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坂本中尉機とボーイングB29

ページ番号:0002124 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~『坂本中尉機とボーイングB29』-諫早ロータリークラブ卓話(昭和60年7月26日)より-~ 犬尾博治さん(諫早市泉町)の戦争体験

来月で終戦四十年になり、戦争もすでに歴史となった。今回は戦時中、諫早上空での戦闘で亡くなった坂本中尉という方と、相手のB29の墜落についてお話したい。なお、これについてはまだまとまった記録はなく、資料も充分ではない。もし誤りがあったり、ご存知のことがあれば教えていただきたい。
ここに昭和19年11月22日の新聞の写しがある。

大本営(戦時に設置された、天皇に直属する最高の統帥機関)発表(昭和19年11月21日午後5時)

1.本日11月21日10時頃、支那(中国)方面よりB29が70~80機九州西部へ来襲、雲上より闇雲に攻撃した後、遁走(逃れ走ること)した。現在までに判明している戦果は次のとおりである。墜落確認がされたものは14機(うち1機は体当たりによる)、不確実11機、計25機、外に黒煙が上っているもの7機である。日本軍は、自爆未帰還4機が出たものの、地上における損害は軽微である。

2.この戦闘において体当たりを行った方は、海軍中尉の坂本幹彦である。これは、昭和53年10月に発行された旧大村海軍工廠(軍に直属し、兵器、弾薬を製造する工場)職員の第二十一海軍航空廠回想集の中に記されている。この回想集の中で、中村栄一氏ほか3人の方が、体当たりした坂本中尉の機種は雷電であったこと、坂本中尉は佐賀県相知町出身であったこと、B29の遺体は8名であったこと、中尉の遺体は1か月以上たって高来町深海の山中で発見されたこと等が記載されている。

