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シベリア抑留を生きのびて

ページ番号:0002122 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~シベリア抑留を生きのびて~ 中村友三郎さん(諫早市天神町)の戦争体験

1.私の徴兵検査

昭和19年3月頃、戦況ますます激しくなって、私は徴兵検査を受けた。近視のため第1乙種(※兵役の区分の1つ。)に合格し、兵科は歩兵(※戦場を徒歩で移動する兵士)で、関東軍への入隊を申し渡された。満鉄育成学校卒業後、大連(だいれん)駅に勤務していたためなのか、理由は定かでないが、入営延期になっていた。いつでも入営できる状態で勤務していたが、入営前に、郷里の島原市有明町の実家に帰省した。町内の方も家族とともに入営を祝ってくれ、「祝入営」の幟(のぼり)を持って氏神神社に参拝、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を祈願していただいた。また、子煩悩の母親は、私が軍人としての任務を無事に遂行し元気で帰還できるようにと、私と一緒に南風崎(はえざき)(佐世保)の神社と千々石町の橘神社に参拝してくれた。橘神社の桜はまだ幼木で、1.5メートルぐらいだった。土手には芝生が植えてあったので、そこで手作りの弁当をいただいた。
大連駅に帰り、勤務中の午前十時ごろ、敵機空襲のサイレンが大きく鳴り響いた。外に飛び出し上空を見上げると、B29の爆弾が大豆の野積みの山に命中し大連埠頭方面に黒煙が大きくのぼっていた。一週間くらい燃え続け、急に緊迫感が強くなってきた。
昭和20年5月、延期になっていた入営の命令が来た。職場での送別会や激励会等を開いていただいた。出発日の大連駅出口の大広場は、入営者を見送る人で大混雑だった。私も盛大な見送りの中で列車に乗りこみ、吉(きつ)林(りん)経由で間島省(かんとうしょう)五家子(ごかし)の歩兵280連隊(満洲第409部隊)に、5月22日入隊した。五家子駅まで軍曹殿が出迎えにきておられた。部隊兵舎は、周囲を小高い丘と山に囲まれた盆地内にあり、丘の向こう側はソ連領だった。

2.入隊から国境警備隊での状況

入隊1日間は「お客様扱い」で、食後に恩賜(おんし)(※天皇から賜ったもの)のたばこをいただき、「軍隊とは親切なところだな」と思ったのもつかの間、予想どおり、翌日からは内務班でのおそろしく厳しい教育と、野外演習場での猛訓練が連日続いた。育成学校の教練で鍛えられていたので、あまり引けをとらなかった。私は、幹部候補生を志願した。
6月下旬、私は、標高数百メートルくらいの丘にある国境警備小隊に配属された。国境線には双方鉄条網があり、その間隔は約10メートルで延びていた。時々、自動小銃を持った長身で青い目のソ連兵士2名が巡廻してくるのと対峙する不気味な場面もあった。ソ連の兵舎と兵士の動きは、晴天の日に肉眼でキャッチできる近距離にあり、味方の立哨ボックス(※見張り台)の中の壁には、ロシアの陣地らしい場所の略図と要塞らしい場所が簡記されており、それによりロシア側の動静を注視していた。小隊の兵舎は立哨ボックスから500メートルくらい下にあり、真夜中に「敵襲、敵襲!」と訓練の非常呼集がかかり、消灯下に完全武装しての出動訓練が頻繁におこなわれた。小隊長から呼び出しがあり、幹部候補生志願について、希望兵科などを質問されたが、幹部候補生志願者全員、結局この件についてはそのままにされていた。
8月5日頃、突然ソ連の飛行機が降服勧告のビラを撒きはじめたので「これは何事か」と思ったが、古年兵が「デマ宣伝で撹乱しているのだろう」というくらいで確実な情報はなく、部隊本部から中隊長が巡視して来て「日本軍は目下ウラジオストック方面に向け進撃中である。いつ出動命令が出るかわからないので出動態勢でいるように」といって士気を鼓舞したが、食事も急に半分になった。
