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一人の女子青年団の記録

ページ番号:0002109 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

西村ミツエさん(諫早市小野島町)

一家の柱と頼む兄は、出征し、年老いた父と兄嫁、1歳の子どもに私の4人。今から33年前。旧姓本田ミツエ(現西村)川床名上。山を一つ越えれば有喜、当時その山は、軍部の守りで固められ、山近くの農家の納屋、または大きな家は、ほとんど軍部の軍用に取られ、弾薬倉庫、食糧倉庫、または道具入れと使われていました。家の中から一歩外に出れば、異様な体制と不安の中に食糧増産と、命令のままに「欲しがりません勝つまでは」と固い信念に燃え毎日を銃後の守りとして励んだのでした。その日は、茹でるような暑さの中に田圃で田の草取りをしていました。突然、目もくらむような光、物凄い音、私も義姉さんと田圃の中に伏せました。やっと気がついて顔を上げて見ると、大きな入道雲、今に聞けばきのこ雲。生きている自分が恐ろしく、どんなにして家に帰ったかわかりません。空には真赤になって今にも落ちてくるようになった太陽を見たとき、もうこれまでと思いました。長崎の燃えかすが家の周りの芋の葉にいっぱい積もります。原子爆弾と聞いたのは次の日でした。知人、親戚、親を捜しに歩いて長崎まで行く人が夜昼家の下の道を通ります。婦人会の人たちは次の日から炊き出しに川床西林寺に行きます。義姉さんたちは手の皮が煮えるようだと言いながら毎日毎日出かけます。私、当時川床名上女子青年団の一員として川床名女子青年支部長旧姓神崎フジエさん(現納冨)より13日の夕方、翌日14、15日の2日間被爆者救護に出動するよう当時町内会長(亡山口久米七)さんより連絡があったことを知らされました。14日、朝6時半頃家を出て団員が次々に集まり引率者(旧姓山ロアサノ先生)現松田さんを先頭に団員11名は川床消防団と一緒に1里余りの道を防空頭巾と救急服に身を固め諫早に急いだのでした。
市役所の前で係の人の注意を二、三聞いた後、消防団の人とは別れました。私たちが係の人に連れられて行ったのは県立諫早高等商業学校でした。校内に川が流れていて橋を渡って教室に行きびっくりしました。何とも言えない臭い、出ている所は真黒く、目は見えない程に腫れ、「痛い、痛い、水を、水を下さい」と言葉にならない程の呻き声、手足も動かせぬ被爆者、蝿は顔にむらがって、追うことすら出来ない有り様でした。
私たち11人は山口先生の指図のもとに二つの教室に別れ二人一緒に組んで被爆者の看護に当たったのです。教室は足の踏場も無い位です。34・5歳の女の人、口だけもぐもぐ、私たちが近づくと目から涙を流していて、蝿が顔に、それを追うことも出来ず、痛いとも言えず、両眼から涙が出ているだけ。足元を見ると大小便の中に下半身は埋まったまま、膿のような汚物にも蝿がむらがって、人が通れば「ワッー」と、被爆者の体に移っていく。腰に付けている汚れ物を取ってやろうと、少し横にしてびっくり、体の下にはうじが身に食い入っている。箒とチリ取りを持って来て被爆者の下半身を浮かせ汚物を始末する。そしてわきにあった洋服のやぶれにて下を隠してやる。
隣りでは「水を、水を下さい」と泣く。湯さましを持って来ても、そのまま飲めません。手を洗ってきて手のくぼみに入れ、指と指とのすき間から少しずつ落として飲ませる。「ありがとう」と言った人、間もなくして亡くなった。
薬の付け替えに係の人が来られた。病院の先生だろう、国防色に身を固め、黒い薬の入った缶をぶら下げて来られた。私達はその係の人が薬を付けやすいように、座れるような人はそっと抱くようにして起こしてやり、どうにもできない人は横に体を抱いたように浮かしてやる。背中いっぱい薬を付けてもらう人、背中に貼り付けてあった紙を一息にぱりっとはがす。はぎ取られた患者は拳を握りしめ歯を食いしばり、深い谷間に突き落とされたような呻き声を出しながら、痛さに耐えている。生き地獄とはこのことだろうか。そこ、ここから泣く声と呻く声、薬を付けていただいて良くなりたい一念に生きようと一生懸命に堪えている被爆者。薬の付けやすい所の手足には、欠けた茶碗のような物に分けてもらい、指で付けてやる。黒々と「どろっ」とした薬だった。誰もが口をきかない。次から次に我を忘れて一生懸命だった。
朝、大便の掃除をしてやった人も亡くなった。生きながらうじに食われ、肉親に会うこともなく、消防団の人が担架を持ってきて乗せていく。後始末に箒とチリ取りを持ってきた。背中の下にいたうじ虫、主を無くし別の所に散らばって行く。掃きよせても床の板目から出て来る。床板には今まで寝ていた被爆者が、黒く版画で押したようにくっきりと形を残している。
汚物を掃き取り、ごみ焼きはどこかと裏に出てびっくり。そこには元大八車といって市役所のごみ取り車、その大八車に死体をいっぱいに乗せ、今私たちの所から連れて行かれた婦人が足と肩を持って1、2の3と積み上げられる場面だった。私の足はがたがた、棒立ちになりただ手を合わせ念仏を唱えた。大八車には死体が積みかさねられ、一枚のござを被せ裏口より消えて行く。