B29の墜落の模様は、多くの目撃者の話を総合すると次のようであった。
B29の編隊(飛行機が組んだ隊形)が大村の方から東に向かい、諫早市街の北方にある多良山麓上空を飛行していた。これに向かって、日本の戦闘機がキラキラと何機も群がって攻撃した。するとB29の編隊の最後尾機が次第に遅れだし、高度も低下してきた。B29はフラフラとゆっくりとした木の葉返しの状態で、小長井町井崎沖約500メートルの海上に墜落した。空中で破壊されないまま、火を吐くこともなく、またパラシュートによる脱出者もいなかったようだ。
当時私も小学5年生で、現場の小長井まで行っており、海面に飛び出ているB29特有の形をした垂直尾翼を見たこと、そして、今もある農協の倉庫の横に、4人の赤い肌の色をした裸の遺体を並べてあったことを覚えている。落下地点が干潟のある浅い海岸で、機首をやや陸方向に向け、海中に斜めにつっこむ形であった。
かけつけた大村空廠・高岩和雄元技術大尉によると、機体周囲に浮遊していた物を拾い上げたところ、家族とガールフレンドらしい人の写真、ゲートパス、財布、それに内容から見るとラブレターと思われる手紙、また、極めて精密な大村の航空写真などであった、とのことである。郷土芸能、浮立踊りの鬼面作りの達人である小長井町井崎部落の井手下七郎翁は、そのとき拾ったB29のガソリンタンクの内張りだったらしい合成樹脂製のシートを、今も鬼面を作る仕事用の下敷きに使っておられる。
機内から八体の遺体が引き上げられた後、浄真寺で読経の上、小川原浦部落の墓地に仮埋葬された。これらは終戦後、米軍によって発掘再収容され、お骨はアメリカ本国に帰っている。
10日くらいして機体は分解され、運搬船で海路運ばれ、大村空廠の修理工場横の、当時のダイヤモンド倉庫(現在、海上自衛隊格納庫)で組立て展示された。
一方、坂下中尉機は、諫早市長田町白木峰キャンプ場を中心に飛散自爆した。遺体はすぐには発見されなかった。しかし、奇しくも四十九日の忌日に当たる昭和20年1月8日、海岸より7キロ登った現在の高来町深海の、榎堂の東北割石の山中で、当時十五歳の少女、山崎マサノさん他2名が薪取りに来ていた際に、遺体を発見した。その遺体は警防団員によって深海蓮行寺に運ばれた。
山崎さんは、奇妙なものがある、自分は狸にだまされているのではないか、と思ったが、遺体が人間と分かった後は一目散で山を下り、何も覚えていないという。遺体を運んだ深川左京さんは、遺体の髪が長いことから、寺に着くまで米兵か女性ではないかと思っていたとのことである。
日本本土が初空襲を受けたのは、昭和17年4月18日、空母ホーネットより発進した16機の陸軍軽爆撃機「ノースアメリカンB25」が、京浜、名古屋、神戸へ来襲してきた時である。それ以後2年あまり、本土空襲は無かった。しかし、昭和19年6月15日、超空の要塞ボーイングB29重爆撃により初めて爆撃を受けたのは、中国本土から北九州市八幡製鉄所をねらった夜間爆撃である。この日がサイパン上陸開始の当日であるのは偶然ではない。7月には、サイパンの玉砕によって東條内閣は総辞職している。(東條英機内閣:1941年10月18日~1944年7月21日)。
長崎県への空襲は、昭和19年7月7日の夜、長崎佐世保へ15機来襲したのが初めてで、続いて8月10日深夜、13機が長崎、北九州へ来襲した。この時諫早では、栄田町に多数の焼夷弾による盲爆があり、死者数は無かったが、安祥寺が全焼した。10月25日昼間、78機が本格的に大村第二十一海軍工廠を初めて爆撃し、学徒挺身隊(任務を遂行するために身を投げうって物事をすすめる学生、生徒の組織)多数を含む280人余りが犠牲となった。これ以後、11月11日、11月21日、12月19日、20年1月6日に大村空襲があった。これで中国からの来襲は終わり、20年3月からB29はマリアナ(北西太平洋、ミクロネシア北部に位置)より飛来し、艦載機も来襲することになる。
11月19日頃までに、支那(中国)派遣軍より、インド、カルカッタ方面から中国成都(四川省の省都)にB29約100機が集結したとの情報がもたらされ、17日にはB29単機での大村偵察があったため日本側は警戒していた。11月21日未明、アメリカの第二十爆撃兵団(司令官ルメイ少将)のB29、109機が成都を離陸して大村に向かった。日本の支那(中国)派遣軍よりB29の通過報告があり、来襲確実とみて、佐世保鎮守府(各海軍区の警備、防御、所管の出征準備に関することを司る、所属部隊を指揮監督した海軍の機関)の下にあった大村の三五二海軍航空隊は、午前8時20分から大村西方190キロに月光8機を哨戒(敵の襲撃に備え、見張りをして警戒すること)させ、西部軍管区は、8時50分に警戒警報発令、9時15分に空襲警報を発令した。