8月10日頃、ロシアの戦車が、土煙を上げて琿(こん)春(しゅん)市街の方向に進入して行くのが遠望でき、そこでロシアの参戦を知った。やがて部隊本部も、戦車の攻撃で負傷者が出て搬送され、地下壕に収容された。高い陣地にいたので幸いにも直接攻撃は免れたが、兵舎の周囲に構築されたトーチカ(※鉄筋コンクリート製の防御陣地)に小隊が分散して守備についた。部隊本部から援軍が増員されてきた。敵弾がプスプスと近くに落ちはじめた。脱兎のごとくトーチカに逃げ込み、銃口を敵の方に向ける。この状態が数日続き、古年兵が神妙に「もうこうなったら明日の命はわからない」といい、「せめてこれでも腹いっぱい飲もう」と、砂糖水を一升瓶に作ってきてくれたので心から感謝して飲んだ。暑い最中でもあり、大変おいしかったことは忘れられない。敵の刺激を避けるためか、積極的な攻撃は取っていなかった。
8月15日の終戦の詔勅(みことのり)(※天皇の意思表示)もわからず状況不明だったが、16~17日ごろに、「後方に撤退せよ」との命令が、先に撤退していた部隊本部から無線で入ったとのことだった。しかし、敵はどんどんこちらへ進撃してきて、我々は包囲された状態だったので、ただちに完全武装し、食糧は乾パンなどを雑のうにいっぱいつめて出動準備した。分隊長の話では、我々の退却後、敵から兵器を利用されないように主な兵器は井戸の中に投げこんだそうである。負傷兵を励まし別れを告げ、全員断腸の思いで撤退する。なんと痛ましいことか、出発後しばらくしてドカンドカンと炸裂音が聞えた。負傷兵が自爆したようで、戦争の悲惨さを痛感した。
どの方向に行くのか全く知らされないで、上等兵と一緒に先発斥候(せっこう)(※敵の状況や地形などを探ること)を命ぜられ、林の中で周囲を注視しつつ全身緊張。途中、日本軍の退却した跡を通って前進した。ここは日本軍の陣地だったらしく、塹壕の中には水筒、飯ごうなどが散乱して、いかに慌てふためいていたかを感じた。ロシアの兵士と2回遭遇したがなんとか通り抜け、豆(と)満江(まんこう)の岸辺に夕闇に包まれる頃に到着した。今になって考えると、図們(ともん)付近ではなかったかと思う。川を泳いで対岸に渡る計画が小隊長から指示された。どうやら対岸にはロシアの軍隊がすでに進入している想定のもとでの行動だった。
暗闇の中を、武装したまま第1分隊が渡りはじめたが、予想以上に深いのと急流のためすぐ引き返したのである。そこで小隊全員が武装をはずして、丸裸で、ふんどし1枚小銃を肩にかけ泳ぐ。それで腕時計、眼鏡、現金、郵便局の貯金通帳など貴重品はすべて背のう(※リュックサック)の横に置いたままだった。私は、日の丸の旗と千人針を体に巻き泳いでいたが、川の中程で銃の負皮(おいかわ)で首を圧迫され、耐えきれず苦し紛れに銃を手放した。やっと泳ぎ着き、木の根やかずらに必死でつかまって這いあがり、九死に一生を得た思いだった。小隊長は日本刀を高々とあげ、「小銃を持ってあがった者は手をあげろ」と言ったが、手をあげた者は誰一人おらず、ホッとした。戦が続いていたら大変な処罰を受けたろうとゾッとする。向こう岸に置いたものを、筏(いかだ)を組んで取りに行きたいが、「希望者はいないか」と隊長が言ったが、誰もいなかったようでどうなったか記憶していない。8月でも夜は冷えるので着物をもらいに近くの朝鮮人宅に数人行き、叺(かます)(※わらむしろを二つ折りにして作った袋)をもらって来たのでその中に入り一夜を明かした。