汚物を持って、捨てる所がわからず、火を燃やしている所に行ったら、市役所の人たちが3、4人一生懸命に紙を破って燃やしている。「これは」と言ったら「それはあっち」、「これも燃やした方が」と言うと「これは薬だから」と。言われた指定の場所に汚物を置き、急いで教室に戻る。おにぎりが来ていた。
係の人が「重病人が多いから当直室で二人ばかりで少しおも湯を作って来てくれ」と言われていた。私は若い男の人が「痛い、痛い、起こしてくれ」と泣きながら叫ぶのでそこに行った。全身にガラスが突き刺さっていて、化膿し膿が出、全身が腫れ上っていた。「お母さん、お母さん」と泣く二十歳前後の人、さすってやろうとしたら、「がざがざする、痛い」と言う。手の付けようにも薬もない。「どこ」と聞くと、「宮崎」と言う。「お母さんが来られますよ。頑張ってね」と言ったら、その人の目から涙が次々と流れる。可哀想で自分も涙が出る。そっと手を乗せてやった。握り返す力も無い様子。
おも湯が出来た、当直室より錆びたさじを見つけ出し、湯呑茶わんに分けてもらい被爆者の口もとに持っていく。目を閉じたまま口を開ける。でも二、三口食べると首を振る、一杯のおも湯も4、5人に食べさせる、食べる気力も無いのだ。ただ、「水を」とかすかに言うだけ。
今まで、水、水とせがんでいた婦人が、おとなしくなったと思ったらこと切れていた。可哀想に、手を胸に組ませてやった。指には大きな玉の指輪と金の指輪がささっていた。どこかの良い所の奥さんだろうと思った。消防団の人が担架を持って来てござを「ぴらっ」と被せて行った。さっき見た時のようにあの人も、と思うと、なにしろ悔しくなってきます。「お母さん、お母さん」と泣く子ども。時間を待っているような被爆者。
外が騒がしくなった。水欲しさに川に飛びこんだとのこと、どこの教室から出たかわからないので係の人が人員を数えていた。呻く声に行って見たら若い男の人、苦しさに悶えている。かすかに手を動かしたので握ってやった。「お母さん」と聞きとれぬような声、しっかりと握った。息を引き取られた、「宮崎」の人だった。
次々と被爆者を捜しに肉親の方も来られる。死体は次々と片付けられた。突然、半狂乱になった中年の女の人が我が子の名前を呼びながらわめいた。係の人が教室の入口で何か言う。校内の橋のわきに立てられた掲示板に我が子の名前があったとのこと、死亡した人は赤い線で引いてあるが線が引いてないのでここにいるとのこと、一人一人を捜す。
宮崎から来たと言われた時、私は「カーン」と何かで頭を打たれたようだった。「なぜ、10分前に、どうして早く」、お母さんの手を引っぱって裏門の所に連れて行く。やっと捜し当てたと思った親心、10分前に息を引き取るや大八車に捧げ入れられどこに行ったかわからない子、子を呼びながらご婦人は私の服が破れんばかりに揺さぶり、へたへたと床に泣き崩れる。
長崎の学校に進学させ、学徒動員として兵器工場で被爆したとのこと、宮崎よりすぐ両親が駆けつけ、我が子の名を呼びながら長崎の町を、足を棒にして矢上より歩いて捜しながら諫早に着いたのが14日の昼頃、諫早駅で主人と別れ小学校、中学校、最後にここに来た。ごめんね○○ちゃん、張り裂けるようなお母さんの声。「お母さん子どもさんには最後の水は私が飲ましてあげましたよ。この手でしっかり握ってやりました。」と言うと、婦人は私の手を顔にすり付けて泣きじゃくりながら「ありがとうございました。○○ちゃんお水を飲めて良かったね」と、ワナワナと震える手で私の手を握りしめる。そして係の人に「ありがとうございました。市役所に行ってお骨を分けていただいて帰ります」と深々と頭を下げて出て行かれた。
一日中我を忘れ、くたくたとなり夜の救護班の人と代わり朝来た道を家路につく。途中、みんな物も言いません。私は夜は眠ることが出来なかった。
15日の朝も昨日と同じくすぐ学校の方に行く。死亡した被爆者が教室に2、3人おられる。まだ朝早いので消防団の人は来ていなかった。婦人会の人と交代して私たちは任務につく。
橋のわきに立っている掲示板の名前にはだいぶ赤く線が引いてある。何人かの昨日の人の姿も見えません。係の人が赤痢患者が出た奥の教室には近寄ってはいけないと言われる。私たちは係の人の言われるままに、汚物の取替え、薬の付け替えの手伝い、湯冷ましと一生懸命に看護する。
係の人から、今日正午に天皇陛下の放送があるので手を休めてラジオの前で聞くように、とのこと。
でも次々と亡くなっていかれる被爆者から手を離すことも出来ません。夕方、婦人会の人と替わりの日間の看護に一生懸命頑張り、くたくたになった足でまた1里余りの道をてくてくと歩いて帰る。7時半頃家に着く。頭が痛く吐気があってほとんどの人が3日間から1週間位寝込んだ。
今、私は小野島に嫁ぎ、37年前の宮崎のご婦人位の年となって、我が子も遠くの学校に進学させ、母親の子を想う心がはっきりとわかりました。あの時のお母さんの血のにじむような目、ワナワナと震える手、しっかりと固く握りしめた感触が今もって私のこの手に、この心に一生刻み込まれています。名前すら聞く余裕はないのでした。二度とこんな痛ましいことは起こさないようにと私たちに、先亡者は陰で願っておられることと思います。
原爆の犠牲となり、私どもに生き地獄の姿をこの目、この手に伝えられた被爆者、世界の平和を、長崎県人の一員として心から叫びたいのです。私たちはこの人たちの苦しみ、投げ交わされた目、握りしめた手、次の世代の平和の証として身を持って体験した事実をここに記させていただきます。