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被爆者救護にあたり

ページ番号:0002133 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~被爆者救護にあたり~ 馬場すづ子さん(諫早市小川町)の被爆者の救護活動

先づ始めに、どうしてこの太平洋戦争が始まったのかを申しますと、日本軍が宣戦布告無しに真珠湾(パールハーバー)という所に爆弾を落としたのが始まりです。いきなり爆弾を落とされたアメリカは当然怒り、日本軍は勝った勝ったと大喜びしました。この奇襲によるアリゾナ駆逐艦「ユタ」の残骸が今でも一部現れているそうです。又、千人余りの遺体が引き揚げられる事無く残されているとも聞きました。いかに多くの悲惨な事が日本及び全世界を覆ったことかと考えられます。その後、アメリカはどんどん日本を攻めてきました。当時の日本には鉄、金、などの資源が全くありません。それに食糧も底をつき貧乏になってしまいました。
昭和二十年当時は、男子はみんな兵隊にとられ、若い女性も軍需工場にとられて戦争のため何もかも、「足らん足らん」の生活が続く毎日でした。重湯のようなご飯。イモやかぼちゃの入ったご飯。食べる物も着る物も無い無いづくしの世の中で、「欲しがりません。勝つ迄は」と言い聞かせ我慢したものです。玄米を少しだけ分けてもらい一升ビンに入れ、棒でつついて、もみガラを取り、わずかなお米に沢山の野菜を入れたご飯。食べ盛りの子ども達は大変だったと思います。現在の様な白ごはんは、とんでもなく、それでも不平は言わず頑張ったものでした。着のみ着のまま。お縁の雨戸も開けっ放しで、空襲、空襲の毎日。防空壕には大事な荷物を持ち、その頃25才の私は、幼い子どもをおんぶして、みんな必死で「勝つ迄は。勝つ迄は。」と言いきかせての毎日でした。「いよいよ召集がくるとばい。」と皆、案じていました。召集令状といって40才迄はくるらしいと話していました。私の夫は35才にきました。出征兵士の家と書いた紙を玄関の表札の横に貼られるのです。当時は大変名誉な事で今考えますとその時の気持ちは複雑でした。「死して帰れ。君(天皇陛下)の為。」など寄せ書きに書いてありますが、本当に当時は戦争に行くのを喜んだものです。変ですね・・・。
みんなに集ってもらい寄せ書きを書いていただき、また、千人針といって鉄砲の玉に当たらないよう願いを込めて千人の方々から一枚の布に玉どめを作ってもらいその布を身につけてお守りにしたり、とにかく無事を祈りました。このボロボロの寄せ書きは、海水につかった為、傷んでしまいました。召集を受けるとみんなから「万歳!!万歳!!」と送られ、陸軍として出征しましたが、上の都合で海軍に配属されました。夫がのった船は戦艦「喜備津(きびつ)丸(まる)巡洋艦」。大きな船の先頭高射台には、人員8名が配置され、敵の戦闘機を撃つ役目でしたが、散々やられてしまい、逃げる所がなく、4人が海に飛び込んだとか。ところが、飛び込んだ海には人や馬の死体が沢山浮かんでいて、もまれ、もまれて運良く日本の海軍の船から助けられたそうです。その時、身につけていたのがみんなから書いてもらった寄書きで、今ではうちの宝物です。不幸にも泳げない者は沈んでしまいましたが、私の夫は、水泳が人より達者だったのが幸いして、九死に一生を得ました。その海は、フィリピンのマニラ海でした。昭和18年1月3日の事です。
