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私の戦時の生活と体験

ページ番号:0002119 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私の戦時の生活と体験~ 西村カズ子さん(諫早市立石町)の戦争体験

昭和7年4月 私は諫早尋常小学校に入学しました。服装は洋服、和服と半々でした。男子と女子は別々のクラスで2組ずつありました。今の諫早市庁舎別館のところに、2階建ての木造校舎があり3年生までそこに通いました。

昭和8年12月23日 今の天皇陛下がご誕生になられました。上に内親王様が4人もおられたので、その慶びは殊(こと)の外(ほか)で、全国挙げて祝いました。
学校では私たちは旗行列、夜は大人たちの提灯行列で賑わいました。
「皇太子様お生まれなった」という歌もできてみんなで歌いました。
昭和12年7月7日 日中戦争が始まりました。私が小学6年生の時です。戦況がラジオで放送されていましたが、生活は今まで通りで何も変化がなく、戦争という実感もありませんでした。
隣のおじさんが家のラジオを聞きに来られていたのを思い出すくらいです。

昭和12年12月13日 南京占領との報に町を挙げてお祝いしました。夜には大人たちが祝賀の提灯行列を行い、とても賑わいました。

昭和13年4月 諫早高等女学校に入学。入学式は満開の桜の中を、あこがれのセーラー服に布製のランドセルを背負って登校しました。
現市庁舎の場所は校庭で、図書館の所に校舎と寄宿舎、同窓会館もありました。
その頃中国への召集令状がぽつぽつと来て出征されたので、旗を持って駅まで見送りに行きました。また、時々神社参拝に行き「武運長久」を祈りました。

昭和14年 街角には「満蒙開拓義勇軍募集」や「大陸の花嫁」等のポスターが貼られていました。隣組の回覧板が始まり、「産めよ殖やせよ。国のため」の言葉が流行しました。

昭和15年1月1日 皇紀2600年の記念すべき年を迎えました。

昭和15年9月1日 諫早町は周囲6村と合併して諫早市が誕生しました。
その頃、中国からの遺骨を駅に迎えに行きました。市葬には学校からも参列し、公園頂上の忠霊碑前で執り行われました。
また、出征兵士の家に数人一組になって勤労奉仕に行きました。
土師野尾に行った時雨が降り出しました。家の人が蓑笠をつけてくださり、初めて田植えを経験しました。
生活必需品は全て統制され、配給制度になりました。金などの貴金属は強制買い上げになり、絹製品はナイロン製に替わりました。男子は丸刈りに、女性はパーマ禁止、もんぺ姿になりました。

昭和16年4月1日小学校は国民学校と改称されました。

同年4月13日 日ソ中立条約調印。
※終戦時、ソ連はこの条約を一週間前に破棄して満洲に攻め込み、日本兵を60万人近くシベリアに抑留して酷使し、1割くらいの人はとうとう帰って来ませんでした。
また、北方四島も戦後不法占拠し、未だに返還しません。

同年6月 4年生皆で千人針や慰問袋を作って戦地に送りました。

同年9月 諫早高等女学校が宇都町の新校舎に移転しました。

同年10月 楽しみにしていた修学旅行(東京方面)も、軍部からの「まかりならぬ」とのお達しに中止になりました。

同年10月8日 東條英機内閣成立。

同年12月8日 早朝、ラジオのニュースで「大本営陸海軍部発表。本日帝国陸海軍は米英軍と戦争状態に入れり」と開戦の知らせを聞き、身が引き締まる思いがしました。
真珠湾攻撃が成功して大東亜戦争が始まりました。
時局はひっ迫し、国策に沿って軍国主義は更に叩き込まれ、「欲しがりません。勝つまでは。」と勝利を信じて我慢しました。
こちらの地域ではまだ空襲もなかったので、学校の授業は普通にありました。

昭和17年2月15日 シンガポール陥落で、英軍10万人が降服したとの嬉しい報道がありました。

同年3月 女学校卒業153人。その中数人は都会に進学しましたが、私は親もとを離れる勇気がなく、母校の研究科へ進みました。どこかに籍を置いておかないと挺身隊に呼び出されるので、みんな恐れていました。

同年11月 稲刈りが済んだ広い諫早平野で、大村連隊の大演習がありました。街中の各家庭に三々五々と合宿。市民も活気づいて心から応援しました。
その頃父は1人で裏の畑に防空壕を掘りました。

