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私の被爆体験(平成19年度「平和を考えるつどい」から)
下平 作江さん(長崎市)
みなさん、こんにちは。今日は大変お暑い中、私の被爆体験を聞きに集まってきてくださったみなさんに、心から感謝いたします。
みなさんは、原爆にあった人のことをなんというかご存じですか。被爆者、被爆体験者という言葉がありますけれども、被爆体験者というのは爆心地から半径10km、12km、14kmと離れたところでも放射能がいっぱい降ってきましたので、それを浴びた人のことをいいます。被爆者というのは、爆心地の周囲2~3kmにいた人のことをいいます。これから、話の中でこの被爆者という言葉がちょくちょく出てきますので、原子爆弾にあった人のことだということを、よく覚えていてください。
私が原爆にあったのは、小学校(当時は小学校ではなく国民学校と呼ばれていました)5年生のときでした。爆心地、つまり原子爆弾が落とされたところから500m離れた城山国民学校に通っていました。太平洋戦争が始まったのは、私が1年生のときです。日本がアメリカのハワイにある真珠湾(パールハーバー)に奇襲攻撃を行ったのをきっかけに始まったのです。日本は、宣戦布告もしないで突然行って爆弾を落としたのですから、アメリカの人はとっても怒りましたが、私たちは「戦争に勝った!勝った!」と喜びました。「悪い国であるアメリカを、神様に代わってやっつけたのだから、正しいことをしたのだ」と、私たちは声を出して喜びました。
ところが、ご存じのように、資源がなにもない日本です。ガソリンもなければ、鉄もありません。日本はどんどん負けていきます。爆弾をつくらなければならないのに鉄がありません。「お前の家にはご飯を炊く釜があるだろう。その鉄を出しなさい。」または「お前のお母さんがはめている指輪を出しなさい。」ということで、家の中からあらゆる金属が消えていったのです。
いちばん辛かったのは、今みなさん方が当たり前のように食べていらっしゃる白いご飯を食べることができなくなったことでした。戦争ですから、お金が全部戦争のほうへ行き、私たちがみんな貧しくなってしまったのでした。では、何を食べていたかというと、豆かす、つまり大豆の油を取ったあとのかすです。これは馬や牛の餌にしかならないようなものです。あとはふすま、つまり小麦粉を取ったあとのかすです。これはニワトリの餌だったものです。戦争になると、今みなさんが食べていらっしゃるようなおいしいご飯は食べることができません。おいしいお魚も食べることができません。それはなぜかというと、おかあさんやおじいちゃん、おばあちゃんが田植えをしていても、敵機来襲の度にすぐに防空壕に逃げなければなりません。そうすると田植えができなくなります。せっかく少し作った苗が大きくなってお米ができても、それはお国のために戦っている兵隊さんへと送らなければならなかったので、私たちの食べ物がなくなってきたのです。
「ねえねえ、母ちゃん。白かご飯が食べてみたか。」「真っ白いご飯やったら、おかずもなんもいらんばってんね。」というと、母はお友達のところから少しだけお米を分けてもらってくれました。白いご飯が食べられると喜んで、私たちは一升瓶に玄米を入れて棒で突いて脱穀しました。母はこれをみんな食べてしまうと、明日食べるものがなくなってしまうから、3回に分けて食べるといいました。1食分はお茶碗1杯くらいでした。それを6人で分けあって食べなければなりませんでした。それでも白いご飯だと思うと嬉しかったです。大根がいっぱい入って、大根のそばに少しご飯粒がくっついているだけでした。私たちはまず大根からご飯粒を取って、まずい大根だけを先に食べてしまって、お茶碗の底に少しだけ残ったご飯粒を1粒ずつ口の中に入れて、いつまでもいつまでも噛みしめて飲みこむことができなかったです。それが私たちの食事でした。重湯のようなご飯か、お粥か、芋がいっぱい入っているか、そういうものが一番のごちそうでした。
