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被爆救護の思い出

ページ番号:0002127 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

原シメさん(諫早市幸町)

その時、私は江の浦の妹の家に用事で行っておりました。食事の用意の手伝をしようと思い米を洗っている時、「ピカー」として「ドカン」と音がし、破れ障子もガラスもびりびりとしたのです。子どもたちが外で4、5人遊んでいたので、妹がびっくりして座敷に上げ、布団を被せました。しばらくすると灰がジャンジャン降って来て、大学の処方箋と書いてある紙や、かすりの着物のきれっぱしが芋の葉の上に降りかかるので、それを拾いに行って手で触るとそれはバラバラと灰になってしまうのです。しかし触りに行った時は、紙は紙の形をしているし、かすりは布の形をしていたのです。
翌日、妹と二人で朝早くまだ暗いうちに石原を出ましたけど、アメリカの飛行機が山すれすれに飛んで来て恐ろしくて木の下に隠れたり、家の軒下に入れてもらったりして歩く間もありませんでした。ようやく山下という所でそこにきれいな山水の出る所があったのでそこまでたどり着きました。そこに、石に腰をかけたお腹の大きな女の人がおられました。その人は長崎はみんな焼けてしまい私はこんな身体で早く逃げろと言われ夜どおし歩いて来たとのこと、今日は日見トンネルも通れないようになっていると話して泣いておられ大変驚きました。
私たちもやっと歩いて諫早に着きましたが、ここは異常が無くてほっとしていましたら、班長の松本さんが来られて、ばあちゃんは梅干集め、妹は握り飯炊き、私は看病に行くよう言われ、私は国民学校の講堂に行きました。
講堂の中は足の踏場もありませんでした。そしてみんなが、「水、水」と怒鳴るけど水はやってはいけないと言われました。
太った男の人が便所にと言われ、廊下を片田永屋の娘さんだったと思いますが、二人で肩にすがらせて連れて行ってやりました。前はドンゴロスの○通の前掛をしておられたので見えなかったけど、後ろをひょっと見て頭から血がスーと引く思いをいたしました。背中からお尻までいっぱいに、もうそれこそ「がんづめ」でかいたようになって、何か後ろの方に赤い物が下がっており、薄暗い中で恐ろしくてたまりませんでした。家に帰っても梅干を見ては思い出して、しばらく駄目でした。
その後、毎日のように看護に出ました。17日頃は海軍病院にも看護に行きました。6班の藤瀬ラジオ店の前に集まり行きました。死体の処理で長い金ばしのような物で綿をちぎってやったりしたことを記憶しております。また、50にはまだならぬような男の人でした。広島で用事を済ませ長崎まで来て長崎でこんな目にあって、やっぱり逃れられないようになっていたと話しておられまして、哀れに思ったものです。
※ドンゴロス:麻などで織った丈夫な粗い布
※がんづめ:除草用の爪鍬