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私は中学3年生で兵隊になった

ページ番号:0002116 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私は中学3年生で兵隊になった~ 中山英記さん(諫早市仲沖町)の戦争体験

昭和20年(1945年)8月15日、敗戦により中学3年生の私は、死ぬための猛訓練から解放された。
しかし、その後も敗戦という誰も経験したことのない恐怖感、虚脱感、先の見えない不安感。食糧をはじめ極端な物資不足。そして病気を患うこととなり、とんでもない中学3年生の一年を体験した。
今年も広島・長崎の原爆忌が過ぎて、間もなく終戦記念日がやって来る。平和になって68年、日本も世界も異次元の変化をとげた。激動の時代の中学3年生を思い出している。私にも中学3年生の孫がいるが、その子らが私の年になった頃、日本は、世界はどう変わっているだろうか。
今まで両親は勿論、子どもや孫達にもあまり話さなかった、もだえ苦しんだ中学時代があった。民主主義や基本的人権はなかった。いや、その言葉さえ知らなかった。現在の感覚では、想像することさえ難しいかもしれない。戦争を知っている人達は高齢になり亡くなっている。68年前、何があったか思いつくままに書いてみた。

私は、昭和5年(1930年)に生まれ、中学3年生まで軍港があった佐世保で育った。生まれた翌年は満州事変、小学校1年生のとき日中戦争、5年生のとき太平洋戦争が始まり、中学3年生の夏に無条件降伏して戦争が終わった。子ども時代は戦争ばかりで「軍国日本・米英の東亜(東アジア)侵略を打ち砕く平和のための戦争」と教育され「東洋平和のためならば何で命が惜しかろう」と唱わされた。それでも小学校時代までは楽しかった。
私が中学に入る昭和18年には負け戦が続き、佐世保港には軍艦がいなくなった。
軍艦や飛行機を造る軍需工場は、若い工員さん達が兵隊さんに取られ、その代わりに年配の農家や商店の人が徴用工員として、未婚の女性が女子挺身隊、さらに学徒動員といって、中学校や女学校の生徒まで軍需工場で働かされた。このため食糧は足りない。中学校へ入っても制服や運動服はない、靴もないので裸足で通学していた。
中学校の先生も召集(兵隊にとられること)されたため、年配の薬屋さんが数学、詩人の人形屋さんが国語の先生になった。
学徒動員の前に少しでも授業を進めたいと、2年生の夏休みはなし。日曜日も登校し、数学や物理・化学は3年生の分まで無茶苦茶な詰め込み教育を受けた。敵性語(敵国の言葉)といわれた英語も、週に3~4時間ほどあった。
陸軍の将校が先生の「教練」という科目があり、1年生は整列や行進など銃を扱わない訓練、2年生から小銃の打ち方や、剣を付けて敵を刺し殺す銃剣術の訓練などがあった。武道は、剣道か柔道が必修科目だった。
校長先生からは「修身」の授業で戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕虜になってはいけない)や葉隠(はがく)れ「武士道と云(い)うは死ぬことと見つけたり」と今では考えられない教育を受けた。
家では、灯火管制(明りを外に漏らさないよう、筒状の黒い布で電灯を覆った)や停電で、勉強はほとんど出来なかった。
授業を取り止めて、作業に駆り出されることも多かった。空襲による火災の延焼を喰い止めるため、建物疎開といって商店街の建物の取り壊しや、山の上に高射砲台を造るためのセメントや砂の運搬、炭鉱の坑木運びなど、危険で過酷な作業に従事させられた。
