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私の被爆体験(平成22年度「平和を考えるつどい」から)

ページ番号:0002132 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

榊 安彦さん(長崎市)

私が被爆したのは、今の長崎大学 ― 昔は軍需工場の三菱兵器製作所大橋工場 ― の目と鼻の先にあった家野町、これは爆心地から大体1.5kmといわれておりますが、ここの自宅の縁側にいるときに被爆しました。被爆当時は山里小学校の2年生でした。
まず、被爆前の長崎の様子からお話いたします。年配の方はご存じかと思いますが、昭和20年当時は男手がみんな兵隊にとられて米を作る人たちがいなくなり、若い女性もみんな軍需工場にとられてしまったということがあって、食糧不足が厳しくなりました。それで、老人や生徒などが動員され、道路や運動場を潰して畑を作るなどのことが行われていました。こういう状況は長崎でもありました。私どもの山里小学校では、運動場に芋畑が作られていました。そうやって戦争による食糧不足を補っていたわけです。食料だけでなく、生活物資も著しく不足していました。子どもたちはみな裸足や下駄履きで、ゴム靴はクラスに2、3足しか配給されませんでした。なぜかというと、革製品やゴム製品は軍需のほうに持っていかれてしまったために、物が足りなかったのです。生活物資や食糧が軍需のほうに持っていかれたために、このような生活を強いられていたわけです。
そういう時代の中で、原爆直前の昭和20年ごろ、米軍の艦載機が昼夜を問わずどっと押し寄せてくるようになりました。数百機の大編隊で襲ってきて、このあたりならば大村や佐世保、長崎の市内の上空を、悠々と飛んでいくわけです。高射砲や大村にもちゃんと飛行機がいるのですが、太刀打ちができないのです。私が通っていた山里小学校のすぐ近くにも、海軍が民間人から借り上げた畑に穴を掘って、機関砲を設置しておりました。陸軍は高射砲といっていましたが、海軍が造ったのは機関砲といって同じ物をさします。これは学校や住民を守るためではなく、三菱兵器工場を守るために設置されたものでした。
当時は空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕へ逃げるのが、日常茶飯事でした。僕らが飛行機をのんびり眺めるということはあまりありませんでした。敵機が来ると防空壕に避難してしまいますから。この暑い中でも防空頭巾をかぶって、毎日防空壕へ走って避難し、空襲警報が解除されると外に出て遊んでいました。当日はたまたま警報が解除されていたため、外に出て遊んでいて被爆したわけです。
8月9日、私は兄と2人の友達と一緒に、自宅の縁側で遊んでいました。私は小学2年生で、一緒にいた友達は3年生でした。小学6年生の兄と3年生の友達の2人は、縁側で将棋をさして遊んでいました。母は昼の準備のために、ジャガイモをむいていました。私と友達はほとんどくっつくように並んで座って、将棋を見ていました。そしてそのときに、バーンと来たわけです。爆発したというか、私ははっきりいって音を覚えておりません。光がピカーッとして、一瞬で何か少し黄色くなったかな、と思ったことまでは覚えていますが、そのとたんにもう気絶していました。気づいたときには7、8m離れたところに飛ばされていました。時計を見ていたわけではないので時間は分かりませんが、壊れた家の下から母が脱出してきて、私を助けてくれた時間を考えると大体10分くらいたったころかと思います。
私は母に背負われ、一緒に遊んでいた友達も母が手を引いて、一緒に防空壕へ逃げました。母も一度に2人は背負えませんので、私を背負い、友達の手を引いて逃げました。友達はやけどだったので、出血はしていませんでした。私のほうは瓦か材木かわかりませんけれども、飛んできた何かで額をえぐられ、顔は血だらけでした。血が出ていて大けがをしているように見えたので、母は私のほうを背負って、友達の手を引っ張って逃げたのです。家の裏手の山を登って逃げていたのですが、彼は足の裏までやけどしていて、もう歩けなくなっていました。それで、私の母に「おばちゃん、おいも背負うてくれんね。」とせがんだのです。しかし、母もどうすることもできず、私の方が大けがだと思っているものですから、「もうちょっと我慢せんね。」となだめて防空壕の近くの墓まで連れていったのですが、友達は翌日亡くなってしまったそうです。