食べる物がなく、着る物がなく、ノートがなく、鉛筆がなく、履き物もありませんでした。だから私たちはみんな裸足で学校へ行かなければなりませんでした。私たちの城山国民学校は、1年生から6年生まで2,000名の子どもが通っていました。そのほとんどの子どもたちが裸足で通学しなければならなかったのです。おじいさん、おばあさんがわらぞうりを作ってくださったんですけれども、すぐだめになりました。今度は作り方を教えてもらって、自分たちで作るようになりました。それでも私たちは「欲しがりません、勝つまでは」といって我慢しました。
お父さんもお兄さんもみんな「お国のために戦ってきます」という言葉を残して、戦争へ戦争へと行きました。私の兄は、学校の先生をしていたんですけれども、先生をやめて「僕はお国のために戦ってきます」という言葉を残して戦地にいきました。母は、「あなた一人が行ったってしょうがないのだから、学校の先生をしていなさい」と止めたんです。しかし兄は、「いや、男しか戦地には行けない。先生は女の人でもできるから、僕は行きます。」といいました。「僕が戦死したらひょっとしたらお骨は戻ってこないかもしれない」と言って、指を出して爪を1本ずつ切りました。10個の爪を小さなマッチ箱の中に入れ、「お骨が戻ってこなければ、これをかわりにお墓に納めてくれ」といって出征したのですが、すぐに戦死してしまいました。特別攻撃隊といって、アメリカの軍艦が日本に向かって爆弾を投下しないように、18歳から19歳の若者はその軍艦に向かって突進するのだそうです。けれども日本は燃料が不足していたので、目的を達成することなく、途中でくるくると回りながら、海の底へと消えていくしかなかったのです。だから戦死をしても、お骨は戻ってきません。
「息子さんが戦死したのでお骨を取りにきなさい」という知らせが役所からあり、母は兄のお骨をもらいに行ったのですが、たくさん箱が並んでいたそうです。やっとわが子のお骨を探し当てた母は、しっかりと自分の胸に抱いて持って帰ってきました。私たちも、手を合わせて「兄ちゃん、ようがんばったね」と声をかけました。箱のふたを取ってみてびっくりいたしました。お骨と信じ、手を合わせた箱の中は、お骨なんか入っていなかったのです。ただ小さな板切れに兄の名前が書いてあったきりです。どこのお兄さんもお父さんもみんな板切れとなって帰ってきたそうです。これが戦争なのです。お父さん、お兄さんもみんないなくなってしまいました。姉の夫も戦死してしまい、姉は1歳の子どもを連れて帰ってきて一緒に暮らしていました。二番目の兄がお医者さんになるために、長崎大学の医学部に通っていて、私たちはその兄だけが頼りだったのでした。
戦況が悪化し、学校に行っても爆弾が落とされるので、勉強をする時間がなくなってしまいました。アメリカの飛行機が爆弾を積んで、ゴォーっと上空にやってきます。先生が「敵機来襲!早く防空頭巾をかぶって、校庭に集まりなさい!」といい、綿がいっぱい入った帽子をかぶります。爆弾が落とされますと、家がみんなこっぱみじんに壊れてしまいます。その破片が頭に当たるとけがをしてしまいますから、そのけがが少なくてすむように、綿がいっぱい入った帽子をかぶるのです。今日みたいな暑い日は汗がたらたら流れます。でもみんな我慢をして運動場に集まります。6年生は1年生の子どもの手を引き、5年生は2年生の子どもの手を引いて、防空壕に逃げていかなければいけません。一生懸命逃げるのですが、B29がやって来て、爆弾をヒュー、ドーンと落としていくわけです。そうしますと、お家がぶわっと崩れて、ものすごい爆風が吹いてきます。目の玉がぽろっと飛び出てしまうほどの爆風です。爆発音で鼓膜が破れて耳が聞こえなくなることもあります。子どもも大人もみんないっせいに、目の玉が飛び出ないように、4本の指でしっかりとまぶたを押さえ、耳が聞こえなくならないように親指で耳の穴をしっかりとふさいで、ばっと道路に伏せるのです。すると先生の声が聞こえてきます。「口を大きく開けておきなさい!」とおっしゃるんですね。なぜかというと、目を塞ぎますでしょう、耳も塞いでいますね。それで口まで閉じていると、爆風が来たときにお腹がやぶれてしまうんです。だから、口を大きく開けて、「はっはっはっ」と息をしていなければなりませんでした。砂ぼこりが舞いあがって口に入っても、じっと我慢していなければなりませんでした。みなさんだったらどうしますか?我慢できずに表に飛び出してしまうかもしれませんね。そうすると、飛行機が旋回してきて、低空飛行しながら機銃掃射を浴びせられます。先生が慌てて子どもを助けようとかばいますが、その上にも機銃が撃ち込まれ、死んでいかなければなりませんでした。爆撃をさけて、城山小学校の2,000名いた生徒のうち500名ほどが田舎に疎開してしまいました。