2年生の3学期から、佐世保海軍工廠(こうしょう)(軍需品の製造工場)・造機部機械工場に動員された。私達は幸いに1ヶ月間、九州大学工学部の学生から機構学や工作機械について、大分師範の学生から工場で必要な数学などの講義を受けた後、現場に配属された。特攻兵器の部品などを造らせられたが、旧式の機械と慣れない仕事でオシャカ(検査不合格)を作って叱られていた。他校の生徒は地下工場(トンネル)をつくる土木作業など、もっと苦しい作業をさせられている人達も多かった。
4月に工場に爆弾が落ちた。級友等が怪我し、鹿児島二中の生徒が死亡した。その時、ばらばらになった肉片を見て、初めて爆弾の怖さを知った。防空壕に逃げるときは、腰が抜けたようで走れなかった。その後、工場は鹿子前(かしまえ)(現在のパールシーリゾート)の地下工場へ移転したが、狭くて湿気が多く生産能力はガタ落ちした。
6月29日には佐世保空襲で焼け出された。日本海軍もなめられたもので、工場の帰りに友人が、「27~29日のいずれかに空襲するとの宣伝ビラがまかれた」と小声で話した。ちょうど梅雨時だった。家に帰ると、防空壕に入れていた衣類や私の教科書・参考書なども部屋一杯に広げて干されていた。母に「今日は空襲があるそうだ」と話したところ「そんなデマを」と笑い、干した衣類の下で寝た。
「英記起きろ」父のどなり声に飛び起きた。縁側の窓が真っ赤で、物凄い爆音と火災の音が聞こえた。焼けているのは商店街の様だ。両親、小学校1年生の妹、それに1歳の弟と慌てて家の前の横穴式防空壕に避難した(あと2人小学6年生・3年生の弟がいるが、その2人は諫早の叔父の家に学童疎開していた)。防空壕は、隣の有村さんという方との共用で使い、8人が暗い壕に入った。間もなく、年配の班長の本庄さんが「空襲・空襲」とメガホンで叫びながら私の家に来た。近くで焼夷弾の閃光と共に爆発音も聞こえ、班長さんも防空壕に入った。私の隣で震えているのが分かった。急に、物凄い閃光で防空壕の中まで明るくなり「英記出ろ」との父の声で飛び出した。小型のエレクトロン焼夷弾が、家の前で火を吐いている。訓練の様に濡れむしろを掛け、砂袋を投げて、バケツで水を掛けたが消えず、父が大きな水甕(みずかめ)を抱えて投げつけた。消えた!火事場の馬鹿力か。私は怖いとは思う暇がなかった。下隣りの松元のおばさんが「英ちゃん。家(うち)にも落ちた」と呼びに来た。これも松元のおじさんと何とか消し止めた。
佐世保に投下した焼夷弾は、現在「クラスター爆弾」と呼ばれている。投下された容器から、空中で多数の焼夷弾に分かれ、火を吐きながら大雨の様に降ってきた。焼夷弾と一緒に、人間殺傷用の小型爆弾やガソリンも撒(ま)いた。アメリカは人道主義というが、原子爆弾だけでなく、多くの市民を焼き殺した。この空襲で1,200人以上が亡くなり、3月10日の東京空襲では、10万人以上の市民を焼き殺している。我が家の付近は周辺部で、爆弾の投下は少なかったが、中心部では1軒の家に20発以上も落ちて、到底消せる状態ではなかった。
母は弟を背負い、妹の手を引いて、山手へ避難した。私は、父と2人で家の前の空き地から、大火災を眺めていた。万松楼という大きな料亭に火が付いたときは、綺麗と思うくらい茫然としていた。延焼して火が近づいてきたので、絣(かすり)の丹前(たんぜん)に水をかけて頭からかぶり、火の粉を浴びながら避難した。途中、小さな爆弾が何度も炸裂した。山手の高台には、多くの人たちが逃げてきていた。