9時5分より零戦(ゼロせん)(零式(れいしき)艦上戦闘機の通称)43機(うち10機は大村航空隊練習隊)、雷電16機が発進した。午前9時35分、哨戒中の月光がB29編隊を発見。この日、雲量(雲が空を覆う割合。全く雲のない状態を目測観測で0、全空を覆ったのを10とする)6~9、雲は1000メートル前後と5000メートル前後の二層にあった。地上で北西の風、風速16メートル以上。九州西方の天候不良のため、実際に大村上空に来襲したB29は61機、7~15機の梯団(部隊)六波で、午前9時45分から西彼杵半島上空より侵入した。
B29としては、比較的低空の5500メートルないし7500メートルの高度で来襲した。これに対し、上空で待機していた零戦、雷電は三号爆弾(空対空爆弾)で攻撃して編隊を乱れさせた後、約1時間にわたって攻撃した。坂本中尉の二階級特進を申請した当時の戦闘日誌によれば、「三五二空坂本中尉は第二小隊長として零戦9機を率い、8500メートルで迎撃哨戒中、午前10時15分、B29、15機編隊に対し3号爆弾攻撃。引き続き、直上攻撃を繰り返し相当の損害を与えた(火、または、黒煙を吐いたのは4機)。小隊長は列機と分離し、10時30分頃、上方より編隊外端機に壮烈な体当たりを敢行した。この敵機は錐(きり)もみ状態(らせん状に旋回しながら急降下)となり、島原北方海面に墜落。小隊長機は体当たりと同時に約4000メートル圏内に飛散した。この行為は、まさに軍人の鑑であり、二階級進級するのに当然の者と認め、ここに完全に記しておく。」とある。
日本側の被害は、未帰還零戦2機。体当たり自爆零戦1機。自爆雷電1機。不時着大破の零戦7機、月光1機、被弾(弾丸にあたること)16機。米軍側の資料によるとB29の被害は、墜落したもの6機、ほかに1機はソ連領に不時着。日本領土内での墜落機は1機、その他はすべて中国、または、その近くまで来て墜落、または事故による喪失。地上の被害は、民家2か所数軒の火災と、山中への投弾3か所で、軽微であった。
従来、坂本機は局地戦闘機雷電とされてきた。しかし、当日いっしょに出撃され、現存していらっしゃる植松真衛元海軍大尉(東京在住、海兵七十一期)及び武藤芳次上飛曹(大村在住、丙飛七期)は、坂本機が零戦であったと述べられた。また、前出の三五二空の戦闘日誌にも「坂本中尉は、第二小隊長として零戦9機を率い、体当たり自爆零戦1機」と記載があることなどから、坂本中尉の搭乗機は零戦であったと思われる。
なお、植松氏は翌20年4月7日、戦艦大和が男女群島の南約200キロ地点で米機によって沈没させられた折、その直前まで零戦編隊の隊長を勤められている。武藤氏は、10月25日の大村初空襲の戦闘で五島久賀島に不時着して重傷を負っていたので、11月21日の出撃時はまだ顔面が腫れていたとのことだった。同日の戦闘で、南高吾妻の干拓地に日本機が不時着している。搭乗員は無事で、この方は当時19歳で賀茂保夫という人だった、と駆け寄って目撃した岩永金吉氏が述べておられるが、戦闘日誌によると、この方が坂本中尉機体当たりの目撃者の1人として記されている。
一方、B29の搭乗員はどうなったか。名前は判らないものか。定員は11名。機長兼操縦士、副操縦士、飛行技術士各1人、航測兼爆撃士2名で、以上5名が将校、整備兼銃手が4名、無線手、レーダー係各1人の6名が下士官兵という編成であった。前出の中村栄一氏等の回想記では遺体8名が収容されたとある。米側の資料では、定員以下の人数で運行することがあり、8名で運行される場合もあるとされている。
三十三回忌にあたる昭和52年11月27日、高来町元陸軍大尉、荒川斗苗氏のご尽力で、日米合同慰霊祭が同町の天初院で行われ、中尉のご遺族、相知町町長、米軍佐世保基地司令官らが出席されている。この時点で、米軍搭乗者名が判っていたのではないかと調べたが、そうではなかった。
それまでも荒川氏は、米軍司令官や福岡の米領事館に足をはこび、大分県耶馬渓(大分県北西部、三国川上流、中流沿岸約50キロメートルの景勝地)に墜落したB29の搭乗者名が、外国人神父の努力で判明したことを知って、みさかえの園の神父さんを訪ね、援助を求められたこともある。しかし、手がかりは得られなかった。
ところが、このB29が引き揚げられ大村の格納庫で展示されたとき、佐世保市皆瀬町の井上九州男氏が、当時航空廠兵器部の設計におられ、機体を撮影していらっしゃり、その写真が現存していた。この写真の中の垂直尾翼に、機体番号26278が明らかに撮影されていた。
これに基づいて、米軍佐世保基地司令官を通じて荒川氏が調査を依頼され、3年後の昭和55年8月、リンジー司令官より、機長ジョセフキルブルー大尉以下全搭乗員11名の姓名が以下の通り伝えられた。ジョセフ・キルブルー大尉、ポール・ミークス中尉、エムズリー・エガース中尉、アール・ハインズ中尉、スピリット・オビアール少尉、ジョン・ノーマン・ジュニア二等軍曹、エドワード・モンロー二等軍曹、ヴィンセント・シェリダン二等軍曹、ルーサー・ヤング二等軍曹、ゲイル・コーネリアス三等軍曹、ゴールドン・チャード三等軍曹。