母と私は山を越えて、現在の住吉幼稚園の近くの防空壕に隠れました。壕のなかには大やけどを負った4番目の姉が運びこまれていました。姉は純心女学校の3年生で、学徒動員として働いていましたが、家に帰る途中、長崎大学の前辺りの路上で被爆し、全身に大やけどを負ったのでした。私はそれを見て気持ち悪かったですよ。自分もけがをしていたのですが、自分のことはさておき、見るに堪えない光景でした。兄弟のなかで大けがをしていたのは、私と4番目の姉の2人でした。最終の救援列車がきたので、3番目の姉が4番目の姉を背負って、今の西浦上駅と道ノ尾駅のちょうど中間くらい、赤迫電停の少し先ですね、そこに六地蔵というのがあるのですが、そこから救援列車に乗りました。ところがその救援列車が動くどころか、逆にまた今の西浦上駅の少し南側の照円寺のところまで戻ったらしいんですね。そのために発車が遅れて、実際に列車が出たのは午後10時すぎでした。被爆してから時間がたっていますし、その間なにも治療を受けていないわけです。おそらく大村の海軍病院、あるいは諫早の海軍病院などに行けば治るというつもりで行ったのでしょうけれども、喜々津駅の少し手前で列車のなかで「姉ちゃん、目の前が真っ暗になった。」とふっとつぶやいて床に倒れ落ち、4番目の姉はそのまま亡くなってしまいました。真夜中だったために、諫早でも大村でも川棚でも遺体をおろしてもらえず、とうとう早岐まで運ばれていきました。列車が駅に着いたのが朝の6時頃だったそうですが、そこでやっとおろしてもらい、お寺で火葬させていただいて、3番目の姉は、4番目の姉の遺骨の入った白木の箱を抱いて帰ってきたそうです。
明けて10日、私は母に付き添われて朝から救援列車に乗って、昼頃に諫早に着きました。私は汽車に乗せられたことは覚えていますが、諫早駅まで運ばれる間のことを、まったく覚えていません。諫早駅から海軍航空隊のトラックの荷台に乗せられて、旧諫早中学校の講堂に収容されました。中学校では、炊き出しのほんとうの米のご飯を食べさせてもらいました。おそらく2日くらい食べていなかったはずですから、それの本当においしかったこと。おそらく諫早の婦人会の方たちが協力してくださっていたのだと思います。講堂に収容されたのは良いのですが、もう患者が多くてたいした治療はできませんでした。諫早中学校の不手際というわけではなくて、もうとにかくすごい数の被爆者が押し寄せてきたわけですから。そこで母は、行方不明の父が戻ってきているかもわからない、と考えたようです。というのも、私が10日に救援列車に乗ったのは、9日の時点でまだ父が家に戻ってきていなかったからなのです。母は父が帰ってくるのを待っていたはずですが、一向に帰ってこないので、先に救援列車で出発した姉たちとも、ひょっとすると一緒になるかもしれん、と私を連れて行ったのでしょう。父ももしかしたら救護所に収容されているかもしれないというかすかな期待もあったようです。ところが、3番目の姉は一人で帰ってきましたし、私のけがにしても諫早中学校には診てくれる人がいませんので、11日の朝には諫早を発ちました。ちょうど今日のような暑い日でした。甘えもあったのでしょうが、けがをしているので、中学校から諫早駅まで母にずっと背負われていきました。途中何度か敵機が回ってくるたびに道端の溝に隠れたりして、やっと諫早駅にたどり着きました。諫早駅から道ノ尾駅までの列車での記憶はとぎれていて、まったく覚えていません。道ノ尾駅から家に帰るまでの記憶はありますので、不思議なものです。ひょっとすると車内で昏睡していたのかもしれません。道ノ尾駅で降りて、六地蔵のところまで母に背負われていきました。ちょうど木陰で一休みしていると、父の昔の部下の方にばったり会いました。父は三菱製鋼で工師という立場でして、要するに現場で一番偉い立場だったわけです。私と母は長崎方面へ帰っていたのですが、彼らは用事か何かで滑石方面へ向かっていたところでした。母を知っていたらしく、「実はご主人は鎮西学院の裏の芋畑で亡くなっとって、今朝埋葬されたそうですよ。」と、それを聞いたとたん、母は私を背負ったまま、立ち上がれなくなってしまいました。放心状態だったようでした。家に帰ると、早岐から4番目の姉の遺骨が帰っていました。ですから、母にしてみれば、私を諫早の救護所に連れていったばかりに、2人の埋葬に間に合わなかったというのが、正直なところだったのではないでしょうか。小さい頃はそこまで思い至りませんでしたが、大きくなってから、自分のために母やまわりの人たちに色々な苦労をかけたかなあ、と思うこともありました。
今までお話してきたように、国が戦争状態にあると日常生活はまともに送れなくなります。戦争がなければそれがすなわち平和かといえば、そうでもないのでしょうが、もし、戦争そして原爆がなければ、私を含め被爆者の人生は大きく変わっていたでしょう。
被爆から半年後の昭和21年の2月、米軍の調査団が撮影した私の写真があります。顔半分しか写っていないのですが、顔の左半分がやけどをしているので、左側から撮られたのですね。額のけがももうふさがった状態になっています。若いときは、その傷跡が見られるのが嫌で、いつも帽子を目深にかぶっていました。自分で自分の顔を見るのが嫌で、今のような時代ならば自殺を考えていたかもしれません。しかし、さっきも言ったように、母が戦後一生懸命になって私たちきょうだいを育ててくれましたので、そんなことはできませんでした。そして、今みなさんの前に立って自分の体験をお話する機会を得たわけですから、人間は「我慢」ではなくて「耐える」ということも必要なのではないかという気がします。ですから、「長崎でこんなことがあったんだ」ということを、ぜひ何らかの形でみなさんにも語り継いでいっていただければ幸いです。