その二年後の昭和20年8月9日の11時頃、B29が諫早市上空を通過しました。偵察機が来たのかなと思ったら、ピカーっっ!!と閃光が走り、光ったと思いきや、ドカーンッッ!!と大きな音がしたんです。空は曇り、夜の様に真っ暗になりましたが3時間程で元に戻りました。長崎から35キロも離れている諫早に夕方6時頃、灰がチラチラ降ってきました。「さぁ大変!!長崎がピカドンにやられて大変だ!!」と慌てて防空壕に走ったのを憶えています。夏休み中だったので生徒のいない学校に負傷者が次々と収容されました。班長や婦人会役員等、会員であった私も召集され、沢山の毛布や布団等をリヤカーで何度も運んだり、おにぎりや梅干の用意を手伝ったものです。収容された学校の教室には見るも哀れな負傷者で一杯でした。小さい女の子が「母チャン。母チャン。」と母親にすがりつくのですが、その母親もひどく負傷しており、髪は焼けちぢれ、おまけに身重の体に、すがりつく女の子を手で払いのけるのです。ヤケドの跡も痛々しく、手のほどこしようもありませんでした。私たちは、薬を塗ってあげる事しかできず、これといった薬もなく、何やら黒い液を筆の先で塗るだけなのです。同じ部屋に、5~6年生位の男の子がゴロリと寝ていました。頭に服をかぶっており、「お水飲む?」と聞いても首を振るのがやっとです。そっと服をとってみると、なんと耳の穴からウジ虫がモゾモゾ動いているではありませんか。声にはならないくらい驚き、私はそっと割り箸でうじ虫を取ってあげましたが、その時の感情は今だに忘れ得ません。そのほかにも、朝鮮の男性は腰のあたりの傷口から腸が10センチ程とびだしているのです。これにはお医者さんも首をかしげておられました。教室の入口には「(1)軽い」「(2)ひどい」「(3)死者」と書かれた紙が貼ってありました。その「(3)」の教室は死者で一杯でした。ふと見るときれいな娘さんの頭が半分切れていたのです。自分の目を疑いました。その娘さんの母親と思われる人がみえられ、その娘さんを抱きかかえ泣き崩れておられました。今思い出しても胸が痛みます。こんな悲惨な事が起こっていても無情にも、敵機はまだ来るのです。動けない負傷者を気使いながら外に出て地面に伏せ私達は身の安全を守りました。本職の看護婦さんと交替して家に帰りましたが、一晩中、眠れませんでした。翌日、学校に行きましたが、昨日見た女の子も、頭が半分切れていた娘さんも、ウジ虫がわいていた男の子も、腸がとびだしていた朝鮮の男性ももう、部屋にはおらず、また、違った負傷者で一杯になっていました・・・。
8月15日。12時のラジオ放送を聞くようにと町内より連絡がありました。茶箪笥の上に置かれた小さいラジオにむかって、皆、かしこまって聞いておりました。ラジオは雑音が入り聞こえにくく、玉音(ぎょくおん)といって、天皇陛下のお言葉の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」との言葉だけ、聞きとる事ができました。私は、てっきり敵前上陸でもするかと思った矢先に叔父がやってきて、「戦争に負けたとばい。よかったたい。お父ちゃんも帰ってきんしゃっとばい。」と言いました。まさか日本が戦争に負けるとは思ってもいませんでしたが内心ホッとした事を覚えております。夫が帰って来た日の事を思い出しました。軍服はシラミだらけで、シラミの卵もいっぱい付いており、私はすぐ洗濯して大きな釜で熱湯消毒して外に干しておいたところ、泥棒に盗まれてしまいました。なにせこの頃は、人の物を盗んででも生活していくという、死にもの狂いの毎日で、銭湯に行った時は、特に泥棒には注意したものでした。
終戦を迎えても恐れと不安で一杯でした。「明日、進駐軍がやってくるから女、子どもは押入れに隠れる様に」との連絡がありました。やがて戦車に乗った体格の良いアメリカ兵がやって来ましたが、何事もなく通り過ぎました。それどころか、子ども達がアメリカ兵から飴やチョコをもらって、喜んでついてまわる様子を見て、なんとも言えない気持になった事を覚えています。終戦後の日本は、戦前と同じ様に食糧も、着る物も切符制で、「足らん足らん」の生活が毎日続きましたが、それが当たり前と辛抱して耐えて耐えて過ごしたものです。
65年前に落とされた原爆の事を知り、家族や皆さんと一緒に平和の為に考えてみましょう。
私の願いは永遠の平和。皆さん、戦争は決して正しくはないんだという事をしっかり知って欲しいと思います。

平成23年8月4日(戦争体験講話会にて)