夜が明けて我が家に戻った。まだ火が燻(くす)ぶっていて、家には近づけなかった。家は借家だったが家具、寝具、衣類、教科書や参考書まで焼きつくされ、着のみ着のまま、丸裸になった。昼過ぎから、目がだんだん見えなくなってきた。夕方、職場から帰って来た父も見えづらいと言う。焼夷弾の強い光で痛められたと思った。2人とも足に火傷があったが、治療できなかった。
翌日、おにぎりの配給を班長さんの命令で、母校の小学校に受け取りに行った。一瞬目を覆(おお)った。裁縫室に黒焦げの死体や、呻(うめ)いている怪我人が、部屋中に寝かされていた。裁縫室(畳の部屋)の隣に湯沸かし室があり、板張りの上に、おにぎりが入った箱が並べてあった。持ち帰って班長さんから1個ずつ貰った。今だったら、黒こげの死体などを見たら、1週間くらいは喉に通らないだろうが、旨かった。
友人たちが気がかりで、焼け跡を500mくらい歩いて驚いた。海軍橋(佐世保橋)のそばの郵便局やお寺(教法寺)も焼かれているが、道向こうの下士官兵集会所(佐世保総合病院)や凱旋記念館(市民文化ホール)は焼けていない。さらに、それに続く海兵団も無傷だった。(戦後これら軍の施設は接収され、現在も一部米軍基地として使用されている。また、市街地の焼け跡は、兵舎や小型機の飛行場、さらに野球場まで造られた。)
2日後の夕方、諫早にある母の実家に、難民の姿でたどり着いた。食事を済ませ、風呂に入って、ぐっすり眠った。しかし、父は1晩、私は2晩位だったろうか、動員中のため佐世保に帰り工場に通った。
あれだけの空襲を受けたにもかかわらず、海軍の施設や工場、倉庫などは全て無傷だった。港には軍艦の姿はなく、工事を中止した空母が岸壁に繋がれ、真珠湾を攻撃した特殊潜航艇の改良型や、(4)艇(まる4てい)「(震洋(しんよう)」と呼ばれるベニヤ板造りの水上特攻艇や魚雷艇がいて、飛行服に菊水のマークを付けた予科練出身の少年兵が乗り組んでいた。唯一、頼もしいと思ったのは、潜水空母と呼ばれていた大型潜水艦が艤装中(ぎそうちゅう)で、水上機を数機積んで、敵の後方基地を攻撃すると聞いていた(この艦は戦後米国に持ち帰り、原子力潜水艦のモデルになったと聞いた。また水陸両用の戦車も見たが、実戦に使われることはなかったようだ。)
沖縄は玉砕し、全国の都市は焼失した。兵器や食糧も無く、戦争が続行できないのは、少年の私にも分かった。米軍機が軍の施設を焼かない理由も、占領後に使用するつもりだと想像がついた。敗戦は近い。しかし、負けたらどうなるのか、占領されたらどうなるのか、全く分からなかった。アメリカなどの欧米人は見たこともなく、鬼畜米英と教えられていた。神国日本と言うものの、神社やお寺も焼かれていた。
本題に入る。兵隊さんが足りないので、中学生を戦争にかり出すため、志願兵の採用年齢を下げた。海軍の飛行兵は予科練出身者が多く、中学校から受験する甲種飛行予科練習生(甲飛)、小学校高等科が乙飛、さらに丙飛もあった。
甲飛は、本来中学4年生(16歳)から受験資格があり、当初は200名程度(乙飛も同数)の採用で、海軍兵学校に次いで難関だった。太平洋戦争に入り採用者数が激増し、最後は受験資格が14歳にまで引き下げられた。
学校に”決戦の大空へ”とのキャッチフレーズをうたった「甲種飛行予科練習生募集」のポスターが掲示板に貼られ、担任の先生から説明もあったが、戦争が勝っていないこと、飛行兵とは名ばかりで、乗る飛行機もガソリンもないことは知っていた。