翌朝、親日派らしい朝鮮人が来て、日本の無条件降伏で終戦となったことを教えてくれた。信じられなかった。勝利を信じて戦ってきたのに神風も吹かなかった。だが事実だった。虚無感と疲労でぐったりとなった。泳ぎきれずに引き返した者はどうなったのかわからない。小隊長は、穴を掘って日本刀を埋めたと聞く。そして「今後諸君は、2、3名で気の合う者同士で組み、京城を目指して歩き米軍に投降せよ」と訓示した。そして各自、護身用に手榴弾1発を受取り、終戦を知らせてくれた朝鮮人が持ってきてくれた古着を着て、西へ東へと解散した。もう名前も忘れたが、私は初年兵3名で組み、近くの朝鮮人の民家を訪ねたところ、まず麻の古着の胸に赤い小さな布きれをつけてくれた。「これで道路を歩いていてもロシア兵や金一成の軍隊にあやしまれない」とのことだった。
方角が皆目わからない。まず清津(せいしん)を目標に、裸足で畑の野道を歩いた。人目を避けながら畑のばれいしょや玉ねぎなどをもらい、生でかじり飢えをしのいだ。8月の末の北鮮の山林はだいぶ冷え込むので、こっそり民家を訪ねると、日本の兵隊と察してか、「どうぞお入りください」と温かいオンドル(※床下暖房)の上に寝かせてくれ、翌朝は、温かい黄色の粟ご飯を洗面器のような容器に山盛りし、キムチなどをおかずにごちそうしてくれた。腹いっぱいいただき、ありがたくて涙が出た思い出もある。田舎は一応平穏を取り戻してきて、女の人が大きな水がめや品物を頭に乗せ、柳腰(※細くしなやかな腰つき)で歩いている姿もちらほらと見かけた。道に迷い、棒を立て倒れた方角に歩いたり、夜は山中に野宿し、「日本はなぜ負けたのか」と3人手を握り、男泣きに泣いたこともあった。
10日くらい厳しい逃避行を続けたが、「とにかく大通りに出よう」と、何食わぬ顔で朝鮮人の群れに一緒になって国道らしき道を南下しているとき、ロシア兵の散兵線(※歩兵を散らばらせている隊形)にひっかかり、2人のロシア兵が近寄ってきて、着剣した小銃を目の前に突きつけた。剣先はキラキラと青白く光っていた。ここで万事休す、3人一緒に手をあげた。手榴弾は、日本が負けたと知ってから「自爆しても犬死だ」と、山中で処分していたのでよかった。一瞬殺されるかとドキッとしたが、早速駆足を命じられた。約20分走った。駅名は忘れたが田舎駅だった。しばらくして、日本人の避難民を満載した無蓋車(※屋根がない貨物車)を7、8両連結した列車が到着した。乗車を命じられたので急ぎ飛び乗った。到着した駅は清津駅だった。下車し、また徒歩の後、着いたところは元清津刑務所で、板張りの6畳ぐらいの部屋に3人一緒に入れられた。ここが恥かしながら捕虜生活(強制抑留)の始まりだった。そして1週間ぐらいして清津の約千人収容の収容所に移動した。清津港で大豆の荷役(※荷物の上げ下ろし)作業に従事した。
まだ敗戦の精神的な打撃も消えないころ、大変ショッキングな事件があった。収容所は、旧軍隊時代の幹部下仕官と通訳による本部があり、ソ連側の指示で動いていた。ラーゲル(※収容所)の四隅に高いやぐらがあり、自動小銃を持ったソ連兵が常に監視していた。だが、逃亡兵が出て2名逮捕されたようで、「全員集合」がかかり大広場に整列、直ちに経過の説明があり、その後見せしめのためか、全員の前で処刑された。2人はラーゲル内の土手の上に立たされた。息をこらして見ていると、ソ側の狙撃兵により射殺せられた。2人が両手を高く上げてバッタリと倒れるのを300メートルくらいの目前に見て、言葉にいえない思いに打たれた。担架で運ばれて来た2人を軍服の女医が脈をとり、死を確認していた。一瞬ざわめきの声があがったがすぐ止んだ。両手をあげたとき2人は何と叫んだのだろうか。「天皇陛下万歳」だろうか「お父さん」「お母さん」か。あるいは愛する妻子の名前だったろうかと、2人の兵士のことがしばらく話題にのぼっていた。
