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終戦前後

ページ番号:0002114 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~終戦前後~ 山口悦夫さん(長崎市)の被爆体験

昭和20年8月9日長崎に原子爆弾が落下し、一瞬のうちに亡くなられた方、その後原爆病院外その他で次々に亡くなられた方達に対し、被爆生存者の一人として、心からご冥福をお祈りします。

当時私は九州配電(現在の九州電力)の諫早営業所に勤務していた。その年の8月1日、長崎の浦上地区に空軍の爆撃があり、配電線等も被害を受けた。その復旧工事依頼があり、私が諫早班長を命ぜられ、作業員6名を編成した。翌2日から1週間の予定で、毎日諫早―長崎間を通勤し、寸断された各家庭への引込線の改修工事に従事した。茂里町にあった三菱製鋼所付近は、高圧線の被害が最もひどく、主力班はこの復旧工事に集中されていた。(この方達の大半が後日の原爆でなくなられた。) 私たちの班は、幸い7日に工事を完了した。私は、8日に諫早で整理精算をし、翌9日に工事完了の報告のため長崎に行くことにした。
8月9日、私は、諫早発八時頃の汽車に乗り長崎に向かった。発せられていた空襲警報も途中で解除になり、警戒警報に切替えられた。浦上駅で下車し、借りていた工具を返すため、稲佐橋のそばにあった長崎火力発電所(数時間後全壊)に立寄り、10時頃、五島町にあった九電事務所に着き、精算報告を済ませたのが11時だった。帰途につくため会社の玄関から電車通りに出た瞬間だった。まず「ピカッ」と目が眩むような光線が走り、盛夏の太陽が照りつける長崎の街に、写真の「マグネシウム」のものすごい量を一面に焚いたように、黄色の煙がもくもくと巻き起こる中につつまれ一寸先も見えなかった。とっさに大型焼夷弾が落ちたのかと思った。
待避しようと思って走ろうとした瞬間、今度は「ドーッ」と爆風に飛ばされた。それからどの位の時間か失神していたようだ。突然、家の梁のようなものが足に落ちてきて目が覚めた。目が覚めた途端、まるで硫酸でもかけられたように「頭、顔、腕」にものすごい熱さを感じた。タオルを取り出し、熱さを払おうと身体をさすった。しかし、熱さは増すばかりであった。頭は髪の毛が「ジリジリ」と焼けるように熱い。かぶっていた戦闘帽は近くに落ちていた。半分は黄黒く焼けこげていた。空襲警報が解除されている時だったので、せっかくの防空頭巾が、首に巻いたまま背中にあるのが残念だった。とにかく会社に行こうと決心し、戦闘帽をかぶり直し、痛い足を引きずりながら立ち上った。
会社に着くと、鉄窓玄関の「シャッター」などは飴でも曲げたようになっているが、建物自体は大丈夫のようだった。社内にあった防空壕の中から傷ついた女子社員たちが這い出していた。普段気強いH嬢が髪をふり乱し顔面は血だらけになりながら「私はやられました」というような言葉をくり返し泣き叫んでいる姿。窓ガラスが吹き飛ばされ、その破片で傷付いた女子社員が血だらけの髪をふり乱してあちこちで泣き叫んでいて、ものすごく、また憐れな姿であった。社内は、右往左往する人の群れで一杯だ。混乱の中に連絡があり、無傷の者は社内に待機して指示を待ち、負傷者は市内の病院等で適宣治療をうけることになった。
私には、今から治療できる病院を探して火傷の手当を受けて、今日は長崎で適当に休養し、明日は任務があるので朝から会社に出勤するよう命じられた。両親が心配していることと思うが、連絡のすべもない。治療には女子社員が1人付添ってくれることになり、近くの井手外科に行ったが、爆風で薬品など散乱し治療不能であった。人に聞き、新興善小学校の緊急治療所に行ったが、負傷した軍人がいっぱいで受付けてくれなかった。傷は痛むが仕方ない。道路には、負傷して動けず「熱い熱い」「水をくれ」と言いながら道端に座り込んでしまう人や付添われて治療所を探す人でいっぱいだ。勝山小学校の治療所にたどりつき、軍人優先で待たされたあげく、やっと火傷薬をもらった。付き添いの女子社員から、薬を頭、顔、腕に塗ってもらい、包帯がないのでタオルとハンカチでくくってもらった。