友達数人と、海軍兵学校(海兵)や陸軍士官学校(陸士)受験の練習に、受けてみようと話し、試験当日に寒稽古(寒い期間にする稽古)がある事や、学校が2日間サボれる、合格しても志願だから断ればよかろうと思い、親にも相談せず、勝手に印鑑を押して担任の先生に提出した。「受けてくれるか」先生の言葉はそれだけで、「親に相談したか」などは尋ねられなかった。試験は、1日目が体力テストと身体検査、2日目が学科試験で国語・数学・物理・化学などがあった。
間もなく、家に合格通知が来た。母が先に見て驚き、泣いていた。友達と市役所の兵事課へ恐る恐る取り消しのお願いに行った。「この非常事態を何と心得ているか」と目から火が出るように叱られた。数日後、警察官が身元調査に来た。事の重大さ、軽率な行動をしたとしみじみ感じ、母に詫びた。命に係わる重要なことを、担任の先生も市役所の課長さんも薦めるほかはない。親はどうすることも出来ない。高校や大学の進学に、先生・親・本人の三者面談が何度もある現在では、到底考えられないことだった。
合格者の中で、早いものは4月に入隊した。その後も5月から7月にかけ、10次にわたって入隊した。これは、収容する兵舎がないためであった。私は当初、10月に防府海軍通信学校(山口県)に入隊することになっていたが、予定が早まり、7月20日に奈良海軍航空隊に入隊することになった。本土決戦のため、戦車へ体当たりする兵隊が必要になったのだろう。
7月15日頃、工場の上司に挨拶し、学校に退学の手続きを済ませ、新しい故郷諫早に帰った。諫早に帰って、これが最後と思い、弟達と泳ぎに行った。息が苦しくて泳げない。過労と食糧不足のため、既に肺を犯されていたのだろう。出発の前日は氏神様(八坂神社)と長田の楠神社で、武運長久(ぶうんちょうきゅう)(出兵した兵の無事)の祈願をして頂いた。夕食は、特別配給の米のご飯を腹一杯食べた。酒は、親戚の大人たちが飲んだが、会話は少なかった。叔母は「英ちゃん、なんでこんなに早く兵隊に行かんばとね。」と泣いてくれた。
沖縄陥落の次は、本土決戦が想定され、上陸予定地は、鹿児島県の吹上浜や志布志湾と聞かされていた。最近、諫早の有喜も予定地になっていて、陸軍の畑(はた)俊六(しゅんろく)元帥(げんすい)が視察に見えたと聞いた(障子紙に書かれ、額装されている元帥の書を見せてもらった)。
アメリカは、空爆と艦砲射撃で、徹底的に壊滅させてから上陸する。既に、日本の多くの都市が空襲に遭い、住民は難民と化していた。予科練に行こうが、家にいようが、死ぬ時は死ぬ。どうせ死ぬなら戦車に体当たりをしてでも、父母や弟妹達が生き延びてくれたらと思うようになっていた。
久し振りのご飯にお腹が驚いたのか、出発の日は下痢をして困った。諫早市民になったばかりなのに、町内や親戚の人が大勢で駅まで見送って下さった。途中、諫早橋を渡りながら、川の流れや多良岳・雲仙岳を眺めた時、思わず「故郷を離れる歌」が頭に浮かんだ。「今日は汝(なれ)を眺むる終わりの日なり思えば涙頬を濡らすさらば故郷・・・故郷さらば」口には出せないので、心の中で歌った。再び生きて故郷に帰ることはないと思った。町内会長さんの音頭で万歳はしたが、軍歌は歌わなかったようだ。
博多までは普通列車、そこで九州各地の入隊者が特別列車に乗り換えた。姫路駅で長時間停車した。のちに、大阪が空襲中で、私達の制服も焼けたことを知った。