このラーゲルに収容された時、私の貴重品は皆無だった。豆満江を泳ぎ渡るとき、眼鏡、時計などの貴重品はいっさい岸辺に残したままだった。筆記具も持っていなかった。同僚の中には、まだ隠し持っていた者もいたが、ソ連兵からたばこと交換させられたりしていた。作業はほとんど清津港で大量の荷役作業だった。日本苦力といった格好で、重労働の連続だった。最も辛かったのは、食事が質、量ともに最低だったことだ。朝食は、大豆と高粱(こうりゃん)混合の粥を飯ごうの4分の1くらいで、昼食も朝食と同じで量が少し多いぐらいだった。夕食は黒パン350グラム1枚に、乾燥野菜のスープ飯ごうの4分の1と砂糖大さじ1杯くらい。1日分のカロリーは約800カロリーくらいで、人間生きるための必要最低限だったのではないかだろうか。おまけに消化不良で大変だった。ラーゲル内で腸チブス患者が発生、数10名の犠牲者が出たと聞いた。
「冬来たりなば春遠からじ」の言葉どおり、厳寒の北鮮にも春が訪れ、昭和21年4月だったと思うが突然移動命令が出た。行先不明、それも途中は小休止ぐらいで不眠の強行軍が続く。途中誰かが、「張(ちょう)鼓(こ)峰(ほう)事件があったのはこの付近だった」といった。豆満江の架橋を通過してソ連領に入った。夜になって市街に入ると、ソ連兵が100名ぐらい先頭に立ち行進していた。ソ連の軍歌らしきものを高らかに歌いながら堂々の行進で、こちらは荷物を背負いクタクタになっているのに、ソ連兵は凱旋祝の行進をしているようで、捕虜としての屈辱感でがっくりとなり、夕闇の中を歩くのがやっとだった。
そこがどこだったのか記憶にない。翌朝、なだらかな草原に着いた。テントを張り1週間ぐらい野営する。付近には雑草が芽をふいていた。食用になる草をつみとって、生か飯ごうで湯がいて食べ、ビタミンCの不足を補った。どうやらウラジオストックの近くだったようだ。やがてウラジオストックのラーゲルに移動した。

3.ウラジオストックのラーゲルにて

このラーゲルもテント屋根で、木製の2段ベッド。1棟に40名収容され、ラーゲルの面積も広く、テントも整然と建てられていた。すでに先着部隊がいた。ウラジオストック市街の高台地区で、旧軍隊の混成部隊であった。長崎県出身者は自分のほか3名で、言葉のなまりからすると関東、東北方面の人が多かった。幸い入浴散髪の仮設備もあり、日本兵によって行われていた。
作業は、ウラジオ港埠頭の倉庫内で小麦粉缶詰等の荷役作業を行った。夜間作業もあり重労働で腹ぺこになり、小麦粉の袋の破れ目から、ソ連兵や監視人の目を盗んで粉を出し、暗がりの中、水道水でかき混ぜて団子を作り、生で食べて空腹を満たした。大勢の中には要領がよく、とんちがきく人もいるものである。もちろん見張人をつけての実行である。缶詰はどうにもならなかった。
毎日トラックで現場へ往復した。冬になると、港はかなり沖まで凍結してトラックも走行していた。凍結したところに穴を開け、魚を釣っている光景を見た。北満で軍隊生活をした方や経験された方は、極寒の地の状況をご存知の方もおられると思う。人糞の処理はツルハシやスコップ、モッコ(※荷物を運ぶ道具)などがあれば簡単だ。

私は2度目の経験を交代で行った。昭和22年の1月だった。雪の日だったが、マイナス40度以下にならないと作業中止にならない。当日雪がちらほら降っていたが作業中止にならなかった。埠頭に着き、しばらくして野外作業をしていると、視界ゼロの状態と豪雪で作業中止。埠頭事務所に分散収容された。常に体や手足を動かし、急にストーブで温めないように大声で注意されたが、数十名が凍傷にかかり大騒動になった。幸い、私は無事だった。
厳寒と重労働と飢えに耐え、先行き不安感でいっぱいの日々が続いたが、やがて春が来た。4月頃からウラジオ市内で赤れんが作りのビル建築工事に従事した。私は、はじめ1階部分で、回転ミキサーで仕上ったモルタルを手押し車(ターチカと呼んでいた)で運搬する作業と、れんが積みで左官の補助役をした。左官さんは40代のベテランで、仕事が速かったので驚いた。色々な職業の人がいて、技術者は大変重宝がられた。これをソ連は上手に利用した。だんだん建築の階が高くなるにつれて、今度はターチカによる屋上部での赤れんがの運搬だ。ここではソ連の監督(ナチヤニック)が采配をとっており、大変厳しく、怠けることはできなかった。夏の炎天下の作業は、本当に大変で汗と涙の苦闘だった。でも「日本の土を踏むまでは」と頑張った。
