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被爆者を肩に支えて

ページ番号:0002110 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

池邊翠さん(諫早市八天町)

当時、私は県立諫早高等女学校の動員学徒生徒隊長として、第21海軍航空所発動機部工務人事学徒係に勤務しておりました。8月9日、午後2時半過ぎ頃、学校より呼び出しがあり、登校すると、「長崎から負傷者が諫早駅に運ばれるから、各工場に連絡をとり担架を持ってできるだけの人数を集めて、諫早駅に待機するよう」との指令を受けました。
そこで急いで工場に戻り、工場主任の許可を仰ぎ各工場に以上の指令を伝達しました。
各工場から集まった友達と学校へ行き、竹で編んだ担架を持って諫早駅に走りました。
駅には30人位の同級生、他に下級生、他校の男子が集まっており、諫早高女から、江口、山田、向井先生らがみえられました。4時頃だったと思います。
しばらくして、第1ホームに貨車が到着しました。私たちは担架を持ってそこへ走り、貨車の中を見た途端、一瞬息をのみました。ほとんどの人が裸かそれに近い状態で、これが人間だろうかと思うくらいでした。私と安永さんは、入口に近い人から、まず25歳位の女性を当時の海軍病院(現在、諫早病院)に竹製の担架で運んだのです。次に運んだ人も女性でしたが、この方は火傷が酷く、唇も膨れ上がり、かなり苦しそうでした。途中、竹の節目が体に当たって、痛い、苦しいと言われます。担架から降ろし、私の肩に支え、安永さんが手を貸して運びました。3人目の方は男性でしたが上衣はなく、ズボンの布端が腰のベルトあたりに残っているだけの酷い格好でした。先ほど担架から降したので、誰かに担架を使われてしまい背中におんぶをしたような格好で、山口、馬渡、山口スミエさんらと一緒に運んだのです。その日は6人か7人運んだと思いますが、海軍病院の庭もいっぱいになっていました。やがて汽車通学者はその場で帰宅してよいということで午後7時頃作業を終了いたしました。
帰りの列車は先ほど被災者を降したばかりの貨車です。車内には異様な臭気が充ちており、入口の大戸を開け、首を出して帰りました。服にも身体にも汚物、臭気が染みて気持ちが悪く、また被爆者の有り様が目の前にちらつき、その日の夕食を取れなかったことを覚えています。
この後、12日まで、毎日早朝から工場に出動した後、学校に行き、看護に従事いたしました。