昭和18年3月 研究科を卒業し、すぐ県の出先機関の東彼北高地方事務所に勤めることが出来てホッとしました。職員は50人くらいでした。3月24日初出勤。仕事は兵事厚生課でした。月額27円の辞令をいただき、毎日のようにガリ版で原紙を切りました。初任給をもらった時は感激でした。

昭和18年4月18日 山本五十六司令長官ソロモン上空にて戦死。

同年5月 この頃になると、アッツ島玉砕・・・等、それとなく耳に入り、敗戦が色濃くなりました。でも日本は決して負けないと信じていました。

同年5月12日 突然、警戒警報発令。初めてのことで驚きましたが、何事もありませんでした。

同年9月1日 18時30分 佐鎮(さちん※佐世保鎮守府の通称)管区及び、西部全地区に警戒警報が発令されましたが何もありませんでした。

同年9月30日 次兄が久留米部隊に入隊することになり、家族写真を撮りました。
同年10月21日 東京神宮外苑競技場での、学徒出陣壮行会の模様をラジオで聞き、翌朝の新聞を見て、その雄姿に感無量でした。

昭和19年4月13日 その年から徴兵検査の対象が19歳からとなったため、19歳と20歳の方が同時に集まり、私が所属する兵事課はこの上なく忙しくなりました。会場は小学校の講堂です。大村から検査官の兵隊さんが数人見えられました。私たちは連絡のため書類を持って事務所から会場まで行ったり来たりしました。講堂には「女人禁制」の張り紙が貼られ、外には二年分の壮丁(そうてい※軍役・労役にあたる成年の男子。徴兵検査を受ける義務のある男子)の方たちが硬い表情であふれていました。

同年5月 通常、軍から直接、町村役場にいく召集令状が、私たちの職場に突然届き、驚きました。残業してその召集令状を各町村に発送しました。

同年6月 度々の警戒警報、空襲警報で落着かなくなりました。

同年7月14日 甲種飛行隊員の検査が終了し、ホッとしました。職員の方々も次々召集され、私たちの主任さんも召集されました。自宅に帰ると長兄も召集されており更に驚きました。その後、兄の妻(義姉)と子ども2人と同居することになりました。

同年8月10日 夜11時20分、西部全地区警戒警報。11時45分、空襲警報が発令される。翌8月11日午前1時頃敵機2~3機が来襲し、諫早上空にて照明弾を落下させました。真昼のように明るくなり、とても驚き、急いで防空壕にかけ込みました。爆弾がどこかに2~3個落ちたような地響きがして、生きた心地がしませんでした。3時10分、ようやく空襲警報が解除になり、ホッとしました。栄田のお寺や民家が数軒燃えたようでした。
※この敵機は中国から来襲したと言われ、その後も何度か来ましたが、諫早市内を攻撃したのはこれきりで、大村ばかり爆撃されました。

同年10月1日 配給がありました。米、麦、粉、うどんなど1人2合5勺程度でした。翌10月2日、仏印(ふついん※フランス領インドシナ。現在のベトナム、ラオス、カンボジアを合わせた領域)に赴任している次兄から軍事郵便(はがき)が届きました。「ここは住み易くてバナナ、パイナップルで満腹だ」とあり、うらやましく思いました。母は毎日のように小野飛行場に奉仕作業へと出かけて行きました。

同年11月1日 隣保班に魚の配給があり、それぞれ人数にわけました。大きいのは半分にしました。風の便りでサイパン、硫黄島などが玉砕したと聞きました。

同年11月21日 午前8時50分。空襲警報が発令され、B29大編隊が来襲。あちこちから高射砲の音が響き渡る。カンカンと警察の鐘が鳴り、数人で重要書類を持って防空壕に飛び込みました。10機ほど上空を通過した後、勇気ある先輩たちが防空壕から出て「アッ」と悲鳴を上げたので、驚いて恐る恐る出てみると、多良山系の上空でB29に日本の小さな戦闘機が体当たりして、火を噴きながら落ちて行くところでした。
ぼう然と見て、こぶしを握り締めながら涙が流れました(※後で聞くと、この時B29に体当たりした飛行機は、大村から飛び立った坂本中尉機(佐賀の人)で、長田の瀬々田辺りに落ちたという。B29は小長井の海岸に墜落したそうです。)。
家の周りの板塀は空襲の時に燃えやすいからと全て取り壊されました。
レイテ沖海戦に初めて神風特攻隊が出撃したそうです。当時、軍人以外でも働ける者は全て軍事施設や軍需工場で働いていました。母も家の近くにある畑を1人で耕していました。食糧難でとても苦しかったです。

