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十五の夏

ページ番号:0002111 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~十五の夏~ 中道義若さん(諫早市本明町)の被爆者の救護活動

あの日、私は母と一緒に田んぼで草取りをしていました。途中で腰が痛くなったので立ち上がって伸ばしていた時に、突然、長崎の方角の空が、ぱぁっと一面、オレンジの夕焼け色に光りました。その後数秒して、今度は、ドーンという音と共に地響きが伝わってきました。そしてさらに数秒後、稲の葉っぱが向こうから順に風になびくのが見えました。しばらくすると、空がまるで墨をこぼしたように、黒雲で真っ黒になっていきました。
次から次に起こる、今までにない体験に「これは大変なことが起きた」と直感しましたが、当時は広島に新型爆弾が落ちたという程度の情報しかなく、詳しい被害などは知らされていませんでしたので、それから後の様子など予想だにできませんでした。
当時、私は、高等科(今の中学校)を卒業したばかりの15歳でしたが、警防団に入っていたため、午後4時頃呼び出しを受けました。諫早駅に救援列車が来るというのです。私達が駅に着いた時にはもう、列車は到着していました。そこで目に入った光景は、まるで地獄絵図のようでした。ホームから待合室、広場まで、体中が焼けただれた人々であふれていました。重傷の人は海軍病院(現諌早総合病院)へ運ばれ、私達は歩ける人を何十人かまとまった形で教員養成所(現北諫早中学校)まで連れていくことになりました。肩を支えたりしながら、共に歩いていきました。辺りの学校は全て、そういった収容所になっていたと思います。
次の日は、朝から呼び出しを受け、また諫早駅前に集合後、指示に従ってあちこちに分散しました。私達は海軍病院へ行くようにと言われ、「何だろう」と思っていたところ、死体安置所へと連れていかれました。むしろの上に寝かされ、さらに上からむしろをかけられた遺体が4体ありました。正応寺(天満町)へと運びましたが、すでに遺体でいっぱいだったために受けつけてもらえず、遠い火葬場まで運びました。帰るとまた遺体があり、3~4回往復したように記憶しています。
明くる日は、火葬場での遺体処理でした。幅3メートル長さ2メートル、深さ1メートルぐらいに穴を掘り、廃屋を壊して運んで来た木材を切り穴にしきつめてから遺体を10体ほど並べ、その上にまた木を並べて、ガソリンをかけて焼きました。空襲があるので、昼間しか焼けません。朝、火を点け、4時頃まで焼くのですが、焼け残るので棒でつついたりもしました。むごいことをしたと思いますが、当時はかわいそうだという風に考えていると精神的にとても耐えられない状況だったのです。何も考えずにいる事しかできなかったのでした。
次の日、火葬場へ行くと、また遺体がたくさん運ばれているので、さらに2日間ぐらい行って焼きました。火を点けると、その後は焼けてしまうまでの時間、木材を切り焚き物を作りました。運ばれてくる遺体は、皮がはげたり、うじがわいたりしていて、その死臭は何年たっても忘れることができませんでした。
戦争が終わり、10年後の昭和30年くらいからは体調が悪くなり、夏の暑い時期は全く仕事ができなくなりました。日中、暑くなると吐き気がして、だるくて体が動かないので朝5時頃、まだ暗いうちからの涼しい時間帯に畑仕事をして、昼間は横になっています。若い時には運送の仕事をしていましたが、夏は1ヵ月くらい休みをもらっていました。他の時期に一生懸命仕事をしたので、会社も大目に見てくれたのでした。今でも、夏は地獄です。30年前には、大腸がんの手術もしました。
今回、初めてあの夏の体験を話しました。経験した者が、もうほとんどいなくなったと言われたからです。30人余りいた当時の警防団の仲間も、今では5人になってしまいました。これまで家族にすら話したことがなかったのは、やはり思い出したくない、辛い体験だったからに他なりません。
もう、二度と戦争だけは起こしてほしくない、そう強く願っています。

(平成19年7月寄稿)