2日がかりで奈良県丹波市町(現天理市)に着き、畳敷の兵舎(接収した天理教の宿泊所)に入った。巻き脚絆(きゃはん)(ゲートル)の中を、足元から何かゴソゴソ上がってくる。ノミだった。私は16分隊で長崎・福岡県、17分隊が佐賀・鹿児島県の出身で、ほとんどが中学3年生の14歳だった。
私服から中古の軍服に着替えさせられた。予科練の制服「七ツボタン」が大阪の空襲で焼けたので、代わりの軍服が来るまで入隊式は延期されたが、厳しい訓練は翌日から始まった。2~3日後、代用の3種軍装(一般兵の夏冬兼用服・略装)が配布され、7月25日午前中、炎天下の練兵場(現天理大グラウンド)で入隊式が行われた。
入隊式は1時間位だった。軍人勅諭(ちょくゆ)(天皇が軍人に発した言葉)や司令(一番偉い人)の訓示があり、ほとんど直立不動(気を付け)の姿勢で、軍服の背中まで汗ビッショリだった。しかし、今の様に熱中症で倒れる者はいなかった。
入隊式が済んで、その午後から教班長などの態度がガラリと一変した。優しいお兄さんと思っていたのが、鬼に変った。隣の分隊と騎馬戦があり、私の分隊が勝ったが、気合が入ってない、娑婆(しゃば)(一般社会の事を海軍ではこう呼んだ)の根性が抜けていないと、罰直(ばっちょく)(集団規律を高めるための罰)の洗礼を受けた。水を入れた食缶と、こん棒を見た時、思わず振るえ上がった。樫の棒を削って「海軍精神注入棒」や「特攻精神注入棒」と書かれたこん棒で、思い切り尻を3発打たれた。これが入隊祝いのセレモニーだった。早く入った同期の友人たちは、七つボタンの写真をもっているが、私達は、集合写真の撮影さえなかった。
海軍ではバット(こん棒)で殴ることを「バッター」、拳(こぶし)で顔面を殴るのを「アゴ(顎)」と言う。いつも口の中が切れて味噌汁が飲めないうえ、尻が痛くてトイレも苦痛だった。
「バッター」や「アゴ」は手が痛くなるので、腕立て伏せをさせて、疲れたころで腕を半ば曲げ、片足を上げる「急降下」という姿勢や、手旗(てばた)練習では頭上に八の字を描いて、足を半ば曲げさせる体罰を受けた。人格などは全て否定され、言われるまま牛馬のように、何も考えず命令に従うよう叩きこまれる。間近に迫った本土決戦に備えた、即成兵隊の訓練法だったのだろう。
海軍は、トイレを厠(かわや)、シャツを襦袢(じゅばん)、風呂はバス、布巾(ふきん)はテーブルマッチ、バケツはオスタップと日本語と英語がチャンポンで、同期生同志は貴様・俺と呼ばされた。間違えれば「アゴ」の制裁を受ける。さらに、中学校の教練は陸軍式で習ったが、用語や小銃の部品の名称などが少し違う。中学校で習ったように言うと「陸助(リクスケ)とは違うぞ」とこれも「アゴ」、陸軍と海軍の仲が悪くて戦争に勝てるはずがない。
晴れた日は、陸戦(教練)海軍体操・手旗(てばた)信号・銃剣術・騎馬戦・棒倒し、くたくたになるまで鍛えられた。さらに、夕食後は軍歌演習。現在は、積極的に水を飲ませるが、どんなに汗をかいても飲ませない。手や顔も洗えず、風呂(バス)は週2回くらい、ご飯はアルミ椀(わん)に8分程度で、おかずは、毎日一食は肉か魚がついたが、何時も腹ペコで、小便の色まで変わり血尿も出た。
雨の日は、座学と称する精神講義を受けた。最初の座学で、数学の試験があり三角関数が主だった。学校で習っていない人もいた。「飛行兵が、三角を出来ないとは何事か。なめるな」と出来た人も出来ない人も「アゴ」を3発くらった。目から火が出るのを漫画で見ていたが、本当に火が出たと感じたのは初めてだった。
