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戦火をくぐりぬけて

2 飢餓をゼロに
ページ番号:0002121 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~戦火をくぐりぬけて~ 中島重雄さん(諫早市西栄田町)の戦争体験

今回お話を聞かせていただいたのは、西栄田町にお住まいの中島重雄さん(74歳)です。
中島さんは、昭和9年にロタ島にて出生され、昭和16年12月8日に始まった第二次世界大戦の終戦(昭和20年)までロタ島で過ごされました。

ロタ島は、当時アメリカの太平洋戦争における軍事拠点となっていたグアム島から約60キロ、サイパン島から約135キロの位置にあり、常に米軍機の往来にさらされているという場所でした。当時、ロタ島は日本の占領下にあり、現地の人々に対して日本語教育がなされるなど、日本人と現地人との親交は非常に深かったそうです。
終戦後は日本に戻られ、現在は諫早市西栄田町にご在住です。現在は西栄田町自治会長として、また、諫早市自治会連合会事務局長も務めておられ地域のためにご尽力されています。

Q.ロタ島へ行った経緯は?

私の父は東長崎の出身で、北海道から樺太に渡り、そこからロタ島へと移り住みました。父は、飲食店、娯楽施設、結婚式場など色々な商売を手がけ成功を収めました。私は昭和9年にロタ島で生まれ、戦争が最も激化した昭和20年には私は小学校4年生(10歳)になっていました。

ロタ島の自宅の前に立つ家族
ロタ島の自宅

Q.戦時中の生活は?

~危機一髪~
戦争が激化するにつれて、ロタ島にいた日本人は全員日本に帰るように命令されました。そこで、船に乗るために桟橋まで行ったところ、そのときちょうど母がお産の時期を迎えており、「船の中で出産したら危険だ」と言われ、船に乗ることが出来ませんでした。しかし、我々が乗ろうとしていたその船は、出航直後に潜水艦による魚雷で沈没し、全員亡くなってしまいました。グアム島から近いため、アメリカの潜水艦に出航するのが見つかり爆撃されたのだと思います。私たち一家は、母が身ごもっていた妹のおかげで命を救われたのです。

少年時代の中島さんの画像
少年時代の中島さん

~家族と共に~
爆撃を避けるため、多くの人が町から山の中へ逃げていきましたが、私の家族は母が出産直後だったため、一家族だけ一晩、町に残ることになりました。
兵隊が部屋の周りを布団で包み、銃弾が突き抜けないようにしてくれました。私たちは井戸に隠れるようにして過ごしました。翌日、母は担架で山へ運ばれ、私たちも防空壕へと移動しました。その後、生まれたばかりの妹は、防空壕の前で母に抱かれたまま亡くなっていました。たぶん、栄養失調だったのだろうと思います。

~死と隣り合わせの毎日~
毎日毎日、道ばたにたくさんの兵が倒れていました。大怪我をして助かりそうにない兵には、注射を打って安楽死させていました。
グアム島からは毎日数え切れないほどの敵機が飛び立ち、日本本土攻撃の前にロタ島に一発ずつ爆弾を落としてから、本土への攻撃に向かいました。常に頭上には爆撃機が飛び交っていました。

~兵隊の一員として~
小学校4年生だった私は、山の中にいた機関銃部隊から海岸にいた海軍の大尉のところへ伝令をさせられました。兵隊と同じ役割を担っていたのです。
ロタ島は、年中暖かいところで、野菜や果物など食べ物が豊富にあり、食糧には不自由しませんでした。山の中で果物などを取ったり釜で芋などを炊いたりして食べました。煙が上がると敵に見つかってしまうので、煙が上がらないように注意しながら調理をしました。

山の上の牧場から負傷した兵隊のところに牛乳を運ぶ際には、広場のような所を通らなければなりませんでした。同級生と二人、一升瓶で二本の牛乳を背負って運びました。すぐに敵機に見つかり爆撃を受けました。私は、岩にべったりと張りついて動きませんでした。同級生はずっと逃げ回って、とうとう爆撃を受けて亡くなってしまいました。
このようにして毎日毎日、何人もの友達が亡くなっていき、同級生で最後に残ったのは私ただ一人になってしまいました。

Q.戦後ロタ島を訪れて

平成2年に妻と共に、ロタ島を訪れました。山の中を逃げ回った記憶を辿りながら島を探索しました。現地で案内人を頼みましたが、山の中のことは自分の記憶が鮮明に残っていて、案内人も驚いていました。
400人近く入れる防空壕が今でも残っていて、現在は入口が封鎖されていました。不発弾等も多数残されていました。現在、日本で不発弾が見つかったら大騒ぎになりますが、当時、私たちは手で持って運んでいました。

防空壕内の様子の画像
防空壕内の様子
大砲の画像
大砲

Q.戦争を体験して次の世代に伝えたいこと

私たちは戦争により、言葉では言い尽くせないような苦労や悲しみを経験しました。
未来を担う子どもたちには、戦争の悲惨さ、平和の大切さを忘れないでもらいたいです。
戦争は二度とあってはいけません。そのことを将来まで伝えていってもらいたいと思います。