じクラスでしたが、3年生から男女が別のクラスになりました。そして、男の子は戦争に勝つためにと言われ、毎日木剣を振らされました。今考えてみると、男女別のクラスに分けられたのは、男の子は将来強い兵隊になるために、とにかく鍛えるためだったのでしょう。少し難しい言葉になりますが、当時の学校では教育勅語にしたがって修身という科目がありました。その教科書には、天皇陛下が子どもたちにこうしなさいと教えた言葉が書かれていました。「朕(ちん)惟う(おもう)に我が(わが)皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)国(くに)を肇(はじ)むること」という文句からはじまる勅語を覚えさせられ、きちんと覚えられないとたたかれることもありました。昔は、言うことをきかないと、容赦なくたたかれるような時代でした。
4年生になると、日本はだんだん戦争に負けてきていたのですが、学校や大人たちはそれを教えてくれません。家にラジオのある子に聞くと、大本営発表といって、「日本が敵の戦艦を沈めました」とか「敵の飛行機を何機落としました」というふうに放送されていたそうですが、後で知ったことですが、それもウソばかりでした。ですから、日本国民は「天皇陛下のいる国が負けるわけがない」とその放送を信じきっていました。原爆が投下されるまで、それはずっと続きました。
今でも覚えているのは、当時は薪をかついで本を読んでいる二宮尊徳像がどこの学校にもあって、その前を通るときは必ずおじぎをさせられたことです。「二宮尊徳はまずしくても一生懸命勉強してえらくなったので、皆さんも物がなくてもしっかり勉強して、天皇陛下のためにがんばりなさい。」と教えられたのです。もう一つは、ご真影といって天皇陛下と皇后陛下の写真が職員室に飾ってあるのです。それに外からおじぎをしなければいけなかったのですが、あるとき、「どうしておじぎをしなければいけないのか」と先生にたずねると、「なんでそんなことを聞くんだ。」と怒ってたたかれました。天皇陛下がなぜえらいのか、不思議に思うことすら許されなかったのです。先生たちも天皇陛下の話をするときは、直立不動で「おそれ多くも天皇陛下は……」という調子で話しだすのです。だから子どもたちは「天皇陛下は神さまだからえらい。天皇陛下の言うことは間違いのあるはずがない。だから、天皇陛下のために死ななければいけない。」と頭から信じさせられて、戦争で死ぬことは当たり前だと思うようにならされていきました。
ところが、戦争に負けはじめると、町にもアメリカの飛行機が飛んできて爆弾を落としていくようになりました。爆弾が炸裂すると、家1軒ぐらいは簡単に吹き飛んで、地面に大穴が開きました。それだけでなく、爆弾の外側は鉄板なので、爆発すると鉄の破片が飛んできて、けがをすることもあります。ですから、敵の飛行機が飛んでくると、警戒警報というサイレンが鳴って、子どもたちは学校にいても家に走って帰りました。敵機がさらに近づくと、警戒警報は空襲警報に切り替わります。空襲警報がなると、道路のわきに掘ってある溝に避難して爆弾をさけるのです。夜寝ていても警戒警報が鳴ると起こされました。家の近くの坂をのぼって、お寺の防空壕に逃げこみました。そうしないと、いつ爆弾が落ちてくるかわからなかったからです。もっとこわいのは、焼夷弾を落とされることです。そのときの日本の家は障子やふすま、板壁できた木造の家ばかりだったので、一度火がつくとすぐに燃え広がってしまうのです。だから、敵の飛行機は空の上から油をまいて、火を付けました。東京大空襲などではそれで焼け死んだ人がたくさんいました。しかし、長崎にはあまり爆弾は落とされませんでした。私が覚えているのは、5、6回ぐらいです。いちばん大きかったのは、長崎駅に爆弾が落とされたときです。警戒警報も空襲警報も鳴らないのに、突然ババババッと音がして、土煙があがったのが学校からでも見えました。急いで教室に避難したので、低学年の子が転んでけがをしたりもしたようでした。ですが、長崎で大きな爆撃といえばそれぐらいでした。長崎は昔からキリスト教とかかわりがあるし、京都も日本の昔からの都なので、この2つの都市は爆弾が落ちないのだろうと言われていました。しかし、長崎には三菱造船所がありますので、そこは狙われるかもしれないと言われていました。