朝の総員起こしから、夜の巡検・消灯まで緊張の連続。巡検は、就寝の状態で人数等の確認をするが、ラッパの音が淋しいので、泣き声が聞こえる時もあった。陸軍の消灯ラッパは「新兵さん辛いよねー、また寝て泣くのだろー」と悲しく聞こえると聞いていが、それ以上だった。
眠る時は、ノミやシラミに関係なく寝付くが、時々、空襲警報や、嫌がらせの総員起こしで熟睡中に起こされる。「練習生は考えるな。命令どおり動け。」と食事・水・清潔・休息・睡眠すべてを奪われた牛や馬以下の扱い。そのような状況の中、空襲警報で防空壕に避難するのが、唯一の休憩だった。
アメリカ軍の本土上陸が、目の間に迫っていた。「たこつぼ」と称する穴を掘り、そこに爆弾を抱えて潜(ひそ)み、敵の戦車に体当たりする。これが、中学3年生を大量に集めた理由だった。特攻隊のように、形式的にでも希望者を募ることはない。この年代は、体がまだ小さく、身軽で敏捷(びんしょう)。大学や専門学校の学生のように理屈は言わない。お国のためだと言われれば、素直にその気になる。そのうち、毎日毎夜のシゴキで「早く死んだ方がましだ」と思うようになった。
私たちの指導者は、教班長と呼ばれる下士官のほか、飛行機に乗れなかった甲飛の先輩が多くいた。彼らは、私達を引き連れて、戦車に体当たりすることが分かっていた。
遣(や)るかたない憤懣(ふんまん)を、私達にぶつけて来る。憤懣(ふんまん)の餌食にされた私達こそ哀れだった。「早く戦地に行きたい」と言う者が多くなった。
広島に新型爆弾が落とされたのは直ぐに知らされ、空襲で避難するときは、白い毛布を持ち出し、防空壕ではそれを被るように指導された。一般市民には教えなくても、私達は大事な「人間爆弾」だからだろう。8月9日、ソ連が参戦したことは聞いたが、長崎に新型爆弾が落とされことについては、出身者が多いためか知らされなかった。
8月15日正午に、陛下の放送があるとのことで、3種軍装を着て、航空隊全員が練兵場に集められた。カンカン照りの暑い日だった。直立不動(気を付け)の姿勢でラジオを聴いた。雑音ばかりで、内容は全く分からなかった。「ソ連が参戦し、本土決戦が始まる。」と思った者が多かったが、負けたと思った者は誰もいなかった。
夕方になって、少しざわついた雰囲気になった。分隊長の話を聞くため集合した。日本が降伏すると聞き、悔しかった。皆、手放しで泣いた。今後、私達はどうなるのか、何も分からない。北九州の勇ましい男が、切腹すると言いだした。手榴弾で自決しようと言う者もいたが、私は怖くて御免だと思った。
翌日、近くの大和航空隊の戦闘機が、徹底抗戦のビラをまいた。分隊長が「生きて虜囚の辱めを受けず。貴様達は軍人である。本日から挺身(ていしん)(捨て身)切り込みの訓練をする。小銃に着剣して、手榴弾の1発は敵に投げ込み、後の1発で自害せよ」と言った。小銃は教練(練習用)銃で弾は撃てない。玉砕戦術の匍匐前進(ほふくぜんしん)と、突撃の猛訓練が2~3日間続いた。訓練の前、両親宛に遺書を書かされた。「死にたくない」とは書けない。「もう一度だけお会いしたい」せめてもの抵抗と思った。乙飛の分隊で逃亡者が出て「敵前逃亡だから銃殺」と聞かされた。この時ほど、中学生と軍人の違いを実感したことはなかった。その後、逃亡兵はどうなったか知らない。
8月18日頃、訓練は中止になり、武装解除のため小銃や帯剣(たいけん)(腰に下げる剣)・機関銃・擲弾筒(てきだんとう)(小型爆弾などを発射するためのもの)などを手入れし、ノートや教科書などを焼却した。午後5時、最後の軍艦旗降納があった。京都大学出身の予備学生が「何時(いつ)の日か、もう一度ここに集まってアメリカをやっつけよう」と激を飛ばし、「同期の桜」を歌った。皆泣きながら歌い、負けて悔しいと本気で思った。
