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私の被爆体験3

ページ番号:0002113 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私の被爆体験~ 吉野ツギノさん(諫早市高来町)の被爆体験

私は渕中学校を卒業してすぐ三菱幸町工場に就職して、被爆当時は16歳でした。妹たちはまだ学校に通っており、学校から田舎に親戚があればそちらに疎開するように言われていたので、家族全員で長田に疎開していました。大波止の水産場で働く父、トンネル工場で働く兄と一緒に、長田から汽車で仕事に通っていました。
当時、私の働いていた幸町工場には防空壕がなかったので、交代で阪本町の山に防空壕を掘りに行っていました。私は前日の8日が防空壕掘りの当番で、9日は工場勤務の予定でしたが、友達が「長浜さんも今日防空壕掘りに行こう。私が班長さんに頼んでくるけん。」と言って、班長にかけ合ってくれたので、私は9日も阪本町の山まで行くことになりました。
9日の11時ごろ、防空壕の入口で休憩していると、「爆音がしたぞ」という声が聞こえて、立ち上がった瞬間、物凄い爆風で防空壕のなかに吹き飛ばされました。なにが起こったのか、ぜんぜん分かりませんでした。そのうち「大丈夫か。けがはないか?」「長崎は全滅だ」という声がして、防空壕の外に出てみると、私は驚きのあまり座り込んでしまいました。長崎の町は火の海で、真っ黒な煙が上がり、足元はけがを負った人と亡くなった人と黒焦げになった人だらけでした。私も目のところとひざをけがしていましたが、それすら気付きませんでした。畑に倒れたけが人が目を真っ赤にして「助けて」とうめきながら、私の足首をつかんできます。その拍子に芋づるに足を取られて倒れこみました。ちょうどそのとき目の前の地面にキュウリが転がっていたので、水ほしさに必死にそれを食べました。丸2日、けが人と死人の間に折り重なるようにして眠りました。もしかして父がこちらの方に逃げてきてはいないかと、「父ちゃん、父ちゃん」と父親を呼んで探して回りましたが、見つかりませんでした。ふと「こんなふうに倒れとって死んではだめだ。長田に帰れば父と母がいる。家に帰ろう。」と思い立ち、そう思うと元気が出てきて、3日目の朝に大橋のほうに歩きだしました。途中、赤十字の帽子を被った人に「あなたは全身をけがしているから、山のずっと上のほうに赤十字の治療所があるから、そこで治療を受けなさい」と教えられましたが、あたりは煙でいっぱいでどこにあるのかも分からないうえ足も思うように動かないので、とうとう行けませんでした。
大橋まで来たとき、歩いていると軍服を着た兵隊さんと会いました。「あんたはどこに行くとね」と聞かれたので、肥前長田までだと答えると、「自分は鳥栖まで行くから、私の背中に乗りなさい。」と私を背負ってくれようとしました。その兵隊さんは休暇で帰ってきていらっしゃって、妹さんと浜の町で買い物をしているときに爆弾にやられたということでした。妹さんは親せきの家にあずけて、鳥栖へ戻ろうと駅へ向かっているときに、私に会ったのでした。兵隊さんは自分たちの起こした戦争のせいで長崎に爆弾が落ちたことに責任を感じてか、「すまんなあ、すまんなあ。」としきりに謝って、私を抱きかかえるように支えながら、道ノ尾駅まで連れて行って汽車に乗せてくれました。原爆投下から3日経っていたので、そのころにはあまり負傷者はいなかったようでした。汽車に乗るときにデッキの窓ガラスで、原爆にあってからはじめて自分の顔を見ました。真っ黒に焼けた自分の顔がおそろしくなり、思わず手で顔をおおってしまいました。服がぼろぼろになっているのは自分で分かっていましたが、自分の顔を見るのははじめてだったのです。
突然長与駅付近で汽車が止まって、空襲警報が鳴り出しました。汽車の外に避難しろ、と言われ、乗客は皆デッキから飛び降りるように避難しました。兵隊さんに、逃げましょうか、と聞かれましたが、「いいえ。私はもう逃げきれません。そちらだけ先に逃げてください。」と言って、汽車の座席の下にかくれました。「もうここで死んでもかまわない」とも思っていましたが、兵隊さんは「あなたが死ぬときはぼくも一緒です。」と、私の体におおい被さるようにしてかばってくれました。「あなたは若かけん、まだ生きてがんばらんばよ。死ぬのなんのと言わずにがんばりなさい。今まで生き残ったのだから、今から元気にならなくては。」と私をはげましてくださいました。そのとき兵隊さんの戦闘帽に、糸で”ヤナギサワ”と縫い取りがしてあるのを見て、「ああ、この人はヤナギサワという人なんだ。ヤナギサワさんにこんなに親切にしてもらったのに、死んでもいいと思ってはだめだ。」と思いました。長田駅に着くと、兵隊さんは私をホームに抱え下ろしてくれました。列車の窓から身を乗り出して、帽子を振りながら「元気でがんばりなさいね。さようなら、さようなら。」と見送ってくれました。今でも、そのヤナギザワという名前を忘れることはできません。
駅には父母や兄弟、親せきが待っていてくれて、「あら、今けが人がおりてきたとは、あれは誰やろか。男やろか女やろか。」と言い合っていました。
「母ちゃん、母ちゃん」と大声で呼びながらかけ寄りましたが、最初はみな私とは気付かず逃げていくのです。けが人が私だとわかると「生きとったとな」と私を抱きしめてくれました。父も兄も9日の夜に長田へ帰ってきていたのですが、私だけがもう3日も帰ってこないので、遺骨を探しに行かなければならない、と思っていた矢先のことでしたので、家族はとてもよろこんでくれました。はだしだったので叔母がわらぞうりをはかせてくれ、リヤカーに乗せて長田小学校まで連れて行ってくれました。小学校もけが人と死人でごった返していました。
私が働いていた幸町工場で働いていた人はみんな亡くなってしまったそうです。私は、防空壕掘りに誘ってくれた友達とそれを許してくれた班長さんのおかげで、助かったのでした。
原爆のおそろしさは、実際にあってみなければ分かりません。「あなたは原爆手帳を持とっけん、病院代がタダになるもんね。いつでも好きなときに病院に行ってよかたい。」と心ないことを言われるのがいちばん辛く感じます。

(平成22年7月聞き取り)