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旧満州からの引揚げ体験

ページ番号:0002115 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~旧満州からの引揚げ体験~ 永島美惠子さん(諫早市白岩町)の戦争体験

旧満州(中国東北部)ハイラル市で迎えた昭和20年8月8日は、私達家族6人が揃った最後の日になった。運命の日の前夜、私は、のん気に姉と映画を見に行った。家には来客があり、家族の笑い声が響いていた。
翌8月9日の早朝、爆弾の音で目覚めた。ソ連軍が侵攻して来たのだ。家の中は、割れたガラスが散乱していて恐怖に震えた。家から10数メートル先の市立病院に投下されたのだ。「ただちにこの街から逃れよ」と市公署(市役所的なもの)から指令が下された。
観象台(気象台)に努める父は、数人の所員と共に職場に残り、所員の家族と私達母娘十数人で街を出た。父は、長崎測候所(後の長崎海洋気象台)に勤めていたが、昭和7年の満州建国により、昭和9年大志を抱いて満州へ渡ったと聞いている。
別れ際に父が言った「どんな場に遭遇しても、日本人として恥ずかしくない行動をとるように、命を大切に。」の言葉が胸に残っている。その場が父との永遠の別れとなった。
後日聞いた話によると、職場に残った父一行は、通信網が切断されたため、関東軍からの指令により、興安嶺(こうあんれい)(中国東北部)に連絡に向かい、その後に消息不明となったとのこと。敵の銃弾に倒れたか、疲労困ぱいで力尽きたか知る者はいない。
私たちは家を出て、炎天下を歩きに歩いて、やっとたどり着いたハイラル駅は、火の海だった。
関東軍の官舎はもぬけのからで、前日に情報を得て、一般市民を置き去りにして撤退していた。
夕暮、行き先も分からぬまま無蓋車(むがいしゃ)(積荷を運ぶ貨車)に乗せられた。途中、ソ連機の襲来に遭遇し、貨車の下に隠れたり恐ろしい体験をした。やっとたどり着いたチチハルで終戦を迎えた。母37才、姉16才、私10才、妹8才、一番下の妹は8ヶ月だった。それからは、私達母娘の「生きる闘い」が始まった。
母は、中国人の子供の乳母や掃除婦をし、姉はウエイトレス等々をした。私は、煙草工場へ働きに出たが、ここでは作業中に煙草の粉が口に入るので、2日で辞めた。次に始めた仕事は、見世物小屋や食堂があり大勢の人が集まる巨大公園での「煙草売り」。客が私の前に来ると、他の売り子たちがわっと集まって来て、小さい私はいつもはじき出されていた。1日中立っていても、売れるのは1個か2個だった。次に始めたのは「西瓜(すいか)のハエ追い」。炎天下、台の上に切って並べられた西瓜(すいか)にたかるハエを、羽のうちわで追い払う作業だが、時には居眠りをして、ハエの襲撃を受け、赤い西瓜(すいか)の面が真っ黒になっていることもあった。夕方、ソ連紙幣の日給10円を握りしめて、家路についた。そのような日々を過ごしていた。
太平洋戦争終結後、昭和21年5月から、順次、日本への引揚げが開始された。8月下旬に私たちは、日本へ帰るためチチハルを出発し、1ヶ月近くかかって引揚げ船が出港するコロ島に到着した。攝津丸(せっつまる)に乗船後、船酔い等に苦しみながら9月末に佐世保の浦頭港(現在のハウステンボス付近)に着いた。
上陸時、検疫所にてシラミなどの防疫対策としてDDT(消毒薬)の粉末をあびせられ、体中真っ白になった。その後、南風崎(はえのさき)駅から汽車に乗り、諫早を経てやっと父の故郷である深江に帰り着いた。当時10才の私には、大変な体験をした1年だった。
佐世保市針尾の浦頭公園に「引揚げ記念館」があるが、館内には当時の貴重な品々が展示され、引揚証明書や上陸時の検便で使用したガラスの棒、飯盒(はんごう)・衣類・引揚船の写真等がある。皆さんも、展示品を通して、当時の様子を知り、戦争の恐ろしさを少しでも感じて欲しいと思う。

(平成25年10月寄稿)