この苦しみのとき、私には突然の朗報があった。それはハラショーラボータ(よく働く労働者)ということで1週間の特別休暇が与えられたのだ。そのことが全員朝礼のとき紹介された。8畳ぐらいの個室が与えられ、スチール製のベッドに羽毛布団で、食事も米飯の特別食で、驚きと嬉しさが交錯した。おかげさまで久しぶりに十分休養ができた。ラーゲル管理のソ連将校が巡回してきた。「働かざる者は喰うべからず」の格言があるソ連でも、よく働く者は優遇されるらしい。私の特別休暇の件は、ラーゲル内の日本軍本部の推薦だったと聞いた。
ソ連の労働者にはノルマが定められており、1日あたりの達成枠により給料が支給されていた。詳細は不明だが歩合給と同じのようで、勤労意欲を高めるためかなりの悩みがあったようだ。ソ連では私有財産も認められていないと聞いた。この頃から、ソ連側は、我々に共産主義の教育を働きかけてきた。捕虜向けの日本語新聞が発行され、掲示板に張り出された。日本捕虜本部の方も、いつのまにか民主的運営組織に移行されて、気がつくと旧将校の姿もほとんど見られなくなっていた。この頃、日本の地の終戦時の様子が伝わってきた。「広島と長崎はB29の新型爆弾で全滅した」とかデマも飛びはじめ、大変不安にかられた。
とにかくよく働き、迎合することが、1日も早く帰国する方法ではないかと思っていた。しかしそうではなかったのだ。食べ物は相変わらず最悪の状態が続いた。栄養失調で病弱者が続出し、十分に働けない者を先に帰国させた。時々、ソ連軍医による検査があって病弱者を指定していた。栄養失調になると体に紫色の斑点が出た。体重も減少し「骨皮筋ヱ門」の言葉が当てはまる人も出始めた。
赤煉瓦のビルもだいぶ高くなってくると、作業場も市内各地に分散するようになり、私は木造の家屋を建てる大工班となり大工さんの助手となった。これもズブの素人だから大変だった。しかし大工さんは大変温和な人で助かった。2階で床板1枚の上をあちこち動き回るときは恐ろしくて、ビクビクのへっぴり腰だった。踏みはずすと1階まで落下して大事故になりかねない。近視で眼鏡を持たなかったが、よくも無事故で過ごしたものだと思っている。ときどき幹部が回ってきて「人間で大工と泥棒の気がない者はない」と言ってハッパをかけた。私は苦手の仕事だった。夜に床についてから同志の会話はもっぱら食べものの話で、「帰国したら、まずはじめに米の飯を腹いっぱい食べてみたい」「おかずはたくあん漬けと梅干で十分だ」と、これが人間最低の生活をしたものしか味わえない心からの叫びだった。そしてお国自慢の名物料理の話に花を咲かせた。
ストレス解消のためには、塩が人間にとっていかに貴重な存在であるかをこれほど強く感じたことはなく、夏は格別だった。要領のよい者はどこで入手したのか食事のとき取り出してお粥の上にぱらぱらとふりかけて食べていた。スプーン1杯のお粥と1グラムの塩に皆の目が集中する。飽食と美食の現代人にとっては到底想像しがたく、また実行もできないと思う。また愛煙家にとって煙草の1本も支給されないのは耐えられないストレスだったようで、樫の木の葉を乾燥させて新聞紙で巻きシガレットを作り吸っている者が多かった。私は、入隊前から煙草は吸っていなかった。入隊して初年兵のときは、食後の恩賜の煙草を1本ずついただいたが、とてもとても吸えなかった。一番早く食缶をつかみ取るのだけをただ考えていたので、火をつけるのが精一杯だった。