女子社員と別れ、愛宕町に叔母がいるので泊めてもらうべく訪ねたが、家具類が倒れて散乱しており片付け中で、休むことも出来ない状態だった。仕方ないので、あてもなく会社に泊めてもらおうと歩くうち、小島町で女子社員の方と逢い「ここで休んでいきなさい」と勧められ、屋外で家族の方達と一緒に休むことにした。
薄暗くなった高台を望むと、県庁や女子商業校舎等が炎々と燃え上っていた。茂木方面から、けたたましいサイレンを鳴らしながら消防車が数台火災現場へ向った。ようやく夜が訪れようとしていたが、炎はますます拡がり、長崎の街は火の海と化しているようだ。やがて、力尽きたようなサイレンを鳴らしながら先程の消防車が戻って来た。聞けば県庁から浦上方面にかけて火の海で、延焼防止どころではなく、ただ焼けるに任せるほかはないとのことだった。
こうして私は、茂木街道の防空壕側で皆と一緒に一睡もしないまま、不安と心配のうちに魔の一夜を明かした。朝、会社はどうなっているか心配しながら出勤した。幸い会社は建物が強く、火災からも免れていた。隣にあった缶詰倉庫は焼失して焼跡はまだくすぶっており、残った缶詰が「パンパン」と無気味な音を立てながら破裂していた。小遣室(用務員室)では女子社員が集まり、おにぎりにたくあんの炊き出しが始まっていた。
炊き出しの朝食を食べていると、支店長室へくるよう呼ばれた。途中、中2階の宿直室を見て驚いた。何と言えばいいのだろうか?人間がまるで木炭のように真っ黒に焦げ上がり、かすかにうめき声が聞こえるような重傷者が、数体運ばれ寝かされていた。よく見れば先日まで一緒に復旧作業をしていた外線班の人達である。急に目頭が熱くなり涙がにじんだ。この人達は、復旧作業が続いており、作業中被爆されたのだ。ほかにも相当数の作業者達がおられたがどうされたんだろうか心配だった。中には福岡勤務時の友達も福岡から応援に来ていた。
支店長室につくと、支店長を始め各長が集まり、被害状況の集約や復旧工事応援依頼等の検討会が終ったところであった。その内容報告書を私が持って諫早に行き、諫早営業所長に手渡し、所長から福岡の本店にすぐ電話連絡してもらうのが私に与えられた任務であった。どうやって諫早まで行くかについても検討された。多少きついが日見経由で、徒歩で行けば安全ではあるが、「被爆地を縦断すれば道の尾駅から汽車に乗れそうだ」ということで、これに従うことになった。支店長は、報告書に添えて、机の引出しからバラの煙草を10本程取り出してくださった。昼食のおにぎりをもらい腰にぶら下げて会社を出発した。
長崎駅は完全に燃焼して残骸がくすぶっている。あたり一面燃え尽し、余燼がくすぶり、鉄道線路、電車線路とも瓦礫の山に埋もれ、その位置も分からないくらいだ。進むにつれて被害がひどくなった。道は全然分からない。私は焼死体と瓦礫の間を歩き続けた。家族や知人を探し回る人たち、水をほしがる人、ぼんやりあきらめたように立ちすくむ人、30代の息子と思われる大きな死体を背負った老母も見かけた。
幸町まで来た。紡績工場が捕虜収容所となっており、捕虜たちも被爆していた。重傷者たちを戸板に乗せ、捕虜たちがかつぎ、日本の軍人が付添って運んでいた。突然、空襲警報が発せられた。「待避、待避!」とあちらこちらで声が上った。その戸板の上に乗っていた重傷の捕虜たちも戸板から飛び降り待避しかけたが、2、3歩走ってバッタリ倒れ、そのまま息絶えた者もいた。人間の生に対する執着の強さを垣間見たようだった。