そのころ、アメリカは原子爆弾を3発つくっていました。1発をニューメキシコというところで実験しました。実験をしなければ、爆弾の効果がわからないからです。ところが、人間に対しての実験をしておりません。それで、人間で実験をしようということになりました。原子爆弾はあと2発残っています。残りの2発をどこに落とそうか、ということになったのでした。最初は新潟、京都、広島、小倉が候補にあがりました。2発しかありませんから、候補を2つに絞らなければいけません。
一方、東京では、東京大空襲といって、たくさんの爆弾が落とされました。空襲で親を亡くした子どもたちは孤児になり、ガード下などで生活せざるをえなくなりました。日本という国には、お年寄りと、子どもとその母親たちばかりになってしまいました。原爆が落とされたのは、まさにそんなときでした。
1945年8月6日、世界ではじめて濃縮ウランを使った原子爆弾が広島に投下されました。そのとき、空襲警報が解除されていたので、みんな防空壕から出ていたのでした。防空壕の中に入っていれば、被害はもっと少なくてすんだかもしれないと思うと、残念でなりません。そのときはみんな、原子爆弾という言葉を知らなかったので、新型爆弾と言われていました。私と妹は「新型爆弾が広島に落とされたそうだ。空襲警報が解除になって落とされたらしいから、お前たち、警報が解除になっても防空壕から出るなよ。」と兄に言いつけられました。
1945年8月9日朝早く、まだ暗いうちに、ウーッとサイレンが鳴りました。「空襲警報発令!早く防空壕に逃げなさい!」私たちはいそいで外に飛び出して、私は8歳の妹の手を引いて、1歳の赤ちゃんをおんぶして、爆心地から800mほど離れているいつもの横穴に走りました。しばらくすると「空襲警報解除、空襲警報解除」という声がしたのです。みんな喜んで、解除になったぞと、壕の外に出ていきました。私ももちろん出ていたのですが、妹が「空襲警報解除になっても壕から出るなって兄ちゃんが言ったけん、入っとこう。」と言うので、戻ったのです。そして11時2分、ピカーッと光りました。光った、と思ったらものすごい爆風が、台風みたいな風が防空壕の中に吹き込んできました。私たちはぽーんと吹き飛ばされて転がり、岩に叩きつけられて気絶してしまいました。どのくらい時間がたったのか分かりません。「しっかりしろ、しっかりしろ」と頭をたたかれました。気がついたらびっくりしました。誰もいないはずだった大きな横穴の中に、真っ黒に焦げている人とか、肉がぼろぼろにちぎれている人とか、目が鼻のところまでぶら下がっている人とかがたくさん、みなさん方と同じくらいの子が、「助けてくれんね、助けてくれんね」と言いながら入ってきました。私はびっくりして立ち上がったんですけれど、がたがたがたがた震えて動くことができませんでした。そのとき壕に戻った私たちだけが助かり、外に出て行った人たちは全員真っ黒になったのでした。あまりのひどさにがたがた震えました。73,800人という人が亡くなりました。城山小学校も、1,500名いたお友達が1,400名近く亡くなりましたがら「母ちゃん、早く助けに来て」と泣き叫びましたが、誰も助けに来てくれなかったのです。
やっと翌日、防空壕の外に出してもらいました。防空壕の中は死体でいっぱいになって臭くてたまらなくて、げぇげぇ吐きながら母を待ったのですが、やはり母も姉もだれも助けに来てくれませんでした。私は妹の手を引き、1歳の赤ちゃんをおんぶして、「母ちゃーん、母ちゃーん」と焼け野原を探しました。たとえ私たちが呼ぼうと叫ぼうと、「ここにおるよ」「お母ちゃんはここだよ」という声は聞こえてきませんでした。私たちは一生懸命「母ちゃん、母ちゃん」と泣きながら家を探したんですけれども、みんな何にもなくなって、焼けてしまっていました。浦上川ではたくさんの人が「水をください、水をください」と泣きながら手をさし伸べています。しかし、水を持っている人は誰もいませんでした。やけどをしているけれども、とにかく水がほしいので、しかたなく崖を這いおりて、やっと川にたどり着いて水を飲むんですけれども、水を飲んだらそのまま死んでいくんです。浦上川には死体がいっぱい浮いていました。川底に沈む死体もありました。ぷかぷかと浮いてそのまま大波止まで流されていく死体もありました。