そうこうしている間に、8月6日、広島に爆弾が落とされたのですが、さっき言ったようにラジオもテレビも電話もないので、何もわからないのです。ただ「広島に新しい爆弾が落ちたそうだ」と大人たちが話していましたが、多くの人が詳しいことはわからないままでした。
8月9日はとても天気のいい日でした。私はたまたま家にいて机の下に寝ころんで本を読んでいました。そして11時2分、ピカーッと光りました。気がついたときには、私は吹き飛ばされていました。たまたま私のいたところが、爆風の通り道にあたったのでしょう。「何だろう、何だろう」と言いあっていたのですが、とにかく家の外に出ました。外に出て裸でセミとりをしていた子たちが、泣きながら帰ってきていました。原爆の光でやけどをしてしまっていたのです。これも後で知ったことですが、そのときの温度が3千度といわれています。人間が今まで経験したことがないようなものすごい熱さです。原爆は上空で爆発したので、地面近くに届いたときは温度は下がっていましたが、それでも真下にいた人は影も形もなくなってしまいました。爆風といって、爆弾が爆発したときに起こる風の速さは、毎秒630mくらいでした。神社の鳥居が吹き飛んでしまうくらいのものすごい速さです。原爆が落ちたところの近くにいた人は、その熱風で吹き飛ばされたり、やけどしたりしたのです。私がいたのは3,200mも離れたところでしたが、それでも外で遊んでいた子はやけどして、ぎゃあっと泣きながら帰ってきました。「子どもは危ないから防空壕に行きなさい」と言われて、防空壕に逃げこみました。屋根がわらなどがバラバラに粉々になって落ちてきて、地面は足の踏み場もなくなっていました。大人たちはそれを片付けていたようです。
それから2時間ぐらいしたころでしょうか、バリバリバリバリと音がしたので外に出てみると、県庁が燃えていて、煙が上がっているのが見えました。いつもなら私の家から県庁なんて見えるはずがないのですが、とにかく真黒い煙が上がって、バリバリバリと音が聞こえるのです。太陽が煙でかくれて、あたりは真っ暗になりました。そうすると、急にこわくなって、どうしようかと思いました。
ちょうど、うちの近くに日赤病院という大きな病院があって、そこにけがした人を運んでいました。私は初めて大人の男の人が「痛い、痛い」と泣いている姿を見ました。手がちぎれたり、目玉が飛び出したり、腕が焼けてただれて皮がむけてたれ下がったりした人もいました。担架がないので、けが人は皆戸板に乗せられて運ばれてきました。けがをした人たちは、みんな「水がほしい、水がほしい。」というのですが、「水はやっちゃいかん」と誰かが言っていました。たくさんのけが人が運びこまれたので、病院に入りきれなくなりました。そこで病院の近くの芝生に、夏の日ざしが照りつける中、そのまま寝せられました。すると、腕がなくなった人だとか、脚がもげた人だとか、ひどいけがをした人が見えるわけです。血が出ていても止血ぐらいはできても、薬がないものだから、そのまま寝かされて「痛い、痛い」と泣いているのです。たぶんその人たちは死んでしまったと思います。
夜になり、坂の上のお寺から長崎市内を見てみると、長崎じゅうが火事になって、火が近づいてくるのが見えました。「うちが燃えてしまうんじゃなかろうか」と思って心配で心配でたまらず、防空壕に逃げてきた近所の人たちといっしょに一晩中眠らずに見ていました。腕章をつけた憲兵隊が来て「防空壕に入れ!」と銃剣で突き刺すようにして怒られました。しかしその憲兵が行ってしまうと、みんな防空壕から出てきました。「日本が負けるはずがない。天皇陛下が負けるはずがない。」と憲兵に怒られながら、それを何回も繰り返しました。