茂里町にくると、広大な建物の三菱製鋼所は、鉄骨が一面にねじ曲り全壊している。さらに進むと、走行中の電車が被爆し、その残骸の中に乗客が座ったまま数人焼死体となっている。「つり革」を握ったまま焼死体になった人もいる。三輪車のハンドルを握ったままの焼死体など、あわれな光景が広がる。
また、女子報国隊の寮跡であろうか、建物が全焼して、17、18歳くらいの女子学生が夜勤明けで就寝していたのか、折り重なって死亡している。幼児を自分の体で庇いながら死亡している母親もいる。お腹が破れて腸が飛び出し風船のようになって風にゆれている死体もある。損傷がひどく男女の区別も解らぬ黒こげの死体の山が続いている。大橋の川辺には水を求めて人と共に数頭の馬も死んでいる。大橋、松山、山里この辺一帯に広がる、3,000℃といわれる光線をあびた光景は、この世の出来事とは思えぬ地獄絵図というか、表現することができない。
私は、傷の痛みや疲れも忘れたかのように、空襲警報が鳴ると死体と一緒に折り重なり、死臭にむせ返り吐気をもよおしながら壕に待避した。B29が2機、東方から飛来して「ビラ」を撒いたのだった。拾ってみると「米軍は、今度新型爆弾を使用した。その威力は充分わかったことと思われる。この爆弾で日本全土は灰となる。天皇陛下も大変心配されているから、日本は早く降服した方がよい。」このような要旨が、日本語で印刷されていた。数人の人も拾っていたが、間もなく憲兵が回収にまわり取り上げられた。
地獄の場所を悪戦苦闘の末、やっと道の尾駅にたどりついた。私は、食欲はなかったが、喉はカラカラに渇いていた。駅の入口にあった井戸には長蛇の列がつくられていた。喉の渇きに耐えかねて列の後に並びかけたが、何だか気になって我慢した。駅員に尋ねると「ここまでは汽車が来る」とのこと。時間は分らないが、重傷者を諫早と大村の軍病院に運ぶ列車とのことだった。ここは、無惨な重傷者であふれていた。主に旧制五高、熊本高校の学徒動員の学生が大半であった。真黒に焼けただれて手足のない人もいる。一般の乗車は禁止されていた。重傷者優先で、一人で歩ける程度の軽傷者が乗車できるのは夜になるだろうとのことだった。
私は、駅長に支店長の報告書を見せて、重要な任務である事情を説明し、やっと今度来る列車に重傷者と一緒に乗車できることになった。待つこと1時間ほどして列車が来た。重傷者と一緒に乗せてもらえたものの、車内は異様な悪臭が立ちこめていた。満員の列車内は、人間が真黒く生焼けされて目玉だけがギョロギョロした、目を背けたくなるような者ばかりだった。途中、その悪臭のため気分が悪くなり、何度か「下車して歩こうか」と思ったが、任務のことを思うと「一刻も早く着かねばならぬ」と我慢した。
ようやく諫早駅にたどり着き、疲れきった身体を這うようにして、当時は公園橋の側にあった営業所まで歩いた。報告書を所長に手渡し、事情を説明し終わったら、昨日からの疲れでそのまま失神してしまったようだった。その後のことは全然わからぬまま、気がついた時は、どうして運ばれたのか、城見町の自宅に寝かされていた。心配して見つめている両親の顔が目に入ったとたん、私は思わず涙が溢れだした。すでに日が暮れようとしていた。
長崎から諫早まで、この2日間は長い長い日数がかかったように思えた。傷は痛み、鼻についた悪臭は取れず気分が悪い。しかし、無事に大任を果たした心の安らぎはあった。 翌日連絡があり、重傷者は諫早の海軍病院に入院し、軽傷者は諫早小学校(現在の市役所のところにあった)の講堂に通院治療することになった。会社からも連絡があり毎日治療をうけ静養するようにとのことだった。私の闘病生活が始まった。