私たちはおそろしくなって、一生懸命家を探していましたが、瓦礫の下から門が崩れ落ちているのが見えたんです。「ああ、ここがうちん方やないね」と言いながら、瓦礫が燃えてしまっているので、熱くてたまらなかったんですが、一生懸命払いのけました。瓦礫の下からは真っ黒こげの死体が出てきました。「だれかね。母ちゃんかね。姉ちゃんかね。」と言いながら、私たちはその死体を1、2の3でひっくりかえしました。その死体はいつものように顔を手でかくして伏せて死んでいました。だからその焼けた手をはずしてみました。ぽろぽろと崩れた手の下から、少しだけ焼け残った顔が見えました。「ああ、姉ちゃんだ。」それしか言葉がありませんでした。(ああ、姉ちゃんが死んでる。どうしよう。そうだ、母ちゃんはどこにいったんだろう。)私たちは母をさがしました。道路には黒こげの死体が転がっていてだれか分からないんです。母ちゃん、母ちゃん、と泣きながら探しました。真っ黒こげの死体は2つありました。そのうちの1つは、金歯が1つありました。私の母は金歯が1つあったので、ああ、これが母だと思って、母ちゃん、母ちゃんといいながら、その死体に手をふれました。その拍子に、死体はばらばらばらと崩れていきました。ああ、どうしよう、と後ろをふりむくと、後ろをついてきていると思っていた妹がいないんです。どこにいるんだろう、と見てみると、妹は姉にしがみついて泣いて動けなかったんです。「はよ来んね、母ちゃんが見つかったけん。」と言ったんですが、妹は泣いて動くことができません。と、そこに飛行機が来ました。敵機来襲です。昨日、新型爆弾を落としておいて、こんなにたくさんの人を殺しておいて、また飛行機が来たぞと、声がしました。私は妹の手を引いて、2人で防空壕へ戻りましたが、防空壕は死体でいっぱいで入れませんでした。しかたがないから外でがたがた震えて、だれかがきっと助けに来てくれるのを信じて待ちました。10日の夕方、自分の名前を呼ぶ声に行ってみると、医学部に行っていた兄が助かって帰ってきました。兄ちゃんは助かってよかったね、と言いあっていたんですが、何もしていなかった兄も、「死にたくない、死にたくない」といいながら、氷のように冷たくなっていきました。「兄ちゃん、死んだらつまらんやがね。うち達ばっかり残して死んだらつまらんやがね。」と言ったんですけれど、死んでしまいました。
3人だけ生き残って、どうしようと思っていましたが、そこに田舎の叔父が助けに来てくれました。そこで田舎に連れて行かれて、3人バラバラに親せきの家にあずけられました。間もなくしましたら、髪の毛がみんな抜けてしまいました。鼻血がたらたら出て、歯茎からも血が出ました。便に血が混じるようにもなりました。それでもなぜそうなるのかお医者さんすら分からなかったのです。放射線というのは色もにおいもありません。これが放射線ですよ、とみなさん方にお見せすることはできないんだけれども、そのわけの分からないものが、私たちの体に入ってきたときに、髪が抜けてしまって鼻血が出てきたのです。そうすると「なんや、わいは。汚かね、髪の毛のなくなってから。」「あれは伝染病だぞ。みんな近寄るなよ。」と言われてしまいました。私たちは好きで被爆者になったのではありません。戦争が起こり、原子爆弾が落とされたから仕方なく被爆者になって、やっとの思いで助かったんです。けれども、今度はみんなからいじめられ、私たちも田舎にいるとみんなにいろいろ言われるので、叔父が面倒を見てくれるから長崎に帰ろうということで、昭和20年の末に長崎に帰ってきました。
