ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画財務部 > 企画政策課 > 私の被爆体験4

本文

私の被爆体験4

ページ番号:0002108 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

~私の被爆体験~ 山口正則さん(諫早市川床町)の被爆者の救護活動

昭和20年は、私は、県立諫早農業高校の前身、県立農学校の3年生(16歳)で、8月9日は、学校の農場で農作業をしていました。翌日からは諫早に運ばれてきた負傷者の救護活動に携わりました。その後は長崎に入り、数日間長崎医科大学付近などで、被災地の後片付け作業に携わりました。そのとき諫早駅や諫早市内の学校に運ばれてきた被爆者の悲惨な姿は今も脳裏に焼きついています。当時のことを詳しくお話します。

当時の農学校は、授業はありはしましたが、ほとんど農作業でした。2年生になると、授業はほとんどありませんでした。1年生の終わりごろから食糧増産や軍事教練ばかりで、勉強という勉強はありませんでした。その前の年の3年生が、食糧増産のために北海道や満洲に行っていました。私たちは「やっぱり危ないだろう」ということで、どこにも行きませんでしたが、終戦になるまでほとんど勉強することはありませんでした。その間は、三八銃が40~50丁ぐらいあったと思いますけど、それを持って銃剣武術の訓練や剣道、槍を作って、敵に見立てたわら人形に刺す訓練をしていました。その頃から空襲が始まったので、警報がなったらすぐに学校の中にある防空壕に逃げていました。
農場ではお茶やイモ、カボチャ、稲などを作っていました。それと小野の航空隊の近くに赤とんぼの飛行場があって、その近くの吉永農場というところで水田を開墾して、米を作っていました。寺峰農場というところでは、牛や豚を飼っていました。あそこは個人の土地を買収したものだから、まだ何かを育てるということはできませんでした。食糧増産が主な目的でしたから、ほとんどイモやカボチャなどの野菜でした。他の学校の学生は軍需工場やなんかに行っていましたけど、私たち農業学校は、食糧増産のために野菜ばかりを作っていました。
8月9日当日は、小野の農場で、イモ畑の草取りやお茶の手入れをしていたんです。それで、空襲警報が鳴ったので、防空壕に隠れていました。コの字型に掘られた防空壕の一番奥に隠れていました。ピカッという光を見た覚えはありません。ドーンという音は聞いたと思います。2時間くらいして防空壕から出たら、空が真っ暗になっていました。長崎の方からこちらに、黒い紙切れやなにかの灰がビラビラと飛んでくるんですよ。「ああ、これは大事だ」と感じました。字は読めませんでしたが、書類に使う和紙が飛んできていたので、大きな官庁かなにかが焼けたのだと思っていました。
農場から帰ってきたら、「長崎に大きな爆弾が落ちたらしい」という話が飛び交っていました。その頃から「日本はどうなるのかな」という噂はしていました。南洋へ行っても玉砕だし、その少し前には沖縄も占領されていましたし、空襲もほとんど毎日のように来ていました。以前はB29が高高度を飛んできていたのに、その頃は艦載機とかが運動場に機銃掃射をかけていくのです。そういうことがあって、「どうも日本はだめじゃないか」と感じていました。
その翌日ごろだと思うのですが、私達も学校の命令に従って、今の市役所があるところに、諫早商業学校というのがあって、そこと諫早駅のホームを往復して負傷者を運んだのです。負傷者は長崎から貨物列車で運ばれてきて、諫早駅のホームにごろごろと降ろされていました。トラックで来た人は、高等女学校に集めて部屋の中に収容したわけです。その様子を見ながら、当時は原子爆弾という言葉を知らないものだから、えらいことだと思いました。負傷者は、もう人の形をしていないんです。顔は真っ黒で、シャツはぼろぼろの有様でした。私たちの組は45人くらいいたと思いますが、組ごとに指揮者が違いますから色々なところに行ったと思いますが、ほとんどが諫早商業から海軍病院(現諫早総合病院)まで、ずうっと担架で運んだんです。それを1日に3~4回は繰り返したと思います。負傷者の苦しみようは大変で、軍人さんもおられたと思いますが、「水をくれー」とか叫ぶんですけれど、「水をやったらいけない」と最初に注意されているものですから、あげることはできませんでした。薬を塗るといっても、何か黒い薬を軍医さんらしき人が火傷したところに塗っていくんですけれど、もうそれが、言葉には出せないような苦しみだったんでしょう。とにかく「水をくれ、水をくれ」と苦しんでおられました。
原爆投下から数日後、道ノ尾駅まで貨物列車で行きました。長崎医科大学の近くに鳥居がありまして、それが一本足になって残っていました。あそこに行くときはものすごい異臭がしましたね。大学の付近は一面なにもないんです。原爆が投下された後は(原爆だと分かったのはもっと後だったんですが)「草木が1本もはえない」と聞いていました。学校としても、多分ジャガイモだったと思いますが、生えるかどうかを調べる目的で長崎に入り、また被災地の片付けのために3日から1週間ぐらいは長崎に行ったと思います。
今は被爆者団体の地区の代表をしていますが、今後の課題は被爆二世対策です。被爆二世への恩典は、ほとんど何もないので、今後の活動を引継いでいくためにも、被爆二世の問題を中心に活動していこうと思っています。

(平成16年に収録したビデオテープの内容を、平成22年に編集)