早速、私も杖をつきながら毎日通い始めた。広い講堂の中は足のふみ場もないように負傷者が収容された。市内の婦人会の方達が介護の応援をされており、また、小野地区の婦人会からは白米のおにぎりに、たくあんを添えてご馳走になった。私は頭と右半身の火傷の治療であった。そのうち黒人の頭のように丸くちぢんだ焼けた頭髪が、触るたびに「ボロボロ」と抜けだし、また、下痢もひどくなった。
開業医に診てもらうことにし、馬に乗って、往診もされていた近所の荒木医院や、新橋近くにあった余瀬医院にも通院を始めた。多量の放射能を吸い込んで侵された内臓は、なかなか治らなかった。当時はまだ原爆症の治療等医師も不明で、「こんな状態が長く続けば生命の保証は出来ない」と言われ、海軍病院や診療所は毎日のように数人の死者がでている話を聞くと心配でならなかった。
母はドクダミ草や色々の薬草をあちこち聞き集めて、飲んだりつけたりしてくれた。また母は、婦人会で海軍病院の治療手伝いにも行きだした。入院患者のウジ取り作業が大半で、真夏のこととて重傷者の傷口が腐敗してウジが湧きだしたとのことだった。毎日箸とバケツを持って行き、負傷者の口や鼻等から這い出るウジ虫を箸で取ってやる仕事らしい。重傷者の中で特に多い人は一人でバケツ1杯も取れると話していた。当時は薬品も不足し、治療方法も解らない中での闘病生活は、今から考えると想像も出来ない苦しいものだった。かくて8月15日、陛下の終戦の言葉を自宅の病床の中で聞いた。母の必死の看病により、幸い下痢の回数もだんだん少なくなり、火傷の後も薄くなり快復していった。
終戦によって、今まで張りつめていた気持ちが溶けて、何だかうつろな開放感が訪れた。しかし、無条件降伏により「今後日本はどうなるのだろうか」との不安な気持ちも高まる。果たして数日もたたぬうちに、誰からともなく長崎に占領軍が上陸するといううわさが広まった。「アメリカ兵だ」「いやソ連兵なども来るかも知れぬ」という不穏な状態となった。「貴重品や婦女子は当分山奥に避難したがよい」とのうわさが広まり、最小限の家財道具を持って、小学校の頃によく遠足に行って遊んだ目代の野原から少し入りこんだ多良山麓に避難が始まった。この頃には、どうにか私の身体も快復し、会社に出勤できるようになった。
まもなく、小野平野の中心で、国道から諫早湾よりに少し入りこんだ所にあった旧軍の飛行練習場に、約千人の米軍が進駐する通知を受ける。九電も、大村にあった旧日本軍の電気材料を運搬して、突貫工事による専用配電線の建設が始まった。私は、米軍兵舎の電気主任として常駐することになった。建築、土木、電気、水道、通信など各関係業者が動員され、占領軍の兵舎造りが急ピッチに行われた。だいたい工事が完成する頃、続々と米兵が進駐して来た。街中の要所には紫地に白で「MP」と染められた腕章を付けて小銃を持った米兵が配置されて治安の任務についた。日本側は、諫早市長の池松林一氏が総指揮者となられ、受入態勢の指揮と米軍との折衝にあたられた。問題が生じた場合は、市役所や、時には市長宅に関係者が集まり打合せが行なわれた。
ある日、私は命がけの危険なことを体験した。それは、米兵3名と大村の旧軍の倉庫まで配線材料を取りに行くことだった。運搬車は、水陸両用の上陸用舟艇で、周囲は全部鉄製で車輪が付いた舟艇で、大きさは10トントラック並であった。彼等は以前に運搬した事があり、地理や相手方との連絡はついているとのことだった。彼等は運転台に乗り、私一人が後ろの荷台に乗せられた。幹線道路に出たらスピードを上げだした。訓練された運転は荒く、当時はまだ舗装されてない道路で凹凸が激しく、大きな空車がバウンドする度に飛び上り、手がかりにつかまってはいるものの身体全体が飛び上り、腕はちぎれんばかりの状態が続いた。いつ車外に飛ばされるかと死にものぐるいが続いた。前の運転者には連絡のつけようもない、「原爆でせっかく助かった命だ、こんな事で死んでなるものか」と神仏に祈った。やっと到着し安心した。帰りは材料をいっぱい積んだので無事だった。
