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水は与えられない

ページ番号:0002128 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

川原由基子さん(諫早市東小路町)

家が強制疎開となり、本町から東本町へ空襲警報をぬっての引越が終わり、当時、私は10時頃から福田町の知人宅へ買出しに出かけていた。警戒警報も解除になったので、畑でいろいろ探索してる折、一機の飛行機が「零戦かしら、爆音がいささか違うようだが」と見上げたとたん、山の向こうに平月形を描いて、異様な光、おもわず目を閉じたくらいだった。そして、急に長崎方面が無気味な空模様、これは只事じゃないと、そこそこに家に帰り着く、町内の人々も「ドスン」という音と空模様を見て、恐れと不安に、おののいていました。夕方になって、長崎に大型爆弾が落ち全滅状態で怪我人も多数で諫早に死者共々運ばれてくる由。当時、蓄音器店の我家にリヤカーがあったので、父は早速、運搬係に出かけ、母は隣保班長宅へ集りがあって、浴衣・サラシ等包帯がわりになる物と、カマドの灰を水につけ、その上水(一晩おくと、澄んできれいな灰水になる)が火傷に効くからそれらを用意して、明日からの看護に役立てるようにとの指令を受けてきて、バケツのあるだけに作った。空襲警報の合間々に。10日朝早くから病弱な母に代わって、用意した物を持って、班のおばさんの3、4人で諫小(今の)へ出かける。昨夜から次々と運ばれて来た怪我人の凄まじさ、被害の大きさを耳にする。割当の部屋へ入った途端、鼻をつく異様な悪臭と床上に寝かせてある方々の今まで見たこともない、焼けただれ、膨れあがり硝子の破片の突き刺さったままの身体・手・足、あまりの酷さに身体が、がたがた震え出す始末。「水をくれ、水を飲まして、水を飲まして、苦しい・痛い・口惜しい・お母さん」、家族を呼ぶ声でいっぱい。でも水は絶対飲ましていけない(死ぬから)との指示だったので、ただ「我慢して、助かるためですよ」と、うろうろして手を下すすべもわからない。挺身隊の幹部でもしておられたような女の人が、片手は血のにじんだタオルで吊り、顔には焼けちぢれた髪の毛と血がくっつき、右足はハダシ、左足は火ぶくれと血で固まって、靴もぬげないのに全身の力をふりしぼって、母を求めて泣き叫ぶ子供を託して、「皆様よろしくお願いします」と。それで、私も「よし、できるかぎりの手伝いと看護を」と決心し、指示を受けたとおり灰水を洗面器に取り、小さく裂いた布に浸し、火傷の場所に当ててやるが、硝子の破片が、あちこち、突き刺っているので、痛がりようが酷く、火傷の部分も難しい。手を取って、「死んでも良いから一口水を」とせがまれ、指示の方に聞き返しに行っては叱られ叱られ、辛い思いで一杯。若い娘さんの背中からおしりにかけて、硝子の破片が突き刺って洋服もずたずた(モンペ)、泣きながら、うなりながら、「お母さん、お母さん」と呼びながらトイレに立たれ、手を貸して抱きかかえると、身体がビシャゲそう。私もともに涙しながら立ったまま用足しさせる。その合間にも、次々と断末魔の一声、痛い、苦しい、無念の涙を流しながら息絶えた方を運ぶ警防団の方が行き交う。左右前後に横たわってる人に頭・顔・手・足と火傷に湿布をしても、次々と忙しく布を替えては、当て替えて行く。食事は交替でしたが、このような中、喉に入るどころじゃなく、腐れの臭いに悩まされどおし。夕方6時に家に帰り警報の合間8時頃、懐中電灯を持って行ってみたものの、呻き声と悲痛な叫び声におびえて、看護できず、11日(2日目)朝早く出かける。一晩のことで今度は傷がただれ、腐れたところに、ウジがうじゃうじゃ頭の中・首にお腹にと、それがチクチク刺して痛いらしく、呻きどおし、「水、水」の声、あちこちから。すぐに小さなカンが用意される。もう湿布じゃなくて、割箸でウジを一つ一つ取ってやるが、暑さと腐れで、取っても取ってもという始末。自分もゲエゲエしながら、摘み取って回る。運ばれた食事を少し食べた人もあったが、ほとんどの人は、弱りかけ、戸板に乗せられた人もますます多くなる。身内に引き取られた人もあって、昨日よりは、ぐっと少なくなっていたが、ウジ取りと団扇で風を送って、少しでも楽にしてあげようと汗みどろ。朝鮮の大きな男の人が全身真赤に焼けただれ、丸裸で仰向けに寝たまま、高熱と苦しさにわからぬ叫び声で目をむいて息絶えられた。「頑張って下さい。水は我慢して」と言い聞かせながら額に濡れタオルを当ててやるが、熱と火照りと暑さで、瞬く間に乾く。ウジも何百匹取ったでしょうか。身内の名前を聞き出しては、連絡所へ何回も走った。早くわかりますようにと念願しながら。合間の警報も無視して、汗だくの看護も大変です。お互いにお喋りする人もありません、必死でした。戸板が走る、医者が走る、熱のための冷し方、ウジ取り、団扇使いの2日目。虚ろな目、腫れ上がり、色の変った唇から「ありがとう・・」と。でも「一口水を」の声が辛い。こんなに苦しみ、欲しがる人に飲ませてやったらと、しきりに思ったものだった。口を湿してやるのもいけないという指示でしたから本当に可哀想でなりません。高熱で意識の薄れていく人を冷し続ける、痙攣あり、医者も回り切れない有り様。3日目の12日は、人数もグッと減り、諫小の元の講堂へ移される。引き取る人も無く、面会の方も無し。おそらく家族も被災されたのでしょうか、名前を呼び呼び探し求め、弱りが目立つ身体は、熱と暑さで腐れるばかり、焼けただれの汗が敷(し)いてあるゴザにも流れていた。ウジだけが増え続ける。身内の人、医者、看護人もともに苦しみ頑張るが、手の下しようがない。ブヨブヨの腐れに湿布もできず、ウジ取りをしてるうちに、私も夜から発熱して、家に帰りモンペを脱ぎ捨て、15日の終戦も床の中、2週間寝こんだ。「ありがとう」と、苦しい中から感謝して亡くなった人、無念さいっぱい悲しさいっぱいで亡くなった人、身内に会えず寂しくお母さんを呼びながら亡くなった人、こんな生き地獄が今後ありませんことを願ってやまない。