家も何もなくなってしまいましたが、私たちは生きていかなくてはなりません。焼け残ったものを拾って、城山国民学校の近くに小屋を建てました。周囲はお骨でいっぱいでした。夜になるとお骨からぼうっぼうっと火があがりました。雨になると火はたくさんあがりました。私と妹はこわくてがたがた震えて、涙がぽろぽろ出ました。近所に脚の吹き飛んでしまった朝鮮人のおばさんがいました。そのおばさんの「アリラン、アリラン、アーラリーヨ」という歌が聞こえると、私と妹の目からは涙がポロリと出てきて、いないと分かっていても「母ちゃん」とつい言ってしまいました。「母ちゃん、助けに来て」と。でももう母は死んでしまっていますから、私の声は届きません。城山小学校は閉鎖になっていましたので、私達は山里小学校に転入しました。私が6年生、妹が4年生です。多くの子ども達が親を殺され、住むところがないので、橋の下などで暮らしていました。食べるものもありませんので、学校から帰ったら、ごみ箱から食べ物を探さなければなりません。親を亡くし、自分たちで生きていくのは、本当につらいことでした。
進駐軍が上陸してきて、私たちの小屋の前をバリバリとお骨を粉々にしてならし、鉄板を敷いて飛行場にしました。アメリカの兵隊さんは「お前たち、このことを誰にもしゃべってはだめだぞ」といいました。これをプレスコードといって、原爆の被害については6年間だれにも話してはいけないことになったんです。(※プレスコード…GHQ占領下に出された言論統制のための規則。あらゆる報道機関において連合国総司令部を批判することを禁止した。)
そうして私たちは学校から帰ると、アメリカの兵隊さんが大きな穴を掘って残飯を捨てますから、それを急いで拾いに行って分けあって食べました。病気になっても、お金がないので病院にかかることができなかったのです。妹は苦しんで、体が腐っていきました。うじ虫もたくさん湧きました。電灯も何もない暗闇の中で、ぐちゅぐちゅと音がします。うじ虫が妹の肉を食っているのです。「姉ちゃん、うじ虫がうちの肉を食いよるけん、取ってくれんね」と言いますが、昼間なら取ってあげられますが、灯りがありません。真っ暗闇で取ってあげられなかったんです。「我慢せんね、夜が明けたら取ってやるけん。」夜が明けて、立ち上がって妹の足を見ると、一晩中妹の肉を食べたうじ虫は丸々と太って、ぽたぽたと足元に落ちました。私たちは頑張って生きていこうと、約束をしましたが、妹は苦しんで、「姉ちゃん、こげん苦しむとやったら、お母ちゃんのところに行こう」と泣きます。「だめだ、せっかく生き残ったんだから、頑張って生きていこう」と私がはげますと、「うん、頑張らんばつまらんね。」と言っていた妹も、とうとう貧しさに負けてしまいました。
ごみばかりあさって、缶詰めの缶を拾ってきて、缶に残っている食べかすを食べて生きていかなければならない生活に負けて、妹はとうとう帰ってこなかったのです。どこへ行ったんだろう、と探してみたら、「おーい、若か女の人が列車に飛び込んだぞ」という声がしました。妹が帰ってこないので、大人の人の後ろに私もついて走って、大橋の線路のところに行ってみました。びっくりしたんです。お腹が腐って、うじ虫が湧いています。顔は大きくぐじゃぐじゃに崩れて、腕と脚は切断されて、どういう風にしていったのか分かりません。「あっ、妹です。」と叫びました。「どうして妹と分かるとや。」と聞かれたので、「お腹にうじ虫の湧いているのが妹です。妹が帰ってこないんです。」と答えました。その頃は1日に4人も5人も列車に飛びこんだのです。なぜかというと、お父さんお母さん、友達もみんないなくなって淋しくて苦しくて、「死んだほうがましかなあ」と多くの人が思ってしまったからです。そうやって、妹も列車に飛び込んで、ぐじゃぐじゃになって死んでいきました。「なぜ死んだの、なぜもっと頑張らなかったの。」と声をかけました。市役所の人が箱を持ってきてくださいました。私は妹をしっかりと抱きかかえて、箱におさめました。私の服は妹の血液で真っ赤になりました。警察の人がいっぱい来て「なんや、この死体は。よっそわしか。腕のなかやっか。脚はどこさ飛んだとや。」といいます。私は線路を行ったりきたりして、妹の脚を1つ、2つ拾い、腕を1つ2つ拾って箱におさめました。リヤカーに乗せて、一人でとぼとぼと稲佐山の下の火葬場に連れて行きました。