内務班での動作が昇進に影響するためみんなが必死だった。昭和二21年12月から22年2月頃の冬期にかけて、ソ連側は、共産主義思想の教育宣伝をさらに積極的に進めてきた。ウラジオストック港内に停泊している輸送船を利用して、人員と期間を定め教育しているとの情報がチラホラ入ってきた。はからずも、私は1ヵ月か2ヵ月ぐらいだったと思うが勉強させられた。20名ぐらいの人員で教師は旧軍隊の下仕官クラスのようで、ソ連側の教育を受けているのではないかと思った。場所はウラジオストック市内で木造の学校のようだった。重労働から開放され食事も普通食で、9時から17時までだった。B5版の千ページぐらいの教科書をその期間渡された。内容は唯物論にはじまり、マルクス主義にレーニン、スターリンのこと、ソビエト連邦共和国成立までの経緯、国内事情、コルホーズ(※集団農場)のことなど多岐にわたっていた。今はもうほとんど忘れてしまった。帰国の命令が出るまで、何でも命令に服従する以外に方法はなかった。今考えると、社会学の勉強ができたのではないかと思っている。
23年3月頃、急に移動命令が出た。ウラジオストックから有蓋車(※屋根つきの貨物車)に乗せられた。行先不明で、窓が閉めてあるのでどこへ向かって走っているのかぜんぜんわからず、「帰国ではないか」とのデマも飛んでいた。トイレ以外は停車なしで20時間ぐらい走って、列車は農村地帯で小さな駅に停車、皆で下車すると、分散してコルホーズ内のラーゲルに収容された。私たちは100名ぐらいで古い欧風の建物で農作業に従事した。もちろんソ連兵の監視はあり、山もなく広大な平野は満洲大陸の平野を思い出した。農地は1単位が5町歩(※面積の単位。1町歩=約1ヘクタール)ぐらいと聞いた。最初はばれいしょ畑の草を長柄の鍬で刈取って行ったが、1往復でもう日が暮れてしまった。耕転は国営のトラクターステーションから、大型トラクターが来て耕していた。夜間になっても轟音で作業していたが、明け方になると、五町歩ぐらい完了しているのには驚いた。耕転した畑には、ばれいしょの種まきをおこなった。機械で畝(うね)を立てたあとに、私たちは種を入れたかごを首にかけ、ぽとりぽとりと落しこみ土を足でかけた。掘り取り作業も機械で行っていた。驚いたのは小麦の刈り取りだった。大型スレッシャーで穂を刈り取り脱穀して残った茎は火を着けて焼き払うのだ。当時としてはかなり進んだ大型機械化農業だった。すばらしさを見せつけられた感じがした。これも各種条件がそろっていないとだめである。
当時、コルホーズでの農民は、一般労働者と違って労働時間の制約がなく、そのため給料が一定せず、作物収穫の成果による出来高払い制度のようで、我々もいくらか悠長な雰囲気であったがかえって長時間働くこともあった。食事はあいかわらず少なかった。キャベツも相当栽培されていたが、どこへ出荷されるのか、我々はまったく食べたことがなかった。真っ赤な太陽が地平線の彼方に沈むころも、小麦の茎はまだ燃えさかり、この光景に見とれ、望郷の思いにかられているとソ連兵の歩哨が集合を命じ、宿舎へ帰るというような毎日が続いたのです。

4.山奥のラーゲル(地名不明)にて

このコルホーズから同年7月頃にまた移動命令が出た。今度はトラックで約3時間走ったら、ラーゲルがあった。先着組がかなりいて、ウラジオストックのラーゲルで一緒だった人と逢い、健在を喜びあった。主に山林を伐採して道路を造る作業をしていた。我々はバラックの造りで仮住まいだったが、しばらくして宿舎の増築が行われた。周囲は広大で、赤松の大木が林立していた。松の木を切り倒し丸太を柱や壁材にし、壁の中にはオガクズを30センチメートル幅ぐらいに詰めこんだ。シベリアでは一般の木造住宅でも厳冬の保温の知恵としてこの工法が取られていた。