やはり小長井のB29にも定員通り11名が乗務していた。すると遺体八体の他に3名の行方が明らかでない。当時は戦時下で、墜落時に生存していた搭乗員がいて、これを殺害したという噂もあり、米軍は終戦後もこの点を含めて調査した気配がある。実際、北九州を爆撃後、パラシュートで降下した乗組員が追い詰められて自殺したり、猟銃で殺害された事実がある。小長井ではそのようなことはなかったと思われる。ほかにパラシュートで落下した者がいたとか、大牟田に遺体があがった、高来町湯江にも流れついた、などという話もあった。今のところ信頼度の高い行方は以下のとおりのようだ。
当時、小長井町山崎医院院長さんが、遺体の検死をされている。この時、同行されたご子息の現山崎医院院長の山崎善久氏は、遺体数は九体であったことは確かだと話された。また、当時の郷土防衛隊長、井手基氏によれば、当日から翌日にかけて九体が引き揚げられたと述べている。さらに、当時の大村空廠運輸部、故中村正美氏(当時37歳)は、大村歩兵第四十六連隊の憲兵の命令により22日、「アンダーシャツとメリヤスシャツ」を着た米兵死体一体をトラックで、小長井から大村憲兵隊(現・子ども遊園地)まで運んだ、と記している。また、墜落から2、3日して一遺体が小長井、長里の田代海岸に流れ着き、警防団によって火葬され、翌日10時に憲兵に引き渡した。このとき、火葬のため遺体を海岸から尾上部落の墓地まで運ぶとき、遺体の頭皮が剥げたのを覚えているという複数の話がある。
以上、井崎海岸に上がったのが八体ではなく九体、別に大村運搬一体、長里部落に一体、計11名とすると、数は合致する。
実は、この他に隣の佐賀県太良町油津に米兵の漂着遺体の碑がある。「昭和四十四年鹿島ロータリークラブ建立、ノールマン・イー・ステフラー之碑、昭和十九年十一月二十一日戦死」と記されている。認識票を付けたまま漂着したのでその名が判り、階級は軍曹で、戦後この遺体も米兵によって再発掘されている。遺族が米国から見えたことがあるという。現在なお、この遺体は小長井墜落のB29の一員とされているが、前に述べたように昭和55年米司令官より荒川氏へ伝えられた26278号機の搭乗員名簿の中に彼の名は見当たらない。また、墜落現場から南に流れた長里海岸の一体が確かだとすれば、もう一体がそれと反対側の北方に位置する太良海岸に漂着するのはやや不自然でもある。この遺体の由来については今後なお慎重な調べが必要であろう。
坂本中尉は、大正11年11月23日秋分の日生まれ。佐賀県東松浦郡相知町出身。父君は、同町熊野神社宮司、厳男氏。出生時、神社は祖父の真澄氏の代で、父君厳男氏は当時、朝鮮(現在の韓国)の慶尚北道興海小学校の教師であり、幹彦氏はそこで生まれた。母親はミユキさん。大正十五年、幹彦氏三歳の時、父、厳男氏が相知に戻り、宮司を引き継ぐ。幹彦氏は少年時代から海軍に憧れていたが、体格が少し小さかった。小学時代から剣道が得意で、中学では理科、英語に秀で、級長をしていたという。
現在の唐津東高校、当時の唐津中学に入って、5年生から海兵に入学した。海兵七十一期生として昭和17年11月に卒業し、艦隊勤務につく。軽巡「川内」に乗り込み、昭和18年2月1日より始まった、ガダルカナル島撤収の支援部隊としてニューアイルランド島カビエンに出撃。昭和18年、飛行学生となり、8月に少尉に任官して大村航空隊付となる。19年3月中尉。同年9月に一度だけ休暇で帰省したのが最後となった。戦死時、満22歳。勲功は二階級特進して少佐に昇進。従六位勲六等功四級旭日中綬章を受ける。
幹彦氏は、出身地の相知町や元の本籍地唐津にも戦死者として合祀されていないことがわかっている。皮肉にも相知町の戦没者碑は熊野神社境内にある。多数の戦没者名がこの碑の裏側に刻まれているが、坂本幹彦の名は見当たらない。佐賀県の厚生部援護課の兵籍には記されているが、その他には顕彰されたものは、何ひとつ残されてないという。坂本家の先代は、唐津市鏡の出身であり(熊野神社は鏡神社と親類の神社)、当時は鏡に田畑も所有されていたが、神職としては相知熊野神社に転出されて久しく、いわば不在地主という立場にあった。昭和21年の冬、農地改革の波が押し寄せて、不在地主は不利となり、一家は鏡に移住された。しかしここでも不在地主として扱われ、しかも昭和22年11月11日、父厳男は病死され、再び一家は相知に転出されている。このような移住の合間に戦没者としての名の記載が欠けたままになったものと言われている(佐賀県先覚者顕彰会常務理事、井手保氏による)。そのようなわけで、出身地や戦死現場のいずれにも慰霊碑はおろか、一片の表示板もなく、その名は残っていない。同様に、故国より遠く離れた極東の地で散っていったB29の搭乗員の名を残す標柱も、今のところ建てられていない(現在はいずれも慰霊碑が建立されている。)。

(平成23年7月寄稿)

栄田町にB29から落とされた焼夷弾
昭和19年8月10日 栄田町にB29から落とされた焼夷弾。
※火薬・信管は抜かれているもの。