同年12月31日 ビルマから次兄の航空便が届き、二度送金したのでお年玉にしてくれとありました。思いがけない事で、両親も私も喜びましたが、軍医はそんなに余裕があったのでしょうか。金額は覚えていません。

昭和20年1月1日 庁舎で新年の式があり、神社に参拝して必勝を祈願しました。家ではみんなで次兄への寄せ書きをして、ビルマに送りました。長兄は京大まで出たのに2等兵で、指宿辺りで毎日アメリカ兵に爆弾を持って突っ込む練習をしていたといいます。

同年2月10日以前から風邪気味でしたがとうとう38度の熱が出て仕事を休みました。徴兵検査に行けず、課の方達に申し訳ない思いでいっぱいでした。

同年3月10日 東京大空襲で東京は全滅したと聞きました。

同年3月19日 空襲警報発令。隣のおじさんが私を背負って防空壕に入れてくださいました。申し訳なくもありがたかったです。

同年4月2日熱が39.2度からなかなか下がらず、お医者様がレントゲン検査をしましょうとおっしゃるので、病院に行く事にしました。当時タクシーはなかったので、父母が人力車を探して来て乗せて連れて行ってくれました。結果は肺浸潤でした。

同年4月26日 とうとう退職届を出して、本格的に療養生活が始まりました。
この頃沖縄に米軍が上陸したという知らせが届き、本土決戦はいつかと緊張しました。

同年5月15日ようやく平熱に下がりました。

同年7月10日毎日空襲、空襲で昼も夜も寝られません。荷物を防空壕に入れたり出したりしました。療養生活どころではありません。苦しかった。
義姉と2人の子供は小川町の頑丈な防空壕に毎日出かけるので、弁当を届けに行っていました。
同年8月6日広島に原爆投下。翌朝の新聞1面の左側の片隅に「新型爆弾投下さる」と小さく出ていたのを今でも思い出します。

同年8月9日 快晴。11時頃爆音がしたので、具合が悪くて寝ていたけれど、起き上がり外をちらっと見てみました。見えたのが一機だったので、偵察機かなと思う間もなく、ピカー!と閃光が走り、ドカーンと大きな音がしました。
その後風が、西から家の中にサーッと吹き込んで、鴨居にかけていた父のカンカン帽がひらりと飛びました。
西の縁側で遊んでいた姪(3歳)が驚いて駆け込んできたので、すぐ抱いて防空壕に入りました。
その後は何も起きないので、昼食をとっていると、外が騒々しいので見ると、西の空から真っ黒い雲がだんだんと広がって来て、夜のとばりが降りたようになりました。太陽は光を失い真っ赤なほおずきの玉のようになっていました。皆、いったい何が起きたのかと不安でした。その雲も3時頃にはだんだんと流れていき、人々も平静を取り戻しほっとしました。近くの農学校(現在の県立諫早農業高校)に駐在していた10人ほどの兵隊さん達がせわしく走り回っておられましたが、何も分かりませんでした。夕方、陽が落ちる頃、たくさんの灰がちらちらと降って来ました。その夜、母たちは婦人会から召集があり、炊き出しと看護を、小学校と中学校の講堂で懸命にしたといいます。
学校には長崎からたくさんの傷ついた人々が運び込まれて来て、どうしたことかと唖然としたそうです。見るに耐えない人々の姿に、はてさて長崎で何が起こったのだろうと不安で落着かなかったといいました。
広島と同じ新型爆弾が落とされたとは、誰も知る由もありませんでした。

同年8月15日 ラジオが朝から正午に天皇陛下の重大発表があるとのことで、緊張して聞きました。
陛下の玉音は無条件降伏。その瞬間、悲しいというより、もう空襲はないのだという思いが強く、ホッとしました。
毎日、病身を押して防空壕に入ったり出たりするのが辛かったのです。
夕方、小さな飛行機が飛んできて「戦争は続けるのだ」というビラが撒かれました。思えば本土は焦土と化し、大東亜侵略の野望は消え、戦争はようやく終わりました。20歳でした。
子どもの頃から何も分からず、徹底的に軍国主義を叩き込まれて、絶対勝てると信じていた自分の愚かさをこの時ようやく知りました。
教育は、人々の「人となり(天性)」も変えるのだと分かり、指針を誤らないようにしなければと反省しました。
とにかく戦後数年は食糧難と病気に苦しみました。

それから約60年、平和な日々を米寿まで生かされてきた幸せに感謝しています。
最後は美しい夕映えであってほしいと願います。

(平成24年7月寄稿)