総員800名ぐらいになったが、ラーゲルの四隅のやぐらの上からはあいかわらずソ連兵の厳しい監視が続いていた。本部は民主的な運営が行われるようになり、委員長の下に広報宣伝、青年部長の幹部が数名と通訳や軍医もおられた。私はあるとき、左足の甲に「できもの」ができて腫れあがったが、麻酔なしで切開手術を受けたことがあった。委員長は東北出身で、復員後はシベリア抑留者のためにいろいろ活躍されていたようだったが、お名前は忘れて思い出せない。旧日本軍人で編成された慰問団がラーゲルを訪れ、仮設の部隊でギターやバイオリンで演奏して歌手が歌った。5年ぶりに生演奏を聞き、感動し溢れる涙が止らなかった。この一座の中に三波春夫さんがいたのではないかと思われるが、定かではない。捕虜のすさんだ心をなごませるため、労働意欲を高めるためのソ連側の一手段だったようだった。入浴はドラム缶だった。ある日トラックに分乗して数時間走り、大浴場に着くと、サウナで入浴している間に衣類は全部高温殺菌されていた。シャツを着ようと手にとって見るとびっくり仰天、シラミの死骸が列を作ってくっついていた。あちこちで驚きの声が上がっていた。
そこはどこだったか記憶していないが、おそらくハバロフスク付近ではないかと思う。ここでの重労働は、先着部隊が山林を伐採して幅員約15メートルの道路を数キロ建設していた。我々はこの道路の側溝作りを並行しておこなった。道路はラーゲルの門前から建設されていたので作業場は近かった。側溝は幅60センチメートル、深さ1メートルぐらいをツルハシとスコップで1日数メートル掘るようにとノルマが与えられ、炎天下苦闘の連続で手はマメとタコで固くなり、全身日焼けで赤銅色、目玉だけが誰でもギョロギョロと輝いていた。腕の外皮は何回もはげた。シベリアでの土工の経験でツルハシとスコップの使い方は及ばずながら当時から2、3年間は一人前の力があった。流れる汗が乾いて体から塩汗がざらざらと吹き出る感じが続いた。痩せ細った体でよくも耐えられたものだ。監視兵がときどき巡回してきて、片言の日本語でどこで覚えてきたのか「待てば帰るの日和あり」と我々に話しかけてユーモアを振りまく場面もあり、みんなで大笑いしたこともあった。
シベリアでは、夏から秋が駆け足で通り過ぎる。しかして11月までは道路作業の連続だった。12月頃から伐採作業に従事した。ラーゲルの周囲は見事な赤松の森林が果てしなく広がっていた。前にも述べたが、日本兵も測量技師が活躍し、伐採では老練な樵(きこり)さんが采配をふるった。大木を下から眺めたりして、倒れそうな方向を見定めて、帯のこぎりで切れ目を入れるので緊張の一瞬。大木は、バリバリと大音響とともに風を切って倒れ、その方向はほとんど違いがなかった。帯のこぎりで2人交互に引き切った。現代のようなチェーンソーはなかった。5人1組で倒木の枝を払い、一定の場所に集めて10トントラックに積みこむ。積みこみは片側に丸太をかけ反対側からロープを使い巻き上げた。生まれてはじめて経験する山男の重労働だった。「この木材を日本で和風建築に使用したら上等の家が建つだろう」と誰かが話した。
やがて越年、昭和二24年を迎え厳冬が来た。シベリアに来て初めて経験するような豪雪が数回あった。ラーゲルも松林も銀世界で7メートルの積雪もあり、ラーゲル内の除雪作業に苦労した。マイナス40度以下にならないと、作業中止にならず、防寒服に身を包み作業した。まず、倒す予定の大木から四方に逃げ道を作り、大木は積雪を負っているので倒れるときの光景はすさまじかった。ラーゲル内の生活は変わりなく夜は電灯がないのでカンテラ(※携帯用の灯油ランプ)を灯していた。暖房はドラム缶で作ったストーブを利用した。山から取ってきた材木が燃料で、ある程度室温が上ると消灯就寝だった。昭和20年は北鮮で越冬、21、22、23年の冬はシベリアで越冬したが、体は細り栄養失調の兆候がだいぶ出た。
この山奥のラーゲルで24年の春が訪れ、山には樹木や雑草が芽を吹きはじめたので作業休憩時に新芽をよく食べた。初夏から道路作業が開始されたが、いろいろと、デマが飛びはじめたので日本へ帰れるのかと不安だったが、必ず帰ると強い信念でがんばった。しかし夏になるとツルハシが一段と重く感じ、体力の極端な減退を感じたが気力と若さでなんとか切り抜けた。道路もだいぶ延びて懸命に道路作業をおこなっていた。