日暮れに、兵器を練兵場に運んだ。帰りに、農業用ため池に電灯の明かりが映(うつ)っていた。その時、平和が来たと実感した。兵舎に帰ると電灯の覆いがとられていて、夕食に大きなボタ餅がでた。今でも、人生最高のご馳走だと思っている。その日は、上官に殴られた恨みや戦争に負けた悔しさ、死なずに済んだこと、電灯が明るくなったこと、アメリカや中国兵にどんな扱いを受けるのか等、色々な思いが錯綜した。その後、上官が殴らなくなった。兵舎で飼っていた豚を処分し、肉料理やゼンザイなどのご馳走が出て、ご飯の量も増えた。
8月20日頃、「貴様達は故郷へ返す。」と言って帰宅の準備が始まった。当時、復員と言う言葉はなく、私達は中学生だから返され、上官たちは、アメリカ兵が来るまで残されて捕虜になると思っていた。
帰りには、軍服(3種軍装)・軍靴・毛布・下着類、さらに飯盒(はんごう)や水筒などを衣嚢(いのう)(リュック)からはみ出すほど貰った。戦災で、何も着るものがなかったので、高校を卒業するまで軍服で済ました。
帰る日の前夜、長崎市に帰る者が集められた。しばらくして、みんな目を腫らして帰ってきた。「長崎に新型爆弾が落ち、家族は皆亡くなっているだろう。70年は草木も生えない状況だ。どこか、他に帰るところを変更するように」と言われたとのことだった。しかし、「親や兄弟の骨を拾わなければならない」とみんな長崎に帰ることになった。
朝食後、大きなオニギリと、ゼリーの入った乾パンや缶詰を貰って駅に向かった。みんなが、汽車が発車したら殴られた教班長に投げつけようと、小石を拾ってポケットに入れた。生憎(あいにく)、貨物車だったため、ドアが閉められ、恨みを果たすことは出来なかった。
大阪駅に着いたが、見渡す限り焼け跡である。私たちは、中学生の兵隊だけ返されると聞いていたがウソだった。各地から帰る陸軍も海軍も、若者も老兵も、ぎゅうぎゅう詰めの客車に乗り換えた。何時に発車するか分からない。喉が渇いても、水汲みに行けない状態だった。
そんな中、汚れた子ども達が大勢来た。「水を汲んで来てやる」と言う。みんな水筒や飯盒(はんごう)を出して頼み、オニギリや乾パンを分け与えた。しかし、発車のベルが鳴っても、子ども達は戻って来ず「やられた」と思った。
この戦災孤児達も、今は高齢者になっている。戦後の混乱期をどの様に過ごしたろうか。高度経済成長を支えたことだろう。平穏な年金生活者でいてほしいと思っている。
神戸や姫路など、都市はみんな丸焼けで、姫路城だけがドーンと立っていた。広島に着いたのは夜明け頃だった。見渡す限り焼け野原で、まだ火が燻(くすぶ)っている感じさえした。鉄道の復旧が完全でないためか、何時間も停車し、放射能をだいぶ吸っただろう。
広島を除いて、どの駅のホームも、レールや鉄橋などは破壊されていなかった(これを書きながら「アメリカは、戦後の占領政策まで考えて空襲したのだろう」と思った。鉄道などが破壊されていれば、後の朝鮮戦争や占領政策に影響したと思う。勿論、戦後の復興にも助かった)。
やっと、門司港に着いた!九州に戻った!ここまで来れば歩いても帰れる。
停車駅ごとに兵隊達は降りて行ったが、一般人も乗り込んで超満員だった。予科練仲間とは、別れの挨拶も出来なかった。諫早駅で何人も降りたが、奈良海軍航空隊の仲間は2人。ここで初めて、お互いの住所をメモした。島原商業のMさんだった。この人だけは、その後に何度も会ったが、ほかの戦友の消息は名簿等もなく、全く分からない。