間もなく通訳も動員され、私は、兵舎の中の受電室勤務となった。同時に、米軍側から電気要員として、ジョンという名前の下土官が紹介され、生まれて初めて米軍人と握手をした。昨日の敵は今日の友となり、この日からジョンとの公私にわたる親交が始まった。当時、私は23才であったが、奇しくも、彼も同年で、米本国では機械技師とのことであった。初めは言葉が通じないため、通訳の方の世話になっていたが、お互い不自由で仕事がはかどらず、ジョンが駐留軍用の日常会話英和辞典を私のために特別にもらってきてくれたので、仕事の合間にお互いが先生となり、英語と日本語の特訓がはじまった。
ジョンの案内で兵舎内照明の新増設工事、配線検査、保守工事等を作業員と共に行い、指導監督をするのが当面の私の日課であった。兵舎が足りないため、広い飛行機の格納庫も兵舎に改造され、にわか造りのベッドが何十となく作られた。その各ベッドの上に電灯を1灯ずつ付ける工事をまず始めた。兵隊達はベッドに寝ころびながら、1灯つけるたびに20本入りのアメリカ煙草を「サンキュー」といって「ポン」と上にほうる。こちらも「サンキュー」と言って受取る。ほほえましい光景がだだ広い室内のあちこちに見受けられた。不点事故などで修理に行っても必ずといえるくらい、タバコやガム、石鹸などをくれた。物資が欠乏している当時においては、どれも非常に有難い品であった。米軍側も宣撫工作の1つとして用意していたらしく、我々関係者以外の雑用作業員を始め、通行人や子ども達にも、彼等が外出した時は小さな袋に入れたガムや石鹸、砂糖、菓子、1本入煙草などを渡している光景が見受けられた。なかには、こちらから欲しがって無理にねだっている者も多く、敗者の悲哀を痛感した。
また、双方誰もが困ったのが雨天の時だった。なにしろ、小野平野の真中だけに周囲はみな田んぼで、構内も軟らかい土が多く、雨が降ると一面ぬかるみと化した。その上を相当数の人たちが行き来するのでたまったものではない。下半身泥だらけの人もいる。室内に入るためには、その都度時間をかけて洗い落とさなければならなかった。私はジョンが米軍の長い編上靴をくれたので大分助かった。
その後、ジョンとは会話も大分慣れて親交も深まっていった。ある時ジョンが、今度の日曜日に私の家に遊びに行きたいと言いだした。私は何もできないが喜んで承諾し、街中で落ち合い自宅に案内した。いざ迎えはしたが、物資のない当時、何のもてなしもできない。彼は土産として母に砂糖、缶詰、コーヒー等を持参し、私に七つ道具付のナイフと高級な「ライター」を持ってきてくれた。(私はこの品をその後記念として10年以上愛用した。)母の手作りの「イモの天ぷら」と「焼イモ」を出すと喜んで食べてくれたので安心した。また日本茶もどうにか飲むことが出来た。これくらいのもてなししかできず、また土産としてやる物もなかった。ジョンは初め、あぐらをかいて座っていたが、我慢していたらしくそのうちモジモジしだしたので、妹の勉強机の椅子を持ってきたらやっと安心して落ち着いたようだった。
まもなく、アメリカ兵も遂次本国に帰還が始まり、そのうち色々な思い出を残しながら、ジョンとも別れることになった。私も兵舎の仕事から開放され本務につくことになった。ジョンがその後アメリカ本国でどんな暮らしであったか、私は英語も忘れてしまったが、時々思い出されてなつかしい。戦争のない平和のありがたさを痛感するとともに、もしも、今後、核保有国間で戦争が始まれば、広島、長崎の悲惨な状態の数倍の被害が相互の国を壊し、地球の崩壊につながることを各首脳は考えるべきで、核の全面廃棄を願うものである。
原爆犠牲者のご冥福を祈りながら、戦争から平和に移行した思い出すままの体験記である。

(平成19年11月寄稿)