一人ぼっちになってしまいました。「もう生きていけない。そうだ、私も死のう」と思いました。ポーッと汽笛が鳴って、シュッシュと蒸気を上げて疾走してくる列車の前に立って、私も死のうと思ったのですが、「そうだ、私が死んだらだれもお墓に花を上げてくれる人がいなくなるな」と思ったのです。みんな戦争で死に、原子爆弾で死に、そして私だけが生き残った。「私がここで死んだら、誰もお墓に花を上げる人がいなくなるなあ」と思ったんです。「ならば生きていこう」と思いました。死ぬ勇気、生きる勇気、両方とも勇気がいりますね。「死んだ方がいいかな、いや生きていこうかな」というギリギリのところにいるわけです。妹は残念ながら、貧しさや病気に負けました。そして、死ぬ勇気を選んでしまいました。私は、「私がここで死んだら…」と思ったとき、「いや生きていこう」と生きる勇気を選びました。「今は生きていてよかったな」と思います。
みなさん方も、きっと苦しいときが来るでしょう。悲しいときが来るでしょう。さびしくてさびしくて死んだ方がマシかな、と思うときが来るかもしれません。そんなときは、思い出してください。「たくさんの人が原子爆弾で亡くなったのだから、その人たちの分まで生きていこう」と、生きる勇気を持ってほしいと思います。「生きていればきっと幸せが来るんだ」ということを信じて命を大切にしてください。命は地球よりも重いと言われています。地球は抱えることはできません。それほど重い命です。みなさん方ひとりの命ではなく、みんなここにいるお友達と一緒の命です。お父さんお母さん兄弟の方たちもきっとみなさん方と同じ命ですから、絶対に死ぬことはやめて生きてほしい、どんなに辛くても悲しくても生きてほしい、と思います。
「戦争さえなければ、原爆さえ落とされなければ」ということを10歳からずっと思い続けて、今でも忘れることのできないこの苦しさは、私たちで終わりにしてほしい。みなさん方がこの平和をいつまでもいつまでも守っていっていただきたい。「平和ってなんだろう」と思う方がいらっしゃるかも知れませんが、私はこう答えます。平和とは、人の痛みの分かる心をもつこと、優しい思いやりのある心をもつこと、人の立場になってものを考えることです。「もし僕がこうだったら、私がこうだったら、きっと苦しいだろう、ならば、相手の人も苦しいかもしれないな」と、優しい思いやりのある心を持って、助け合って生きてほしいと思います。
戦争は最大の差別です。その差別をなくすには、自分の周囲からいじめをなくして、優しい思いやりの心をもって、手をつなぎあって、世界中の人と仲良くしていってほしいと思います。そして長崎を最後の被爆地にしてほしい。「もし戦争が起こって、核兵器の発火ボタンを押されたなら?」「みなさん方もお父さんお母さん、先生たち、お友達、と別れてしまって、全部死んでしまって、自分だけ生き残ったらどうなるかな?」と考えてみてください。そんなことはいやですよね。戦争のない、核兵器のない素晴らしい世の中を、平和都市宣言にもあったように、自分から一生懸命頑張って平和を築いていってほしいと思います。
私はアメリカやドイツに行きましたが、みなさん原爆のことを知りませんでした。ところが私の話を聞いてくださったみなさんと同じくらいの年のお友達が、涙を流しながら、「I am sorry.アメリカがそんなにひどいことをしたとは知らなかった」とおっしゃいました。先日スペインのゲルニカというところにいったときも、そこもドイツにやられて、みなさんと同じくらいの子どもさんも無差別に殺されてしまったんです。しかし、ドイツの人は謝ったそうです。しかし、アメリカの人は謝ってはくれません。「私たちは正しいことをしたんだ」と言いますね。でも「戦争は正しくはないんだ」ということをみなさん方はしっかりと知っていてほしいな、と思います。今日は、私が10歳のころに味わった話、今でも忘れることのできないことをお話させていただきました。二度と私と同じ苦しみを味わわないように、お父さんお母さん、先生方、お友達を大事にして、すばらしい平和な世界を作っていってくださいとお願いして、私のお話を終わらせていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。