ようやく、地獄の予科練から生涯の故郷、諫早に帰った。諫早は、1月前と変わっていなかった。母は涙を流して喜び、私は死んだように眠った。翌朝、熱っぽいので体温を測ったら微熱があり、2~3日後には、林医院(現在 諫早郵便局)に入院した。病名は湿性肋膜炎。薬も注射も殆(ほとん)どなく、ブドウ糖の注射を受けた。父や弟達が掘ってきてくれる彼岸花の球根をすり潰して、足の裏に貼る湿布が最高の治療だった。
9月2日、15歳の誕生日を迎えた。この日、東京湾の戦艦ミズリーの甲板上で、降伏調印式が行われ、日本は敗戦国となった。
9月中旬頃、アメリカの占領軍が病院前の国道を通って、小野の航空隊跡に駐屯した。トラックやジープ、水陸両用車に乗った兵隊、多くは自動小銃を肩にかけ、チューインガムを噛みながら、隊列もバラバラに歩いて行く。「この野郎」と思い、興奮して体温が38度を超えた。しかしその後、アメリカの占領軍がブルトーザーやパワーショベルで、病院前の穴ボコの道を修理しているのを見た時、戦争に勝つ訳はないと改めて納得した。
食事は、弟達が毎食運んでくれた。今考えると、家族の食べ物を随分独り占めにしたように思っている。牛乳は、通常手に入らない貴重なものだったが、農学校の牛乳を親戚のお世話で毎日1合、さらに、弟が飼っている鶏の卵も頂戴した。病院には、ラジオや新聞もなく、初めは退屈したが、叔父が本好きで、日本文学全集を全巻揃えて持っていたため、病院に数冊ずつ持ってきてもらった。さらに発禁の書「蟹工船」までも毎日読みながら病院生活を送ったが、病気の回復が早く、2カ月あまりで退院した。
最近、共済年金の訂正で、厚生労働省から履歴書の写しを貰った。

昭和20年7月25日 奈良海軍航空隊ニ入隊(海軍二等飛行兵)
同日 甲種飛行予科練習生ヲ命ス
昭和20年9月1日 現役満期(海軍上等飛行兵)

私が兵隊であった、唯一の証拠である。就職する時、「軍国少年や予科練崩れと思われるから、履歴書に兵歴は書くな」と学校で指導された。
当時、日本で、いや世界中で最も若い正規兵だったし、最速の進級だと思う。昭和25年頃、警察予備隊が発足する時、警察から「下士官で採用するから、応募しないか」と勧められたが、もうコリゴリと思い断った。
甲種飛行予科練習生の採用は、昭和16年までは、毎年200人程度だったのが、17年は1,000名以上、18年度に(13期)2万8千名、19年度は(14期)が4万1千人、15期が3万7千名、昭和20年度(16期)が4月から敗戦当日の8月15日まで、10次に亘って2万5千人が、奈良や高野山の宗教施設、宝塚の音楽学校など、各地の急造した航空隊に入隊させられた。諫早の小野島にも、予科練を卒業した飛行練習生が「赤とんぼ」の愛称で呼ばれる複葉(ふくよう)練習機に乗っていた。
予科練習生とは、本来は教育を受ける生徒であるが、練習用の飛行機もない、ガソリンもない中で、20年6月に飛行兵としての教育は中止され、整備兵という名の陸戦隊に変更された。しかし、そのことは最近まで知らなかった。特に、敗戦直前に入隊した私達は、本土決戦に備えた急造の兵隊で、教育とは程遠いものだった。
今では、極めて短期間に良い経験をしたと思える時もあるが、戦争は絶対にしてはならない。
現代は、何を言っても、何を聞いても怒られたり、警察に捕まることはありません。みなさんも平和について友達や家族と話し合って下さい。

(平成25年8月寄稿)