5.日本への帰還

昭和24年10月20日ごろ、ソ連兵が突然「ヤポンスキーダモイ(日本兵帰る)!!」と大声で集合を命じたので呆然としていると、本部の幹部が「帰還命令が出たので」とそこそこに片付けを急いでラーゲルに帰るよう指示した。はじめ半信半疑だったが皆の中だから「ウワー」と歓声があがった。山林の紅葉が晩秋の夕日にはえて我々の帰還を祝しているかのように思えた。突然のことで胸がときめいていた。いまでもはっきりと記憶に残っている。ラーゲル内を整理してナホトカに向かって出発した。ナホトカまでは貨物列車で数日かかり、大きなラーゲルに収容された。ここは日本兵の帰還のための一時集結基地であ、り我々も1週間滞在して日本からの輸送船を待っていた。軍服や下着その他きれいな物がすべて支給された。シベリアの奥地から続々と集結してくるので大変慌しい雰囲気の中で、昭和24年10月21日、約4年2ヵ月の間、1日たりとも忘れることのできなかった祖国日本への帰還の日が訪れた。
ナホトカの埠頭岩壁には、日の丸の国旗が掲げられた1万トン級の輸送船遠洲丸が接岸していた。1歩1歩タラップを踏みしめながら乗船した。夕方舞鶴港に向かって出港した。船内には甲板上に日赤の看護婦さんが手をまねいていて笑顔で迎えていただいたことが大変嬉しかった。日本海は大揺れに揺れた。船内は大部屋でつかまるものもなく船酔いもあって体を支えるのがやっとだった。船中1泊、翌朝まだ薄暗いなかに甲板上に出ていた者が「見えたぞ」と大声で叫んだので駆けあがって見ると緑色の本土が、朝霧にかすんでいるのが確認できた。もう大丈夫だと心がはずんだ。舞鶴港沖に船は碇泊した。接岸できないので伝馬船(※小型の船)数隻にて何回も分乗して、あの「岩壁の母」で有名な木製の桟橋を渡り、昭和24年10月22日、母国日本への第一歩を踏みしめた。「祖国の土を踏むまでは絶対に死ねぬ」と頑張った甲斐があった。上陸してみると岩壁には「我が夫は妻は子供はいないか」と思いは同じ、真剣な眼差しで見つめる出迎えの人々の列が約1キロも続いていたようだった。生きて帰れた喜びに目頭がジーンと熱くなり、嬉し涙がぽろぽろと頬を伝って流れた。直ちに舞鶴復員(※兵役を解かれて帰省すること)局の仮収容所に入り検疫、その他を係員が調査した。ここでの聞き取り調査はすべて県援護課に保存され軍人恩給(※年金の1種)の資料になっていたようだった。約1週間滞在した。終戦から復員までの兵隊(シベリアを含む未給分)の給料を当時の金で2千数百円を支給された。旧軍隊の衣服も新品を着用し、懐かしい故郷へ向かって舞鶴駅から出発した。
車中「どちらからの復員ですか」と問いかける人もいたが、ふと見ると義足をつけた傷痍軍人が戦闘帽をかぶり、ギターを弾きながら、寄付を求めている姿を見て、大変痛ましく、同情させられると同時に、自分は5体満足元気で帰還できた喜びの感情がこみあげてきたが、何ともいえぬ複雑な思いだった。
復員局から出身地の役場に連絡があったのか、翌日の午後、諫早駅に着くと長兄が出迎えにきていて、7年ぶりの再会だった。長兄は沖縄本島より離れた小島で終戦となり、終戦から1ヵ月ぐらい後に復員したのだった。郷里の湯江駅に着くと驚いた。終戦後もう4年以上過ぎているのに、町内の婦人会の方ほか百有余人ぐらい出迎えにきておられた。戦争に負けての復員だったが、感謝感激で涙があふれた。皆様へ感謝と、お礼の言葉を述べ実家へと急ぐ。実家には、父母、兄弟、妹が集まっていて、嬉し涙の再会だった。元気での復員を喜び心から祝って祝宴を開いていただいた。役場から確たる情報もなく、4年間待ちわびていたようで、特に子煩悩だった母親の喜びはひとしおだった。

結びにあたり
冬来れば思い出すなりシベリアの酷寒に耐え生きのびしこと

(平成22年8月寄稿)