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コトボシを持って

ページ番号:0002123 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

立山光重さん(諫早市幸町)

36年前の忌まわしく、悲しい出来事の原爆―。
昭和20年8月9日、真昼―
忘れようとしても忘れることのできない怒りを、抑えることは出来ません。その日の午後5時頃、馬場班長さんの、「怪我人が、どんどん諫早に運び込まれているので、救護に出られる者はみんな、出てくんさい。」との触れで、人手の足りない時期、家からは、私と、林のおじさん(林達子さんの実父)が行くことになりました。おじさんは、コトボシを持って、私達の上野町一班からは、江口のおばさん、宮本のおばさん、馬場班長さん御夫婦と、家の前の島鉄踏切そばに集まり、他にも何人か集まって来られ、6時頃、本諫早駅の前を通り、商業学校(現在諫早小学校庭)に着き、川のわきでしばらく待った後、班長さんの指示で救護活動に入りました。小屋のような所から入った途端、中は被爆者がいっぱいでした。呻きながら、「水…水…」と言う方に、近くにあったヤカンで水を飲ませました。汗や血や、汚れのために、色の染みたサルマタ姿の人、うずくまって動くことも出来ない人、ただ泣いている人、ぐったりしている人、髪も服もクシャクシャで、生き地獄でした。林のおじさんが、コトボシに火を点けて来られ、少し奥の方に行った所で、男の子が「アイタター、イタイヨー、ガラスが体中に入って、イタタ、イタイヨー。」と苦しがって、でも、はっきりした口調で、「おいは桶屋町の豆腐屋の息子」と言い、お父さんも、お母さんも、わからないとのことでした。幾人もおられた救護の方々も、どうすることも出来ませんでした。私は、可哀想で涙が出ました。また、小柄なおばさんが、男の方と、被爆者の中を見てまわっておられ、身内の方を捜していられました。充分にないローソクやコトボシの明りで、それはそれは大変でした。苦しまぎれにはみ出されている足を、そっと、そばに寄せてやったり、林のおじさんと二人で、抱えて安定させてやったりしました。お世話する係の方でしょうか?
「水は欲しがるままに、たくさん飲ませんように。」と言っているのが聞こえました。
夜通し救護して明け方、林のおじさんが、ムシロを持って来て、私も手伝って、所々の被爆者の人の上に着せました。亡くなられた方だったと、帰りに聞かされました。私が洋裁見習として、住み込みでお世話になって間もない頃のことでした。周りの皆様に覚えもなく、今はもう、町内会長さんも、班長さんも、林のおじさんも、亡くなられてしまいました。
※コトボシ:手燭(てしょく)・紙燭(かみしょく)。持ち歩きに便利なように柄をつけた燭台。