3、4日が過ぎたころ、私の家に下宿していた長崎医科大学の学生さんたちが戻ってきました。話を聞くと、その人たちは学校に行かずさぼっていたので、命拾いをしたということでした。しかし、まじめに学校に行っていた1人の学生さんが帰ってこないということで、探しに行くことにしたのです。被爆から何日後か覚えていませんが、私も母について、一升瓶を2つ肩にかついで爆心地近くに探しにいきました。そのころは放射能なんて知りませんでした。長崎駅から先はずっと燃えていて、道ばたには何人か死んでいる人もいました。顔を確かめようとして横向けると、桃の皮がむけるように、ずるりと顔の皮がむけてしまうのです。馬なんかはお腹がパンパンになって、お尻からはらわたが出ていました。さすがに人間はあまり死んでいませんでしたが、10人くらいは見かけました。みんな死体の片付けにまで手が回らないようでした。火葬場がやられているので、死体を焼けないのです。放っておくと腐ってしまうのですが、誰か探しに来るかもしれないので、そこに置いておくしかありませんでした。
穴弘法にその学生さんがいるという話を聞いたので探しにいくと、ぜんぜん意識がないような状態で見つかりました。戸板に乗せてみんなで抱えて、連れて帰りました。学生さんは和歌山の出身でした。電話が通じないので、和歌山のご家族には手紙を書いて知らせました。4日ほどしてお母さんが長崎に来ましたが、そのころには学生さんは口の中がたいそう腫れて、ご飯が食べられない状態でした。意識はあったので、「苦しい、苦しい。」といいながら、ちょうどお母さんが来たその日に亡くなってしまい、とてもかわいそうでした。
私の家の前は建物疎開地といって、焼夷弾が落ちてきたときに火が燃え広がらないように、ところどころの家をこわして、空き地にしてありました。古い材木を組んで、そこに死体を大八車に乗せて運んできて、焼いていました。人間の焼ける匂いというのは、すごいにおいがします。そのにおいが鼻について、ご飯が食べられませんでした。灯油もなにもないので、死体はなかなか焼けませんでした。結局生焼けのままどこかに運ばれていった死体がたくさんありました。
現在の原子爆弾の威力は当時の原爆と比べてどれくらいだと思いますか。今の原子爆弾の威力は500倍ぐらいだと言われています。原爆1発で長崎市が全滅してしまったのに、その500倍の威力ですから、日本全土が全滅してしまうでしょう。そんなこわい爆弾が、今、世界中の国にあると言われています。地球上の人間を5回全滅させるほどの爆弾が、存在しているということです。しかも、そのころは飛行機で運んできて落とさなければいけませんでしたが、今はミサイルで遠くまで飛ばすことができます。あのころの原爆はとても大きかったのですが、技術が進んで小型化されているので、それができるようになったのです。今、高校生平和大使の人たちが、核兵器をなくすためにがんばって活動しているのは、原爆がたった1発でも1都市を全滅させるくらいの威力を持っているからです。ところが、長崎や広島の人はそれを知っているけれど、よその県の人はそれを知らないのです。だから、あなたたちが「長崎ではこういうことがあったんだ」ということを伝えていってください。
原爆を受けた体験を話すと、「そのとき生きていなくてよかったね。」と言ったり、「大きくなったら、アメリカに仕返ししよう」と言ったりする人も中にはいます。そうではなくて、お互いにケンカをせず、話せば分かるのだから、少しはがまんすることが大切です。少し難しいお話になりましたが、私はそういうことを伝えたいと考えています。
(※本文は、竹下さんがお孫さんにお話された内容を編集したものです。)